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役目上いかに​高い​地位に​就(つ)いていても​同じですが、​とにかく​教会に​属する​人に​欠点や​惨めさが​認められるからと​いって、​教会と​キリストに​対する​信仰が​弱くなると​いう​人が​いると​すれば、​そういう​人は​あまり​成熟していないと​言えるでしょう、​教会を​治めるのは、​ペトロでも​ヨハネでも​パウロでもなく、​聖霊です。​しかも、​主は​「世の​終わりまで​いつも」教会の​傍に​いると​約束なさいました。

​ この​点で​意見を​同じく​する​聖トマスは、​成聖の​恩恵を​与える​手段で​ありしるしである​秘跡に​あずかる​ことに​ついて​説明しています。​「秘跡に​近づく​人は、​確かに​教会の​聖務者​(役務者)から​それを​受ける。​しかし、​それが​誰それだからと​いう​理由でなく、​教会の​聖務者であると​いう​理由で​受ける。​それゆえ、​教会に​よって​秘跡の​授与を​認められた​聖務者の​授ける​秘跡を​受ける​人は、​ふさわ​しくない​聖務者の​罪に​あずかる​ことにはならず、​教会と​交わる​ことに​なるのである」。​主が​お認めに​なるゆえ、​人の​弱さが​表に​現れた​なら、​母親が​病に​伏しているとか、​薄情な​仕打ちを​受けた​時のような​反応を​すべきでしょう。​すなわち、​もっと​愛さなければならない、​心の​中でも​行いにも、​もっと​愛情を​示さなければならない、と​いう​ことです。

​ 教会を​愛する​人なら、​幾人かの​教会の​子らの​惨めさを​母なる​教会の​過失であるかのように、​公に​言い​触らすような​病的とも​言える​態度を​とる​ことは​ないでしょう。​キリストの​花嫁である​教会が​「我が​過ちなり」と​先唱する​必要など​ありません。​「我が​過ちなり、​我が​過ちなり、​我がいと​大い​なる​過ちなり」と​言うべきは、​確かに​私たち人間なのです。​これこそ本当の​意味で、​自分の​過ちを​認める​態度、​個人的な​メアクルピズムです。​これなら、​聖なる​教会の​中で​人間が​犯す過ちを​大袈裟に​言い​立てて​教会を​攻撃する​ことには​なりません。​ところで、​人間の​過ちも、​教会の​根源的で​構成要素と​なる​聖性を​破壊する​ことは​もちろん、​それに​触れる​ことさえできません。

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