教会に忠誠を尽くす

1972年6月4日 聖霊降臨第二主日


今週の​日曜日の​典礼文は、​主に​呼びかける​一連の​祈りと​なっています。​主は​私たちの​支え、​岩、​保護者とお呼びします。​ 祈りも、​「御身は、​御身の​愛に​固く​立つ​人々から、​光を​取り去る​ことはない」、​入祭唱と​同じ​テーマを​扱っています。

​ 昇階唱でも​主に​訴え続けます。​「艱難の​とき、​わたしは​主に​叫ぶ…、​主よ、​わたしの​霊魂を、​不義の​唇より、​偽りの​舌より​救い​給え。​主よ、​御身に​寄りすがり奉る」。​何が​起ころうとも、​常に​わたしの​慈しみに​助けを​求めよと、​幾度も​繰り返し​思い出させてくださる​父なる​神の​辛抱強さには​感動させられます。​混乱した​声が​教会を​傷つけている​今も​そうな​さっているのです。​今は​正道を​踏み外している​時期だと​言えます。​大勢の​人々が​善き牧者、​主の​愛へと​導く​もう​ひとりの​キリストに​出会う​ことができず、​出会うのは​「盗み、​殺し、​滅ぼすために」来る​「盗人と​強盗」だからです。

​ しかし、​恐れる​必要は​ありません。​キリストのからだである​教会は、​善き牧者の​不滅の​道であり囲い場、​すべての​人々の​ために​開かれた​確固たる​拠り所であり、​通り道であるはずなのです。​聖福音書の​言葉を​読んだばかりです。​「通りや​小道に​出て​行き、​無理に​でも​人々を​連れて​来て、​この​家を​いっぱいに​してくれ」。

ところで、​教会とは​何でしょうか。​教会とは​どこに​あるのでしょうか。​方向を​見失い​困惑した​大勢の​キリスト者は​これらの​質問に​対して​確実な​答えを​得る​ことができないので、​教導職が​幾世紀にも​わたって​公式に​表明し、​優れた​カトリック要理が​まことに​単純明解に​説明してきた​事柄〈過ぎ去った​もの​〉を​新しい​説明に​替えなければならないと​考えるかもしれません。​一連の​出来事や​困難が​寄り集まって、​教会の​清楚な​顔に​影を​落と​しています。​教会は、​ここ、​いわゆる​〈現代〉に​適合させる​努力に​こそ存在する、と​言う​人も​いれば、​人間の​連帯志向に​過ぎないから​現在の​状況に​合わせなければならない、と​言う​人も​います。

​ いずれも​間違った​考えです。​教会は​今も、​キリストが​創設な​さった​ものであって、​他の​何ものでも​あり得ません。​「使徒たちと​その​後​継者は、​信仰と​秘跡を​土台とした​教会を​統治する​神の​代理者である。​彼らが​(キリストの​教会とは​異なる)​他の​教会を​設立する​ことが​正当でないように、​他の​信仰を​伝え、​他の​秘跡を​制定する​ことは​できない。​教会は、​十字架に​掛けられた​キリストの​脇から​流れ出る​秘跡に​よって​建てられたのである」。​真の​教会を​見分ける​しるしは、​初期の​公会議の​使徒信経に​表明され、​ミサの​信仰宣言で​告白する​「一、​聖、​公、​使徒継承」です。​この​四つは、​キリストの​望まれた​教会の​本質から​出た​もので、​教会の​本質的特徴と​言われます。​それは​本質を​示すものですから、​同じ​キリストの​御名を​呼ぶとは​いえ、​人間的な​制度に​過ぎない​他の​ものと​区別する​しるしと​なります。

​ 一世​紀ほど前に​教皇ピオ九世は、​この​伝統的な​教えを​簡潔に​要約されました。​「イエス・キリストの​真の​教会は、​神が​与えた​四つの​特徴に​よって​見分けられる。​この​特徴を​私たちは​信経の​中で​信ずべきことと​して​唱えるが、​四つは​互いに​結ばれていて、​一つ​ひとつを​別々に​する​ことは​できない。​従って、​真に​カトリックであり、​カトリックと​呼ばれる​教会は、​同時に、​唯一、​聖、​使徒継承の​特権が​輝いていなければならない」。​最近、​この​伝統的な​教えは、​偽りの​エキュメニズムに​走る​人たちに​忘れられていますが、​第二バチカン公会議が​改めて​繰り返した​ものです。​「これが​唯一の​カトリック教会である。​私たちは​信経の​中で、​この​教会を​唯一、​聖、​公(カトリック)、​使徒継承と​宣言する。​私たちの​救い主は​復活の​後、​この​教会を​牧するようペトロに​渡し、​それを​治めるようペトロと​他の​使徒たちに​委ね、​それを​『真理の​柱と​基礎』と​して​永久に​立てた」。

教会は​一つである

​ キリストは​御父に​嘆願されます。​「わたしたちのように、​彼らも​一つとな​(りますように)」。​「父よ、​あなたが​わたしの​内に​おられ、​わたしが​あなたの​内に​いるように、​すべての​人を​一つに​してください」。​イエス・キリストは​一致を​勧める​言葉を​絶えず​繰り返されます。​「どんな​国でも​内輪で​争えば、​荒れ果ててしまい、​どんな​町でも​家でも、​内輪で​争えば​成り​立って​行かない」からです。​主の​教えは​熱い​望みに​変わります。​「わたしには、​この​囲いに​入っていない​ほかの​羊も​いる。​その羊を​も導かなければならない。​その​羊も​わたしの​声を​聞き分ける。​こうして、​羊は​一人の​羊飼いに​導かれ、​一つの​群れに​なる」。

​ 主なる​神は​何と​感嘆すべき調子で​話された​ことでしょう。​私たちが​この​一致への​情熱を​理解し、​それを​しっかり心に​刻み付ける​ことのできるように、​たくさんの​説明や​比喩を​使って​話してくださったのです。​「わたしは​まことのぶどうの​木、​わたしの​父は​農夫である。​わたしに​つながっていながら、​実を​結ば​ない​枝は​みな、​父が​取り除かれる。​しかし、​実を​結ぶ​ものは​みな、​いよいよ豊かに​実を​結ぶように​手入れを​なさる。​(…)​わたしに​つながっていなさい。​わたしも​あなたが​たに​つながっている。​ぶどうの​枝が、​木に​つながっていなければ、​自分では​実を​結ぶ​ことができないように、​あなたが​たも、​わたしに​つながっていなければ、​実を​結ぶ​ことができない。​わたしは​ぶどうの​木、​あなたがたは​その枝である。​人が​わたしに​つながっており、​わたしも​その​人に​つながっていれば、​その​人は​豊かに​実を​結ぶ。​わたしを​離れては、​あなたがたは​何も​できないからである」。

​ 教会から​離れる​人々も、​葉が​生い​茂るように​生き生きする​時が​ありますが、​遅かれ早かれ枯れてしまい、​その​実りさえ​蛆虫の​巣に​なる​ことは​お分かりでしょう。​使徒継承の​聖なる​ローマ・カトリック教会を​愛してください。​教会は​唯一です。​聖チプリアヌスが​書いているように​「教会の​外で​集める​人は、​キリストの​教会を​四散させる」からです。​聖ヨハネ・クリゾストムも​主張しています。​「教会から​離れてはいけない。​教会より​強い​ものは​何も​ないのだ。​教会は​あなたの​希望である。​教会は​あなたの​救いである。​教会は​あなたの​拠り所である。​それは​天よりも​高く、​大地よりも​広い。​決して​老いず、​その力は​永遠に​続く」。

​ 教会の​一致を​守る​心は、​ぶどうの​木である​イエス・キリストと​しっかり​一致して​生きる​努力に​表れます。​具体的に​どう​すれば​いいのでしょうか。​教会の​永続する​教導職に​対する​忠実の​度合を​増せばいいのです。​「聖霊が​ペトロの​後継者たちに​約束したのは、​聖霊の​啓示に​よって、​新しい​教理を​教える​ためではなく、​聖霊の​援助に​よって、​使徒たちが​伝えた​啓示、​すなわち信仰の​遺産を​確実に​保存し、​忠実に​説明する​ためである」。​そう、​汚れなき母なる​教会を​敬い、​ローマ教皇を​愛する​ことに​よって​一致を​守るのです。

教会には​ほとんど​人が​残っていないと​言う​人も​います。​そう​言う​人には​こう​答えさせてください。​もし、​皆が​キリストの​教えを​忠実に​守るなら、​教会は​すぐに​相当な​人数に​なるでしょう。​教会の​中で、​愛の​中の​愛である​キリストを​見出すことができます。​そこで​私たちは、​この​召し出し、​魂を​酔わせる​深い​喜び、​慈しみに​満ちた​イエスの​聖心の​清い​甘美を​すべての​人が​味わうようにと​願わなければなりません。

​ エキュメニカル​(教会一致)を​望むべきだと​いう​声を​しばしば​耳にします。​ぜひ、​そうなって​ほしい​ものです。​しかし、​私の​恐れている​ことがあります。​自称エキュメニカルの​背後に​欺瞞が​隠されているのではないか、と​いう​ことです。​キリストの​愛、​本物のぶどうの​木に​導かない​活動です。​だから、​実を​結びません。​心を​大きく​広げてください。​民族や​国家、​文化や​財産などの​区別なしに​すべての​人に​対して​持つよう主が​お与えに​なった​愛を、​超自然の​愛に​してくださる​よう、​私は​日々主に​お願いしています。​カトリック信者であるか​否か、​何らかの​信仰を​持つ​人か​残念ながらそうでないかを​問わず、​私は​すべての​人に​対して​心からの​敬意を​払っている​つもりです。​しかし、​キリストは​一つしか​教会を​創設されず、​唯一の​花嫁しか​持っておられないのです。

​ キリスト者の​一致だと​おっしゃるのですか。​その​通りです。​いや、​それ以上に​神を​信じる​すべての​人々が​一致していなければなりません。​ただし、​真の​教会は​一つしか​存在しません。​世界中に​散らばった​破片で​教会を​再建する​必要など​ありません。​清くなる​ために​浄化する​必要など​一切ないのです。​「キリストの​花嫁は​姦通者ではない。​教会は​不滅で​純粋であるから。​一軒の​家で、​貞潔な​慎みを​持って唯一の​閨を​神聖に​保つ。​教会は​私たちを​神の​ために​守る。​教会は​産んだ​子らを​天の​国に​導く。​教会から​離れる​者は​すべて​姦通者に​つき、​教会の​約束から​遠ざかる。​キリストの​教会を​捨てる​者は​キリストの​褒美を​手に​する​ことができないだろう」。

教会は​聖である

​ こうして​教会の​一性が​教会の​聖性に​つながる​こと、​また​聖性の​主な​側面の​一つが、​一に​して​三位の​神の​秘義を​中心に​している​ことがより​深く​理解できます。​「体は​一つ、​霊は​一つです。​それは、​あなたが​たが、​一つの​希望に​あずかるようにと​招かれているのと​同じです。​主は​一人、​信仰は​一つ、​洗礼は​一つ、​すべての​ものの父である​神は​唯一で​あって、​すべての​ものの​上に​あり、​すべての​ものを​通して​働き、​すべての​ものの​内に​おられます」。

​ 聖性とは、​神との​一致​その​ものの​ことです。​主との​親しさが​深ければ​深い​ほど、​聖性は​より​優れていると​いう​ことになります。​教会は​キリストが​お望みに​なり、​キリストが​創設されました。​こうして​キリストは​神のみ​旨を​果たされます。​そして​御子の​花嫁である​教会は​聖霊の​助けを​受けています。​教会は​至聖三位一体の​働きに​よる​もの、​聖に​して母、​私たちの​聖なる母です。​教会には、​根源的と​呼べる​完全性と​終末的と​呼べる​完全性が​備わっています。​聖パウロは​エフェソの​信徒への​手紙の​中で、​この​二つに​触れています。​「キリストが​教会を​愛し、​教会の​ために​御自分を​お与えに​なったように、​妻を​愛しなさい。​キリストが​そうな​さったのは、​言葉を​伴う​水の​洗いに​よって、​教会を​清めて​聖なる​ものとし、​しみや​しわや​そのたぐいの​ものは​何一つない、​聖なる、​汚れの​ない、​栄光に​輝く​教会を​御自分の​前に​立たせる​ためでした」。

​ 教会の​構成要素を​なす聖性と​いう​根源的な​特徴は、​時と​して​隠れている​ことがありますが、​「陰府の​力も​これに​対抗できない」と​言われたように​教会は​不滅ですから、​決して​破壊され得ない​ものです。​ただ、​ほとんど​全面的と​言える​ほどの​闇に​包まれ、​それが​人間の​目には​覆い隠される​ことがあると​いう​ことです。​聖ペトロは​キリスト信者に​「聖なる​国民」と​いう​称号を​与えています。​すべての​信者は​聖なる​民の​一員と​して​聖性に​向かう​よう召されていますから、​精いっぱい​恩恵に​応え、​自ら​聖人に​なるよう​努力しなければなりません。​今も​そうですが、​歴史を​通して、​老いも​若きも、​独身者も​既婚者も、​司祭も​信徒も、​男性も​女性も、​大勢の​カトリック信者が​実際に​自らを​聖化して​聖人に​なりました。

しかし​今も​昔も、​個人的な​聖性が​人目を​引く​ことは​ありません。​往々に​して、​私たちと​一緒に​働き、​共に​生活している​平凡で​聖なる​人々には​気づかないのです。​現世的な​目で​見る​限り、​忠実に​反する​ことや罪しか​目に​つきません。​一般に、​人目を​引くのは​こういう​事柄なのです。

​ 惨めさだらけの​人間が​構成する​「聖なる​国民」。​この​一見矛盾と​思える​ことが、​教会の​秘義の​一面です。​教会とは、​神的であると​同時に​人間的な​ものです。​それは​人間が​構成する​ものですが、​「人間は​皆、​土くれと​灰に​すぎない」と​言うように、​その​人間が​欠点だらけであるからです。

​ 聖なる​教会を​創設された​私たちの​主イエス・キリストは、​その​構成員が​聖性を​求めて​絶えず​励むよう​お望みです。​しかし、​皆が​この​呼びかけに​忠実に​応えているとは​言えません。​キリストの​花嫁を​見ると、​救いの​道の​素晴らしさと​共に、​その​道を​歩む​人々の​惨めさに​気づきます。​「贖い主は、​自ら​創設された​団体が​あらゆる​法的または​社会的要素を​持った、​一つの​完全社会である​ことを​望まれたのも、​人を​贖う​救いの​業を​地上に​永続せしめる​ためです。​もし教会に​おいて​人間性の​弱さを​示す​何ものかが​時々​現れると​しても、​その​責任は​教会の​法的構成に​帰せられる​べきでなく、​むしろ​個々の​人間の​中に​ある​悔や​むべき悪への​傾向に​帰すべきです。​主イエスが、​その​神秘体の​最も​尊い​人々の​悪への​傾きで​さえ​忍ばれるのは、​牧者と​羊との​双方の​徳を​試みる​ためであり、​また​すべての​人々の​中に​キリストヘの​信仰の​いさおしを​増すものに​他ならないからです」。

​ これが​地上の​教会の​現実の​姿ですから、​キリストの​花嫁が​聖であると​いう​ことと、​教会の​中に​欠点を​持った​人間が​いると​いう​こととが、​両立し得るのです。​「キリストは、​罪人が​教会から​退けられる​ことを​お望みに​ならなかったからです。​それゆえ、もし信者の​ひとりが​霊的な​病に​罹っていると​しても、​その​ことは​教会に​対する​私たちの​愛を​減ずる​ことには​ならないのであり、​むしろかえって、​教会の​肢体に​対する​同情を​強める​理由に​なる​ことでしょう」。

役目上いかに​高い​地位に​就(つ)いていても​同じですが、​とにかく​教会に​属する​人に​欠点や​惨めさが​認められるからと​いって、​教会と​キリストに​対する​信仰が​弱くなると​いう​人が​いると​すれば、​そういう​人は​あまり​成熟していないと​言えるでしょう、​教会を​治めるのは、​ペトロでも​ヨハネでも​パウロでもなく、​聖霊です。​しかも、​主は​「世の​終わりまで​いつも」教会の​傍に​いると​約束なさいました。

​ この​点で​意見を​同じく​する​聖トマスは、​成聖の​恩恵を​与える​手段で​ありしるしである​秘跡に​あずかる​ことに​ついて​説明しています。​「秘跡に​近づく​人は、​確かに​教会の​聖務者​(役務者)から​それを​受ける。​しかし、​それが​誰それだからと​いう​理由でなく、​教会の​聖務者であると​いう​理由で​受ける。​それゆえ、​教会に​よって​秘跡の​授与を​認められた​聖務者の​授ける​秘跡を​受ける​人は、​ふさわ​しくない​聖務者の​罪に​あずかる​ことにはならず、​教会と​交わる​ことに​なるのである」。​主が​お認めに​なるゆえ、​人の​弱さが​表に​現れた​なら、​母親が​病に​伏しているとか、​薄情な​仕打ちを​受けた​時のような​反応を​すべきでしょう。​すなわち、​もっと​愛さなければならない、​心の​中でも​行いにも、​もっと​愛情を​示さなければならない、と​いう​ことです。

​ 教会を​愛する​人なら、​幾人かの​教会の​子らの​惨めさを​母なる​教会の​過失であるかのように、​公に​言い​触らすような​病的とも​言える​態度を​とる​ことは​ないでしょう。​キリストの​花嫁である​教会が​「我が​過ちなり」と​先唱する​必要など​ありません。​「我が​過ちなり、​我が​過ちなり、​我がいと​大い​なる​過ちなり」と​言うべきは、​確かに​私たち人間なのです。​これこそ本当の​意味で、​自分の​過ちを​認める​態度、​個人的な​メアクルピズムです。​これなら、​聖なる​教会の​中で​人間が​犯す過ちを​大袈裟に​言い​立てて​教会を​攻撃する​ことには​なりません。​ところで、​人間の​過ちも、​教会の​根源的で​構成要素と​なる​聖性を​破壊する​ことは​もちろん、​それに​触れる​ことさえできません。

確かに、​私たちの​主なる​神は、​教会を​麦と​藁が​山積みと​なっている​麦打ち場に​喩えられました。​そこから​食卓にの​ぼる​パンと​祭壇の​ための​パンが​できます。​また​教会を​「いろいろな​魚を​集める」地引網にも​喩えられました。​あとで、​良い​ものを​かごに​入れ、​役に​立たない​ものを​捨てるのです。

​ 人間の​さも​しい​行為の​影に​覆われて​隠れてしまうことがありますが、​教会の​聖性と​いう​秘義は​根源的な​光で、​母なる​教会の​美しさに​いささかの​疑いを​挟む余地も​与えません。​母なる​教会が​侮辱されているのに、​抗議も​せずに​我慢するような​ことは​したくない​ものです。​信仰も​愛も​示さない​人のように、​教会の​弱みを​批判するような​ことは​したくない​ものです。​自分の​母親に​ついて​冷淡な​口調で​話す人が、​その​母親に​愛情を​持っているなどとは​私には​信じられません。

​ 母なる​教会は​聖なる​ものです。​清い​状態で​誕生し、​永遠に​汚れなく​存続するからです。​万一、​その​美しい​顔を​見つけられない​ときには、​私たち自身の​目を​清めましょう。​万一、​その​声が​快く​響かない​ときには、​愛情に​溢れた​牧者の​口笛を​聞こえなくさせている​耳のかさぶたを​取り​除きましょう。​母なる​教会は​キリストの​聖性に​よって​聖なる​ものです。​その​聖性に、​教会は​体と​霊に​おいて​結ばれています。​私たちは​皆​その体であり、​神の​恩恵を​保つ​限り、​一人​ひとりの​内に​聖霊が​おいでに​なるからです。

​ 至聖三位一体の​神を​称える​賛歌を​思い​起こし、​あえて​教会に、​聖なるかな、​聖なるかな、​聖なるかなと​歌い​かけます。​わが​母よ、​聖なる​神の​御子が​創設された​ゆえに、​あなたは​聖なる​教会です。​聖性の​源である​御父が​そうな​さったが​ゆえに、​あなたは​聖なる方です。​天の​教会、​永遠の​エルサレムに​住むはずの​御父の​子らを​集める​ため、​信者の​心に​住まいを​定められた​聖霊が​助け支えている​ゆえに、​あなたは​聖なる方です。

教会は​カトリック​(普遍)である

​ 「すべての​人々が​救われて真理を​知るようになる​ことを​望んで​おられます。​ 神は​唯一で​あり、​神と​人との​間の​仲介者も、​人である​キリスト・イエスただ​おひとりなのです。​この方は​すべての​人の​贖いと​して​御自身を​献げられました。​これは​定められた​時になされた​証しです」。​イエス・キリストは​ご自分の​教会を​たった​一つだけ​創立されました。​ですから、​キリストの​花嫁は​一つであり、​公(カトリック)、​すべての​人の​ため、​つまり​普遍なのです。

​ 数世紀前から、​教会は​世界中に​広がり、​あらゆる​人種と​社会条件の​人々から​成り​立っています。​しかし、​地理的な​広がりは​見える​しるしであり、​信仰の​動機では​あっても、​教会の​普遍性​(カトリック)の​理由では​ありません。​教会は​聖霊降臨の​日に​すでに​普遍的​(カトリック)でした。​聖霊が​燃え​上がらせる​火のように、​教会は​イエスの​傷つけられた​聖心から​カトリックと​して​生まれたのです。

​ 二世紀の​信者は​キリストの​御名を​使いながらも、​教えの​一部を​裏切る​異端からはっきり区別する​ため、​教会は​カトリック・普遍であると​明確に​定義しました。​聖チリルスは​次のように​説明しています。​「教会を​カトリックと​呼ぶのは、​地の​果てから​果てまで​広がっていると​いう​理由からだけでなく、​見える​ものと​見えない​もの、​および天と​地に​関して​人間が​知っておくべき事柄すべてを​余す​ところなく​普遍的に​教えるからである。​さらに、​為政者か​市民か、​博学か​無学かを​問わず、​あらゆる​階級の​人々を​正しい​礼拝に​向かわせるからでもある。​最後に、​霊魂の​罪であろうと​体の​罪であろうと、​あらゆる​種類の​罪を​癒すだけでなく、​呼び名は​ともあれあらゆる​種類の​徳を、​行いか​言葉か、​あるいは​何らかの​霊的賜物の​形かで​所有しているからである」。

​ 教会の​普遍性は、​カトリックでない​人が​そう​認めるか​否かに​かかっているわけでは​ありません。​また​時には、​現世的な​事柄に​ついて​教会権威者の​述べる​意見が​利用されていますが、​それが、​近い​考え方を​する​世論に​よって​受け入れられているか​否かと​いう​ことも、​教会の​普遍性とは​何ら関係が​ないのです。​人間的イデオロギーの​支持する​部​分的な​真理が​往々に​して​教会の​普遍の​教えの​中に​共鳴点や​根拠を​見つける​ことは​あるでしょう。​それも、​教会の​教導職が​保管する​啓示が​神から​来た​ことを​ある​程度まで​示すしるしです、​しかし、​多くの​人たちから​故意に​無視されたり、​残念ながら​今日​多くの​所で​起こっているように​傷つけられたり​迫害されたりしても、​キリストの​花嫁は​依然と​して​カトリック・普遍なのです。

政党や​社会​思想、​協調や​物的進歩を​目指す国際組織、​その​他が、​高潔な​性格を​有する​ことは​認めますが、​教会は​これらの​いずれでもありません。​教会は​貧しい​人や​苦しむ人、​唯一絶対の​悪である​罪の​結果を​何らかの​形で​被る​人々の​ために、​膨大な​仕事を​推進し、​今も​それを​続けています。​そして、​因窮状態に​いる​人々にも、​地上の​富を​充分に​享受していると​考えている​人々にも、​すべての​人々に、​教会は​たった​一つ​決定的に​大切な​ことを​確認してきました。​すなわち、​私たちは​永遠の​超​自然的な​目的に​向かっており、​キリストに​よって​のみ​永遠の​救いを​得る​ことができ、​キリストに​おいて​のみすでに​現世で本物の​平安と​幸せを​得る​ことができると​いう​事実です。

​ 私たちカトリック信者が​以上の​真理を​決して​忘れず、​それを​実行に​移す決意を​固める​ことができるよう、​今、​私と​共に​主なる​神に​お願いしてください。​カトリック教会は​人々から​認められなくても​良いのです。​教会は​神のみ​業ですから。

​ 私たちは​自らの​聖性の​実に​よって​カトリック信者である​ことを​示します。​聖性は​国境を​越えた​ものであり、​特定の​人間の​排他的な​財産ではないからです。​私たちが​祈れば、​絶えず神に​向かう​努力を​続ければ、​また​最近は、​唯物的な​意味合いや​誤った​意味で​使われていますが、​最も​広い​意昧ですべてに​おいて​正義の​人に​なるよう常に​努力を​傾ければ、​自分以外の​人々の​個人的自由を​愛し弁護するならば、​その​時こそ、​私た​ちがカトリックである​ことを​示すことができるのです。

​ 教会が​普遍的である​ことを​示すもう​一つの​明らかなしるしを​思い出してください。​それは、​教会が​秘跡を​歪曲し、​心理学的あるいは​社会学的に​条件を​付けるが​ごとき邪な​試みを​せずに、​イエス・キリストが​制定された​通りに​保存し、​授けてきたと​いう​事実です。​「人間は、​他人の​権限のもとに​ある​ことで​なく、​自らの​権限のもとに​ある​ことのみを​決める​ことができる。​ところで、​人間の​聖化は、​聖化なさる​神の​権限のもとに​あるのだから、​人間は​自分が​何に​よって​聖化される​べきかを​自分の​判断で​決める​ことは​できない。​これは​神が​お決めに​なる​ことである」。​秘跡の​本質から​普遍性を​取り去ろうと​試みる​態度が、​万一正​当化されるような​ことが​あれば、​その​時、​秘跡は​理解と​理性の​自然の​法則に​よって​働く​単なる​しるしか​象徴に​成り果ててしまいます。​しかし​「新約の​秘跡は​原因であると​同時に​しるしである。​それゆえ、​秘跡は​その​意昧する​ことを​実現させる、​と常に​教えられるのである。​従って、​しるしと​してだけでなく​原因と​して、​聖なる​ものに​秩序づけられている​秘跡の​根拠が​保持されなければならない」。

教会は​カトリックであるだけでなく、​ローマ・カトリック教会です。​私は​この​〈ローマ〉と​いう​言葉を​味わい、​私自身ローマ的であると​思っています。​ローマとは​普遍​(カトリック)を​意味するからであり、​私の​愛すべき友である​シエナの​聖カタリナが​繰り返したように、​地上に​おける​甘美なキリスト、​すなわち教皇様を​愛するように​仕向けてくれるからです。

​ 第二バチカン公会議の​閉会に​あたり、​教皇パウロ六世は​おっしゃいました。​「理論的には、​この​ローマ・カトリックの​中心から​手の​届かない​人は​いません。​すべての​人々に​届く​ことができます。​また​実際に​そうでなければなりません。​カトリック教会に​とって、​遠く​かけ離れて​届く​ことのできない​人などいないのです」。​殉教者の​血に​浸された​ペトロと​パウロの​ローマ、​キリストの​救いを​もたらす​言葉を​世界中に​広げる​大勢の​人が​輩出した​この​中心地を、​私は​全力を​挙げて​愛します。​ローマ的とは、​排他的な​態度を​とる​ことではなく、​真の​エキュメニズムを​示しています。​それは​心を​大きくする​望み、​贖いに​対する​キリストの​熱意を​もって、​心を​すべての​人に​開く​望みの​ことです。​キリストは、​すべての​人を​最初に​愛されました。​すべての​人を​探し求め、​すべての​人を​受け入れられたのです、​聖アンブロジウスは​簡潔では​あるが​喜びに​溢れた​賛歌を​残しました。​「ペトロの​いる​ところに​教会が​ある。​そして​教会の​ある​ところ、​死は​支配せず、​永遠の​生命が​支配する」。​なぜなら、​ペトロと​教会の​ある​ところには​キリストが​おられ、​その​キリストこそ​救い、​唯一の​道であるからです。

教会は​使徒継承である

​ 聖霊の​絶え間ない​援助を​約束されていた​少数の​人間・​使徒たちの​弱さと​忠実と​いう​土台の​上に、​私たちの​主は​教会を​創立されました。​周知の​箇所ですが、​常に​新しく​常に​今日的な​聖書の​テキストを​もう​一度​読んで​みましょう。​「わたしは​天と​地の​一切の​権能を​授かっている。​だから、​あなたがたは​行って、​すべての​民を​わたしの​弟子に​しなさい。​彼らに​父と​子と​聖霊の​名に​よって​洗礼を​授け、​あなたが​たに​命じておいた​ことを​すべて​守るように​教えなさい。​わたしは​世の​終わりまで、​いつも​あなたが​たと共に​いる」。

​ パレスチナで​始まった​福音宣教は、​数名の​熱心な​人の​個人的な​イニシアチブに​よる​ものでは​ありません。​使徒たちに​何が​できたと​いうのでしょう。​当時、​当てにできる​ものは​何も​なかったのです。​金持ちでもなく​教養もなく、​人間的に​みて​英雄でもなかった、​イエスは​この​一握りの​弟子たちの​肩に​巨大な​神的仕事を​負わせられました。​「あなたが​たが​わたしを​選んだのではない。​わたしが​あなたが​たを​選んだ。​あなたが​たが​出かけて​行って​実を​結び、​その​実が​残るようにと、​また、​わたしの​名に​よって​父に​願う​ものは​何でも​与えられる」。

​ 二千年の​歴史を​通じて​教会には​使徒継承が​守られて​来ました。​トリエント公会議は​「司教は​使徒の​後​継者であり、​同じ​使徒​(パウロ)が​言うように​『聖霊は、​神が​御子の​血に​よって​御自分の​ものとなさった​神の​教会の​世話を​させる​ために、​あなたが​たを​この​群れの​監督者に​任命な​さった』​(使徒言行録20・28)」と​宣言しています。​そして、​キリストご自身が​使徒たちの​中から​ペトロを​特別に​選ばれ、​「あなたは​ペトロ。​わたしは​この​岩の​上に​わたしの​教会を​建てる」、​「わたしは​あなたの​ために、​信仰が​無くならないように​祈った。​だから、​あなたは​立ち直ったら、​兄弟たちを​力づけて​やりなさい」と​仰せに​なりました。

​ ペトロは​ローマに​移り、​そこで​キリストの​代理者・首位権者と​して​教座を​定めました。​これが、​使徒継承が​最も​明らかに​みられるのは​ローマに​おいてであり、​ローマが​使徒座と​呼ばれる​所以(ゆえん)なのです。​第一バチカン公会議は、​フィレンツェ公会議の​言葉を​引用して​これを​宣言しました。​「すべての​信者は​次の​ことを​信じなければならない。​すなわち聖なる​使徒座と​ローマ教皇は、​全世界に​対して​首位権を​持ち、​教皇は​使徒たちの​頭・聖ペトロの​後​継者であり、​キリストの​真の​代理者・​全教会の​頭・​全キリスト者の​父・教師である。​教皇には、​私たちの​主イエス・キリストが​聖ペトロに​与えた​教会全体を​司牧し統治する​全権が​与えられている」。

ローマ教皇の​最高の​権限と​〈エクス・カテドラ〉つまり​教座から​話すときの​不可謬性は、​人間の​考え出した​ものではなく、​キリストの​明白な​教会創設の​意志に​よる​ものです。​教皇の​統治を​司教の​統治と​対立させたり、​教皇の​教導職が​有効か​否かを​信者の​同意で​決めたりする​考えは、​およそ​意味の​ない​ことであり、​権力の​均衡などとも​全く​無関係です。​いくら魅力的で​機能的であると​いっても​人間的な​図式は​役に​立ちません。​教会の​中では、​人間が​自ら絶対的な​権限を​持つことなど​あり得ないのです。​教会には​キリスト以外の​頭は​存在しません。​そして、​キリストは​この​地上を​旅する​ご自身の​花嫁の​ために、​代理者すなわちローマ教皇を​定められました。

​ 教会は​その​構成から​みても​使徒継承です。​「教会は​カトリックであると​同時に​唯一、​聖、​使徒継承でなければならない。​従って、​全世界と​全民族の​明白で​完全な​一致に​よって、​カトリック教会は​唯一である。​この​真実の​一致の​本源、​根、​起源は、​使徒たちの​頭・聖ペトロと​教座の​後継者の​最高権威と​最高主権である。​唯一の​ペトロの​上に​建てられ、​信仰と​愛の​一致に​よって​一つの​体に​結ばれ、​構成された​カトリック教会以外の​教会は​ない」。

​ ペトロとの​一致、​すなわち教皇との​一致を​繊細な心で​忠実に​保てば、​この​使徒継承と​いう​特徴を​すべての​人の​目に、​より​明らかに​するのに​貢献できます。​ローマ教皇の​うちに​キリストを​見ているからです。​祈りの​中で​キリストに​接すれば、​時には​理解に​苦しむ出来事や​嘆きと​悲しみを​誘う​出来事が​起こっても、​聖霊の​働きを​識別できる​澄みきった​目で​歩みを​続ける​ことでしょう。

全カ​トリック信者の​使徒職への​使命

 教会は、​洗礼を​受けて​その​懐に​入った​私たちを​聖化します。​自然の​生命を​もって​生まれて間もなく、​私たちは​すでに​聖化を​もたらす恩恵を​受ける​ことができます。​「一人の​信仰は、​そして​教会全体の​信仰なら​尚更の​こと、​教会に​一致を​もたらし、​一方の​善を​他方に​伝える​聖霊の​働きに​よって​幼児に​恩恵を​与える」。​聖霊から​付与され、​教会に​備わっている​この​超自然の​母性は​真に​素晴らしいとしか​言いようが​ありません。​「洗礼に​よって​実現する​霊的な​再生は、​ある​意昧で​体の​誕生に​似ている。​母の​胎内に​いる​子が​自分で​食物を​摂取できず、​母から​栄養を​摂るように、​まだ​理性の​働きを​持たず、​母なる​教会の​胎内に​いるが​ごとき​状態の​幼い​子供は​自分の​力でではなく、​教会の​働きに​よって​救いを​得る」。

​ 教会の​司祭的権能の​偉大さが​際立って​見えます。​ところで​この​権能は​キリストから​直接に​出る​ものです。​「キリストは​すべての​司祭職の​源である。​旧約の​司祭は​前表であったが、​『あなたが​たが​何かの​ことで​赦す相手は、​わたしも​赦します。​わたしが​何かの​ことで​人を​赦したと​すれば、​それは、​キリストの前であなたが​たの​ために​赦したのです』​(2コリント2・10)と​言うように、​新約の​司祭は​キリストの​ペルソナに​おいて​働くのである」。

​ 神と​人間の​間の​仲介役と​して​救いを​もたらす​働きは、​教会の​中で、​叙階の​秘跡を​通じて​永続します。​この​秘跡は、​固有な​印章と​恩恵の​作用に​よって、​すべての​人の​ために​イエス・キリストの​聖務者​(役務者)と​して​働く​ことができる​司祭を​作ります。​「ある​事柄に​ついてある​人には​でき、​他の​人には​できないと​言う​とき、​それは​悪か​善かの​違いに​由来するのではなく、​一方が​所有し、​他方が​所有しない​権能からくる​問題である。​それゆえ、​信徒は​個人的に​いかに​良い​人間であっても、​聖別する​権能を​受けていないわけだから、​聖別を​実現する​ことができないのである」。

教会には​色々な​種類の​役務が​ありますが、​その​目的は​一つ、​つまり​人々の​聖化です。​そして​この​聖化の​仕事には、​洗礼と​堅信の​秘跡で​受けた​印章に​よって、​すべての​信者が​何らかの​形で​参加します。​私たち全員が​キリストの​使命である​この​教会の​使命に​対して​責任を​感じていなければなりません。​人々の​救いを​熱心に​望まない​人、​キリストのみ​名と​教えが​知られ愛されるように​全力を​挙げて​努力しない​人は、​教会の​使徒継承と​いう​特徴を​理解できないでしょう。

​ 何もしない​キリスト者は、​キリストが​私たちに​期待しておられる​ことが​分から​ずじまいと​言えます。​自分の​ことだけを​考えて、​人々の​救いに​ついては​何も​考えない​キリスト者は、​イエスの​聖心で​人々を​愛しているとは​言えないのです。​使徒職とは、​位階制に​属する​人や​司祭や​修道者だけの​使命では​ありません。​すべての​人は、​模範と​言葉で、​永遠の​生命に​至る​この​恩恵の​流れを​伝える​道具に​なるよう、​主の​招きを​受けています。

​ 使徒言行録を​読む度に、​キリストの​弟子たちの​大胆さ、​使命に​対する​信頼、​犠牲を​ものともしない​喜びを​知って​感動します。​人々を​十把一絡げに​扱ったりしません。​大勢の​人が​やって​来ても、​使徒たちは​個別に​一人​ひとりに​接します。​フィリポは​エチオピア人に、​ペトロは​百夫長コルネリオに、​パウロは​セルジオ・パウロにと​いう​風に。

​ 彼らは​こう​いうやり方を​先生である​キリストから​学びました。​村の​広場で​仕事を​待っている​労働者の​喩え話を​思い出してください。​そろそろ夕暮と​なり、​ぶどう​畑の​主人が​出かけてみると、​未だに​手持無沙汰で​立っている​日雇い​労働者を​見つけました。​「なぜ、​何もしないで​一日​中​ここに​立っているのか」と​聞くと​「だれも​雇ってくれないのです」と​答えました。​こんな​ことは​キリスト信者の​生活に​あっては​なりません。​誰も​話してくれなかったので​キリストに​ついて​何も​聞いた​ことの​ない​人が、​信者の​周りに​居るような​ことが​あってはならないのです。

​ 人々は​しばしば神を​度外視しても​構わないと​考えていますが、​騙されています。​自分では​気づいていないが、​ベザタの​池の​回廊に​横たわっていた​中風の​人と​同様、​救いの​力を​持つ水、​心に​喜びを​与える​教えに​近づく​ことができないのです。​このように​「わたしを​池の​中に​入れてくれる​人が​いない」、​手を​貸してくれる​人が​いないのです、と​言う​人の​いる​事実は、​多くの​場合、​キリスト信者の​責任です。​すべての​キリスト信者は​使徒でなければなりません。​神は​実際には​誰を​も必要と​されませんが、​それにも​拘わらず、​私たちを​必要と​してくださいます。​救いを​もたらす​教えを​広げる​ために、​主は​私たちの​働きを​頼りに​してくださるのです。

​私たちは​今、​一、​聖、​公(カトリック)、​使徒継承の​教会の​秘義に​ついて​黙想しています。​自らに​問い​かけてみましよう。​キリストと​同じように、​人々の​救いを​熱望しているでしょうか。​私には​代わって​もらう​ことのできない​特定の​使命が​あり、​それを​教会の​中で​果た​すべきだが、​その​教会の​ために​祈っているだろうか。​教会に​属していると​いう​こと​自体素晴らしいが、​それだけでは​充分では​ありません。​私たち自身が​教会に​なりきらなければならないのです。​母なる​教会は、​私たち自身の​思いや​考えとは​異質で​無縁で​外部的な​ものではないからです。

​ 教会の​特徴に​関する​考察は​この​辺で​終わりましょう。​教会は、​恩恵の​生活を​与え、​日々の​尽きない​心遣いで​私たちを​養ってくれますが、​その​母なる​教会を​もっと​愛すると​いう​明確で​確実な​神的基準は、​主の​助けを​受けて、​心に​刻み付けられ、​確信と​なった​ことでしょう。

​ 万一、​教会を​侮辱するような​言葉や​叫びを​耳に​した​時には、​愛徳に​溢れた​謙遜な​心で、​その​無情な​人たちに​言ってあげなければなりません。​こんなに​素晴らしい​母親を​酷く​扱ってはならない、と。​今、​教会は、​罰を​受けないのを​いいことに​平気で​攻撃する​人々の​標的に​なっています。​この​国は、​師に​して​創立者である​御方の​王国であって、​この​世の​ものではないからです。​「藁の​間で​麦が​呻き、​毒麦の​間で​穂が​溜息を​つき、​怒りの​器の​間で​慈しみの​器が​嘆き悲しみ、​茨の​間で​百合が​涙を​流している​間、​敵は​言い​続ける​ことだろう。​いつ、​その​名が​死して​滅びるのだろう、​キリスト信者が​姿を​消し、​誰一人いなくなるのは​いつの​ことだろうか、と。​しかし、​そういう​彼らこそ​必ず​死んでしまう。​そして、​教会は​存在し続ける」。

​ 何が​起ころうとも、​キリストが​ご自分の​花嫁を​見捨てられる​ことは​ありません。​凱旋の​教会は​すでに​御父の​右に​座す御方の​傍に​あります。​すでに​そこに​居る​キリスト信者・​私たちの​兄弟は、​澄みきってはいても​薄暗い​信仰と​いう​光の​中で​(この​世に​生きる)​私たちが​見ている​一、​聖、​公(カトリック)、​使徒継承の​教会を​眺め、​神を​賛美しつつ、​私たちを​招いているのです。

この章を他の言語で