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教会には​色々な​種類の​役務が​ありますが、​その​目的は​一つ、​つまり​人々の​聖化です。​そして​この​聖化の​仕事には、​洗礼と​堅信の​秘跡で​受けた​印章に​よって、​すべての​信者が​何らかの​形で​参加します。​私たち全員が​キリストの​使命である​この​教会の​使命に​対して​責任を​感じていなければなりません。​人々の​救いを​熱心に​望まない​人、​キリストのみ​名と​教えが​知られ愛されるように​全力を​挙げて​努力しない​人は、​教会の​使徒継承と​いう​特徴を​理解できないでしょう。

​ 何もしない​キリスト者は、​キリストが​私たちに​期待しておられる​ことが​分から​ずじまいと​言えます。​自分の​ことだけを​考えて、​人々の​救いに​ついては​何も​考えない​キリスト者は、​イエスの​聖心で​人々を​愛しているとは​言えないのです。​使徒職とは、​位階制に​属する​人や​司祭や​修道者だけの​使命では​ありません。​すべての​人は、​模範と​言葉で、​永遠の​生命に​至る​この​恩恵の​流れを​伝える​道具に​なるよう、​主の​招きを​受けています。

​ 使徒言行録を​読む度に、​キリストの​弟子たちの​大胆さ、​使命に​対する​信頼、​犠牲を​ものともしない​喜びを​知って​感動します。​人々を​十把一絡げに​扱ったりしません。​大勢の​人が​やって​来ても、​使徒たちは​個別に​一人​ひとりに​接します。​フィリポは​エチオピア人に、​ペトロは​百夫長コルネリオに、​パウロは​セルジオ・パウロにと​いう​風に。

​ 彼らは​こう​いうやり方を​先生である​キリストから​学びました。​村の​広場で​仕事を​待っている​労働者の​喩え話を​思い出してください。​そろそろ夕暮と​なり、​ぶどう​畑の​主人が​出かけてみると、​未だに​手持無沙汰で​立っている​日雇い​労働者を​見つけました。​「なぜ、​何もしないで​一日​中​ここに​立っているのか」と​聞くと​「だれも​雇ってくれないのです」と​答えました。​こんな​ことは​キリスト信者の​生活に​あっては​なりません。​誰も​話してくれなかったので​キリストに​ついて​何も​聞いた​ことの​ない​人が、​信者の​周りに​居るような​ことが​あってはならないのです。

​ 人々は​しばしば神を​度外視しても​構わないと​考えていますが、​騙されています。​自分では​気づいていないが、​ベザタの​池の​回廊に​横たわっていた​中風の​人と​同様、​救いの​力を​持つ水、​心に​喜びを​与える​教えに​近づく​ことができないのです。​このように​「わたしを​池の​中に​入れてくれる​人が​いない」、​手を​貸してくれる​人が​いないのです、と​言う​人の​いる​事実は、​多くの​場合、​キリスト信者の​責任です。​すべての​キリスト信者は​使徒でなければなりません。​神は​実際には​誰を​も必要と​されませんが、​それにも​拘わらず、​私たちを​必要と​してくださいます。​救いを​もたらす​教えを​広げる​ために、​主は​私たちの​働きを​頼りに​してくださるのです。

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