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可視的​(目に​見える)​教会と​不可視的​(目に​見えない)​教会を​分ける​ことのできないわけが​もう​お分かりでしょう。​教会とは​神秘体であると​同時に​法的な​体なのです。​「教会は​体である​ため、​目に​見える​ものである」と、​レオ十三世は​教えておられます。​教会の​目に​見える​体、​言い​換えれば​この​地上の​教会を​構成する​人間の​振舞いには、​惨めさや​迷いや​裏切りが​現れます。​しかし​教会は​それだけで​終わる​ものでも、​そのような​誤った​行為と​同一視される​ものでもありません。​それどころか、​今この​地上に​おいて、​物惜しみしない​態度や​英雄的な​信念、​聖なる​生活が​たくさん​見られます。​ただ、​彼らは​騒ぎ立てず、​信仰に​おける​兄弟や​すべての​人々に​仕える​ために​喜んで​骨折っているのです。

​ 次の​ことも​考えてください。​仮に、​義務を​果たさない​人や​すぐに​屈伏する​人の​方が​勇敢な​人々よりも​ずっと​多いと​しても、​感覚で​捉える​ことは​できないけれど明白で​否定しが​たい​この​神秘的な​現実、​すなわちキリストの​体、​私たちの​主ご自身、​聖霊の​働き、​御父の​慈しみ深い​現存が​依然と​して​残っています。

​ 従って、​教会は​人間的であると​同時に​神的な​ものです。​「教会は​その​起源から​見て​神的な​もの、​その​目的と​目的に​向かう​ための​手段から​見て​超自然的な​ものである。​しかし、​人間に​よって​構成されているので​人間の​共同体である」。​この​世界に​生き、​活動するけれども、​その​目的と​力は、​この​世にではなく、​天に​あるのです。

​ 俗に​言う、​真に​キリストに​よって​設立された​と​称される​カリスマ​(賜物)​的教会と、​人間の​業と​歴史的偶然の​結果と​称される​法的あるいは​制度的な​教会とに​分けて​考えるのは​大変な​間違いです。​教会は​一つだけです。​キリストは​唯一の​教会を​建てられました。​すなわち見えると​同時に​見えない​教会、​位階的に​組織された​一つの​体と​しての​教会、​神法を​基礎構造に​持ち、​生気を​与え、​支え、​生かす力を​持つ​秘められた​超​自然の​生命を​有する​教会です。

​ また次の​ことを​思い出さないわけには​いきません。​主は​「分離した​数多くの​集団から​成り​立つ教会を​計画し、​創立されたのではない。​類似しては​いる​ものの、​唯一で​不可分と​いう​一致の​絆には​結ばれていない​教会を​建てたのではない。​…イエス・キリストが​この​神秘的な​建物に​ついて​話した​とき、​一つの​教会だけを​自分の​教会と​呼び、​『わたしは​わたしの​教会を​建て​よう』と​言った。​従って、​この​教会以外の​教会は​イエス・キリストに​よって​建てられた​ものではないことになる。​他の​教会を​キリストの​真の​教会であると​考える​ことは​できない」のです。

​ 繰り返します。​信仰が​必要です。​今日祝う​至聖三位一体の​神に​願って、​私たちの​信仰を​増していただきましょう。​何が​起ころうとも、​三重に​聖なる​神は​その​花嫁を​お見捨てには​なりません。

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