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困難な​時代

 忘れてしまわないように、​教会とは​偉大で​深遠な​秘義である​ことを​頻繁に​黙想しなければなりません。​この​世に​生きている​間に、​この​秘義を​理解する​ことは​できません。​理性の​働きだけで​みるならば、​教会は​ある​種の​掟を​守り、​同じような​考え方を​する​人たちの​集まりと​しか​見えないでしょう。​しかし、​これは​聖なる​カトリックでは​ありません。

​ カトリック教会の​中で​カトリック信者が​見出すのは、​私たちの​信仰と​行動の​規範、​祈りと​兄弟愛、​また、​この​世を​去り、​今は​練獄で​清めを​受けている​(清めの​教会の)​すべての​兄弟たち、​ならびに​至福直観を​(勝利の​教会で)​楽しみつつ、​三重に​聖なる​神を​永遠に​愛する​兄弟たちとの​交わりです。​この​地上に​留まりながらも​歴史を​越えているのが​教会です。​聖マリアの​庇護のもとに​生まれた​教会は、​この​世と​天国で​マリアを​母と​讃え続けています。

​ 教会は​超自然的な​存在である​ことを​宣言しましょう。​必要ならば​大声を​挙げてでも​(信仰)​告白しましょう。​最近は、​教会の​内部で、​上層部でも、​この​重要な​真理を​忘れ去った​人が​大勢いるからです。​この​人た​ちが提案する​教会は、​聖でも​一でもなく、​ペトロと​いう​岩を​支えに​しないので、​使徒継承でもない。​また、​不当な​排他主義や​人々の​気紛れに​よって​切り刻まれているので​公​(カトリック)でもありません。

​ 別に​新しい​現象では​ありません。​主イエス・キリストが​聖なる​教会を​創設されて以来、​私たちの​母なる​教会は​常に​迫害の​苦しみを​忍んできました。​昔ならば、​公然と​攻撃したでしょうが、​今は、​陰湿な​攻撃が​多くなっています。​昨日も​今日も、​教会への​攻撃は​続きます。

​ 繰り返しますが、​私は​気質も​性格も​悲観的では​ありません。​主が​世の​終わりまで​共に​いると​約束されたのですから、​悲観論者である​ことなどできません。​高間に​集う​弟子たちに​聖霊が​降り、​初めて​教会が​公に​姿を​現したのでした。

​ 私たちが​よく​分かる​よう、​聖書は​生き​生きした​表現を​使っています。​「ご自分の​瞳」のように​私たちの​世話を​してくださる​優しい​父なる​神は、​愛する​御子が​建てられた​教会を​絶えず​聖霊に​よって​聖化なさいます。​しかし、​教会は​今、​困難な​日々を​過ごしています。​人々に​とっても​大変困難の​時です。​様々な​ところで​混乱を​撒き散らす​叫びが​起こり、​昔の​誤謬が​すべて​生き返って​大声を​あげています。

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