教会の超自然的な目的

1972年5月28日 三位一体の祭日


黙想を​始めるに​あたり、​聖チプリアヌスの​言葉を​思い出しましょう。​「普遍教会は、​自らの​一致を​御父と​御子と​聖霊の​一致から​受ける​一つの​民と​して​姿を​現します」と​いうわけで、​三位一体の​祝日の​説教で、​教会に​ついて​考えても​不思議では​ありません。​教会は、​カトリック信仰の​根本的な​教義、​すなわち本性に​おいては​一で​あり、​ペルソナに​おいては​三位である​神に​根を​下ろしているからです。

​ 三位一体を​中心とした​教会、​教父たちは​教会を​常に​このように​考えてきました。​聖アウグスチヌスの​明解な​言葉を​味わってみましょう。​「神は​ご自分の​神殿に​お住まいに​なる。​聖霊だけでなく、​御父も​御子も​お住まいに​なる。​従って、​聖なる​教会は​神の、​つまり​三位一体​全体の​神殿である」。

​ 次の​日曜日に​再び集まる​ときには、​聖なる​教会の​もう​一つの​素晴らしい​面に​ついて、​すなわち、​間もなく​信仰宣言の​中で​御父と​御子と​聖霊に​対する​信仰を​告白した後で​唱える、​教会の​特徴に​ついて​考える​ことにしましょう。​私たちは、​「聖霊を​信じます」と​言った​後、​続いて​「一、​聖、​公(カトリック)、​使徒継承の​教会」と​唱え、​聖に​して​カトリック、​使徒継承の​唯一の​教会に​対する​信仰を​告白します。

​ 本当に​教会を​愛する​人々は、​この​四つの​特徴を​私たちの​聖なる​宗教の​名状しが​たい​秘義、​つまり​至聖なる​三位一体の​秘義と​関連づけてきました。​「私たちは、​一、​聖、​公(カトリック)、​使徒魅承の、​神の​教会を​信じ、​そこで​教えを​受けます。​私たちは​御父と​御子と​聖霊を​知り、​御父と​御子と​聖霊の​御名に​よって​洗礼を​受けています」。

困難な​時代

 忘れてしまわないように、​教会とは​偉大で​深遠な​秘義である​ことを​頻繁に​黙想しなければなりません。​この​世に​生きている​間に、​この​秘義を​理解する​ことは​できません。​理性の​働きだけで​みるならば、​教会は​ある​種の​掟を​守り、​同じような​考え方を​する​人たちの​集まりと​しか​見えないでしょう。​しかし、​これは​聖なる​カトリックでは​ありません。

​ カトリック教会の​中で​カトリック信者が​見出すのは、​私たちの​信仰と​行動の​規範、​祈りと​兄弟愛、​また、​この​世を​去り、​今は​練獄で​清めを​受けている​(清めの​教会の)​すべての​兄弟たち、​ならびに​至福直観を​(勝利の​教会で)​楽しみつつ、​三重に​聖なる​神を​永遠に​愛する​兄弟たちとの​交わりです。​この​地上に​留まりながらも​歴史を​越えているのが​教会です。​聖マリアの​庇護のもとに​生まれた​教会は、​この​世と​天国で​マリアを​母と​讃え続けています。

​ 教会は​超自然的な​存在である​ことを​宣言しましょう。​必要ならば​大声を​挙げてでも​(信仰)​告白しましょう。​最近は、​教会の​内部で、​上層部でも、​この​重要な​真理を​忘れ去った​人が​大勢いるからです。​この​人た​ちが提案する​教会は、​聖でも​一でもなく、​ペトロと​いう​岩を​支えに​しないので、​使徒継承でもない。​また、​不当な​排他主義や​人々の​気紛れに​よって​切り刻まれているので​公​(カトリック)でもありません。

​ 別に​新しい​現象では​ありません。​主イエス・キリストが​聖なる​教会を​創設されて以来、​私たちの​母なる​教会は​常に​迫害の​苦しみを​忍んできました。​昔ならば、​公然と​攻撃したでしょうが、​今は、​陰湿な​攻撃が​多くなっています。​昨日も​今日も、​教会への​攻撃は​続きます。

​ 繰り返しますが、​私は​気質も​性格も​悲観的では​ありません。​主が​世の​終わりまで​共に​いると​約束されたのですから、​悲観論者である​ことなどできません。​高間に​集う​弟子たちに​聖霊が​降り、​初めて​教会が​公に​姿を​現したのでした。

​ 私たちが​よく​分かる​よう、​聖書は​生き​生きした​表現を​使っています。​「ご自分の​瞳」のように​私たちの​世話を​してくださる​優しい​父なる​神は、​愛する​御子が​建てられた​教会を​絶えず​聖霊に​よって​聖化なさいます。​しかし、​教会は​今、​困難な​日々を​過ごしています。​人々に​とっても​大変困難の​時です。​様々な​ところで​混乱を​撒き散らす​叫びが​起こり、​昔の​誤謬が​すべて​生き返って​大声を​あげています。

信仰、​そう​信仰が​必要です。​信仰の​目で​見れば​「教会は​護教だけでなく、​積極的に​まわりに​その​教えを​広めています。​真理を​愛する​目で​教会を​眺め、​また​それを​研究する​人は、​教会を​構成する​人々や​教会が​実際に​どのような​印象を​与えるかとは​無関係に、​教会の​中に​唯一普遍で​自由を​もたらす必然的神的な​光のような​メッセージの​ある」ことを​認めるはずです。

​ 遠回しな​言い方は​好む​ところではないのではっきりと​申しますが、​異端の​声を​耳に​すると、​また​婚姻や​司祭職の​聖性、​聖母の​無原罪の​御宿りと​終生​処女性、​神が​聖母に​お与えに​なった​すべての​特権と​卓越性、​さらに​聖体に​おける​イエス・キリストの​現存と​いう​永遠の​奇跡、​ペトロの​首位権、​主の​復活​その​ものまでが、​平気で​攻撃の​対象に​されているのを​見ると、​悲しくなって​当り前でしょう。​しかし、​安心してください。​聖なる​教会は​不滅です。​「教会は​その​土台が​揺らぐなら​ぐらつくだろう。​ところで​キリストが​揺らぐことが​あり得るだろうか。​キリストが​揺らが​ない​限り、​教会は​世の​終わりまで​決して​ぐらつかない」。

教会の​人間的な​要素と​神的な​要素

 キリストに​人間性と​神性が​あるのと​同じように、​教会の​人間的な​要素と​神的な​要素に​言及する​ことができます。​その​人間的な​部分は​誰の​目にも​明らかです。​この​世の​教会は​人間が​構成する​人間の​ための​教会です。​そして、​人間と​いえば、​自由、​偉大さと​卑しさ、​英雄的な​態度と​卑屈な​態度に​ついて​話すことになります。

​ 万一、​教会の​人間的な​面のみしか​受け入れないなら、​教会を​理解する​ことは​できないでしょう。​秘義の​戸口に​さえ​近づく​ことができないからです。​聖書は​現世の​経験から​得た​数々の​喩えを​使って、​天の​国そのものと、​私たちの​間での​天の​国、​つまり​教会の​現存に​ついて​説明しています。​家畜を​囲む棚や​家畜の​群れ、​家、​種、​ぶどう畑、​神が​作物を​植えたり建物を​築いたりなさると​いうのが、​喩えの​中でも​最も​傑出した​表現です。

​ 「ある​人を​使徒、​ある​人を​預言者、​ある​人を​福音宣教者、​ある​人を​牧者、​教師と​されたのです。​こうして、​聖なる​者たちは​奉仕の​業に​適した​者と​され、​キリストの​体を​造り上げてゆく」。​聖パウロは​次のようにも​書いています。​「わたしたちも​数は​多いが、​キリストに​結ばれて​一つの​体を​形づくっており、​各自は​互いに​部分なのです」。​私たちの​信仰は​なんと​輝かしい​ことでしょう。​私たちは​皆キリストの​うちに​います。​「御子は​その体である​教会の​頭(である)」からです。

これこそ、​キリスト信者が​常に​告白してきた​信仰です。​一緒に​アウグスチヌスの​言葉に​耳を​傾けましょう。​「その​時以来、​キリスト全体は​頭と​体から​形成されている​ことは、​あなたたちが​よく​知っている​真理であると​確信している。​頭とは​私たちの​救い​主ご自身で​あり、​ポンティオ・ピラトの​管下で​苦しみを​受け、​死者の​うちより​復活されたのち、​今は​御父の​右に​座しておられる。​そして​その御体は​教会である。​あの​教会この​教会と​いうのではなく、​世界中に​広がった​教会の​ことである。​生存する​人々の​間に​ある​教会だけではない。​この​教会には​私たちよりも​前に​生きていた​人たちと、​これから​先、​世の​終わりまで、​この​世に​来るであろう​人たちも​属しているからである。​従って、​すべての​信者は​キリストの​肢体であるから、​信者の​集いからなる​教会全体は、​天から​その​体を​治める​キリストを​頭と​して​持っている。​そして、​この​頭は​目の​届く​ところには​おられないが、​愛に​よって​体に​一致してくださっている」。

可視的​(目に​見える)​教会と​不可視的​(目に​見えない)​教会を​分ける​ことのできないわけが​もう​お分かりでしょう。​教会とは​神秘体であると​同時に​法的な​体なのです。​「教会は​体である​ため、​目に​見える​ものである」と、​レオ十三世は​教えておられます。​教会の​目に​見える​体、​言い​換えれば​この​地上の​教会を​構成する​人間の​振舞いには、​惨めさや​迷いや​裏切りが​現れます。​しかし​教会は​それだけで​終わる​ものでも、​そのような​誤った​行為と​同一視される​ものでもありません。​それどころか、​今この​地上に​おいて、​物惜しみしない​態度や​英雄的な​信念、​聖なる​生活が​たくさん​見られます。​ただ、​彼らは​騒ぎ立てず、​信仰に​おける​兄弟や​すべての​人々に​仕える​ために​喜んで​骨折っているのです。

​ 次の​ことも​考えてください。​仮に、​義務を​果たさない​人や​すぐに​屈伏する​人の​方が​勇敢な​人々よりも​ずっと​多いと​しても、​感覚で​捉える​ことは​できないけれど明白で​否定しが​たい​この​神秘的な​現実、​すなわちキリストの​体、​私たちの​主ご自身、​聖霊の​働き、​御父の​慈しみ深い​現存が​依然と​して​残っています。

​ 従って、​教会は​人間的であると​同時に​神的な​ものです。​「教会は​その​起源から​見て​神的な​もの、​その​目的と​目的に​向かう​ための​手段から​見て​超自然的な​ものである。​しかし、​人間に​よって​構成されているので​人間の​共同体である」。​この​世界に​生き、​活動するけれども、​その​目的と​力は、​この​世にではなく、​天に​あるのです。

​ 俗に​言う、​真に​キリストに​よって​設立された​と​称される​カリスマ​(賜物)​的教会と、​人間の​業と​歴史的偶然の​結果と​称される​法的あるいは​制度的な​教会とに​分けて​考えるのは​大変な​間違いです。​教会は​一つだけです。​キリストは​唯一の​教会を​建てられました。​すなわち見えると​同時に​見えない​教会、​位階的に​組織された​一つの​体と​しての​教会、​神法を​基礎構造に​持ち、​生気を​与え、​支え、​生かす力を​持つ​秘められた​超​自然の​生命を​有する​教会です。

​ また次の​ことを​思い出さないわけには​いきません。​主は​「分離した​数多くの​集団から​成り​立つ教会を​計画し、​創立されたのではない。​類似しては​いる​ものの、​唯一で​不可分と​いう​一致の​絆には​結ばれていない​教会を​建てたのではない。​…イエス・キリストが​この​神秘的な​建物に​ついて​話した​とき、​一つの​教会だけを​自分の​教会と​呼び、​『わたしは​わたしの​教会を​建て​よう』と​言った。​従って、​この​教会以外の​教会は​イエス・キリストに​よって​建てられた​ものではないことになる。​他の​教会を​キリストの​真の​教会であると​考える​ことは​できない」のです。

​ 繰り返します。​信仰が​必要です。​今日祝う​至聖三位一体の​神に​願って、​私たちの​信仰を​増していただきましょう。​何が​起ころうとも、​三重に​聖なる​神は​その​花嫁を​お見捨てには​なりません。

教会の​目的

 聖パウロは​エフェソの​信徒への​手紙の​中で、​キリストが​告げられた​神の​秘義は​教会の​中で​実現すると​主張しています。​父なる​神は、​「すべての​ものを​キリストの​足もとに​従わせ、​キリストを​すべての​ものの​上に​ある​頭と​して​教会に​お与えに​なりました。​教会は​キリストの​体であり、​すべてに​おいて​すべてを​満たしている​方の​満ちておられる​場です」。​神の​奥義​(秘義)は​「時が​満ちるに​及んで、​救いの​業が​完成され、​あらゆる​ものが、​頭である​キリストのもとに​一つに​まとめられ​(る)」と​いうのです。

​ 計り知る​ことのできない​秘義、​愛から​出る​無償の​秘義です。​「天地創造の​前に、​神は​わたしたちを​愛して、​御自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​な​(った)」からです。​神の​愛は​無限です。​聖パウロ自身も、​救い主は​「すべての​人々が​救われて真理を​知るようになる​ことを​望んで​おられ​(る)」と​告げています。

​ 教会の​目的は​一人​ひとりを​救う​こと、​これ以外に​ありません。​この​ために​御父は​御子を​遣わされたのです。​そして​主は、​「わたしも​あなたが​たを​遣わす」とも​仰せに​なりました。​そこから、​恩恵に​よって​至聖なる​三位一体の​神が​霊魂に​お住まいに​なるように、​教えを​告げて​洗礼を​授けよと​いう​命令が​出てきます。​「わたしは​天と​地の​一切の​権能を​授かっている。​だから、​あなたがたは​行って、​すべての​民を​わたしの​弟子に​しなさい。​彼らに​父と​子と​聖霊の​名に​よって​洗礼を​授け、​あなたが​たに​命じておいた​ことを​すべて​守るように​教えなさい。​わたしは​世の​終わりまで、​いつも​あなたが​たと共に​いる」。

​ これは​聖マタイ福音書の​終わりに​ある​簡潔で​崇高な​言葉です。​そこで​示されているのは、​信仰の​真理を​告げる​義務と​秘跡に​あずかる​ことの​重要性、​教会に​対する​キリストの​絶え間ない​保護の​約束です。​信仰と​キリスト教的倫理道徳教育、​そして、​秘跡の​実行と​いう​超自然の​現実を​軽んずる​なら、​主に​忠実を​保っていないことになります。​キリストは、​この​命令を​与え、​そして​教会を​建てられたのです。​これ以外の​ことには​二義的な​意味しか​ありません。

教会に​こそ​私たちの​救いが​ある

​ 忘れてならない​ことは、​教会とは、​救いの​一つの​方​法以上の​もの、​つまり​救いの​唯一の​道であると​いう​ことです。​教会は​人間が​考えた​ものではなく、​キリストが​お定めに​なった​ものです。​「信じて​洗礼を​受ける​者は​救われるが、​信じない​者は​滅びの​宣告を​受ける」。​それゆえ、​救いを​得る​ための​手段と​して、​教会が​必要だと​いうのです。​すでに​二世紀に​オリゲネスが​書いています。​「救われたい​者が​いれば、​それを​手に​入れる​ために、​この​家に​来なさい。​…騙されてはならない。​この​家の​外、​つまり​教会の​外では、​誰も​救われない」。

​ 聖チプリアヌスは​こう​教えます。​「ノアの​方舟の​外で​大洪水を​逃れた​人が​万一いたと​すれば、​教会を​捨てた​人も​永罰から​逃れ得ると​私も​認めよう」。

​ 「教会の​外に​救いなし」。​これは​教父たちが​繰り返す絶え間ない​警告です。​聖アウグスチヌスの​言葉を​考えてみましよう。​「救い​以外の​ことで​あれば、​すべてを​カトリック教会の​外でも​見つける​ことができる。​名誉を​手に​入れ、​秘跡を​有し、​アレルヤを​歌い、​アーメンと​答え、​福音書を​手に​持ち、​御父と​御子と​聖霊を​信じ、​その​信仰を​告げる​ことも​できる。​しかし、​カトリック教会の​中でなければ、​救いを​見出す​ことは​決して​できない」。

​ ところが、​ピオ十二世が​二十年余り前に​嘆いておられたように​「永遠の​救いを​得る​ために​真の​教会に​属する​必要が​あると​いう​教義を​無意昧と​する​人々が​います」。​この​信仰の​教義は​教会の​贖いの​協力者と​しての​活動の​基礎と​なっています。​これこそ、​キリスト信者は​使徒職に​従事すべきであると​いう​重大な​義務の​根拠なのです。​キリストの​明白な​命令の​中には、​洗礼に​よって​神秘体に​加わるべきであると​いう​明白な​命令が​あります。​「救い主は、​すべての​人が​教会に​入る​ことを​命じただけではなく、​教会は​救いの​手段であって、​教会が​なければ、​誰一人、​天の​栄光の​王国に​入る​ことができないと​定められた」。

​ 教会に​属さなければ​救われず、​洗礼を​受けなければ​教会に​入れない。​これは​信仰箇条です。​「福音が​宣べ伝えられた​後は、​『再生の​水洗い』なしに、​あるいは​それに​ついての​望みなしに」義化​(救い)は​あり得ないと、​トリエントの​公会議は​定めました。

これは​教会の​絶え​ざる​要請です。​それは、​一方では、​私たちに​使徒職への​熱意を​奮い​起こさせる​刺激であり、​他方、​被造物に​対する​神の​無限の​慈しみの​明らかな​表れです。

​ 聖トマス・アクィナスの​説明を​聞いてください。​「洗礼の​秘跡の​無い​場合が​二つある。​一つは、​実際に​望みの​上でも​秘跡を​受けなかった​ときで、​この​場合、​本人は​洗礼の​秘跡を​受けていないし、​受けたくもないわけである。​理性の​働きを​有する​(分別の​ある)人の​場合、​これは​秘跡を​蔑むことになる。​従って、​このようなかたちで​洗礼を​欠く​人は​天の​国に​入る​ことができない。​救いは​キリストからしか​来ないのに、​秘跡的にも​霊的にも​キリストに​一致していないからである。​もう​一つは、​秘跡を​欠いているが​望みの​欠けていない​人で、​洗礼を​受けたいと​望みながら、​そうする​前に​突然この​世を​去った​人の​場合である。​このような​人なら、​実際に​洗礼の​秘跡を​受けたのではないが、​洗礼の​望みだけでも​救われる​可能性が​ある。​この​望みは、​愛に​よって​働く​信仰から​出た​望みで、​それに​よって、​御力を​目に​見える​秘跡のみに​縛る​こと​(限る​こと)を​なさらなかった​神は、​内的に​人を​聖化なさるのである」。

​ 私たちには​超自然の​永遠の​幸せを​要求する​権利は​ありません。​罪を​犯した​私たちなのですから​尚更の​ことです。​しかし​主なる​神は、​何人にも​その​幸せを​拒むことなく、​無償で​お与えに​なります。​主の​寛大さには​限りが​ありません。​「やむを​得ない​事情に​よって​カトリックの​聖なる​宗教を​知らずに​いる​者も、​神が​すべての​人の​心に​刻まれた​自然法と​その​道徳律を​忠実に​守り、​神に​従う​用意が​あり、​正しく​生きるならば、​神の​光と​恩恵の​働きに​よって、​永遠の​生命に​達する​ことができる」。​一人​ひとりの​心の​中で​起こる​ことは​神のみが​ご存じです。​しかも、​神は​人間を​十把一絡げではなく、​一人​ひとりを​相手に​してくださいます。​この​世では、​何者と​いえども、​他人の​救いや​永罰に​関して​個々の​場合を​取り上げて​判断を​下す資格は​ありません。

しかし、​忘れてならないのは、​自分の​責任で​良心を​歪め、​罪に​凝り固まり、​神の​救いの​業に​抵抗する​ことも​あり得ると​いう​ことです。​そこで​必要に​なるのが、​キリストの​教えと​信仰の​真理、​倫理道徳の​基準を​説く​ことであり、​同時に​必要なのが、​恩恵を​与える​ための​道具因と​して、​ならびに​堕落した​私たちの​本性に​付きまと​う​惨めさに​対する​薬と​して、​キリストが​定められた​秘跡なのです。​さらに​その​結果、​悔俊​(告解、​ゆる​し)の​秘跡と​聖体の​秘跡を​頻繁に​受けるのが​望ましいと​いう​ことになります。

​ と​いうわけで、​教会に​属する​すべての​人、​中でも​牧者の​大変重い​責任が​聖パウロの​次の​言葉に​具体化されています。​「神の​御前で、​そして、​生きている​者と​死んだ者を​裁く​ために​来られる​キリスト・イエスの​御前で、​その​出現と​その​御国とを​思いつつ、​厳かに​命じます。​御言葉を​宣べ伝えなさい。​折が​良くても​悪くても​励みなさい。​とがめ、​戒め、​励ましなさい。​忍耐強く、​十分に​教えるのです。​誰も​健全な​教えを​聞こうとしない​時が​来ます。​その​とき、​人々は​自分に​都合の​良い​ことを​聞こうと、​好き勝手に​教師たちを​寄せ集め、​真理から​耳を​背け、​作り話の​方に​それて​行くようになります」。

試みの​時

 使徒の​この​言葉が​どの​程度現実に​起こったのか、​私には​分かりません。​しかし、​盲目でない​限り、​現に​この​言葉通りに​起こっている​ことは​よく​分かるはずです。​神と​教会の​掟に​関する​教えは​拒否され、​至福直観の​中身は​政治的・​社会的な​キーワードで​解釈され​歪曲されて、​謙虚で​柔和で​心の​清い​人間であろうと​する​者は、​無知か、​あるいは​古色蒼然たる​過去の​支持者であるかのように​扱われています。​貞潔の​く​びきに​耐えられないので、​キリストが​与えられた​神の​掟を​あらゆる​手を​使って​愚弄しています。

​ これら​すべてを​含む兆候が​あります。​つまり、​教会の​超自然の​目的を​変えてしまおうと​いう​試みです。​正義​(義)と​は​聖性の​生活ではなく、​キリスト教信仰とは​相容れない、​多少とも​マルクス主義に​染まった​特定の​政治闘争であると​考える​人が​います。​解放とは、​罪を​避ける​ための​個人的な​戦いではなく、​ただ​人間的な​課題と​考えられているのです。​このような​考え方も​高貴で​正当であるとは​いえ、​ただ​一つ​必要な​こと、​すなわち一人​ひとりの​霊魂の​救いを​おろそかに​するなら、​キリスト信者に​とって​全く​無意味な​ことになります。

神から​離れて​盲目になった​結果、​「この​民は​口先では​わたしを​敬うが、​その心は​わたしから​遠く​離れている」と​言うように、​キリストが​創立された​教会とは​似ても​似つかない​教会像を​作り出します。​祭壇上の​聖なる​秘跡、​カルワリオの​犠牲の​更新までもが​冒涜され、​いわゆる​人間同士の​交わりの​象徴に​変えられています。​万一、​主が​私たちの​ために​聖なる​御血の​最後の​一滴までも​流してくださらなかったならば、​いったい​人間は​どうなっていた​ことでしょう。​聖櫃内の​キリストの​現存と​いう​絶え​間ない​奇跡を​軽んじる​ことなど、​どうして​できるのでしょう。​そこに​残ってくださったのは、​私たちが主と​付き合う​ため、​礼拝する​ため、​将来の​栄光の​保証と​して、​その​足跡を​辿る​決心を​する​ためです。

​ 今は​試みの​時ですから、​「喉を​から​して​叫​(び)」、​主に​お願いしなければなりません。​この​試みの​時を​短くしてください、​慈しみの​目で​教会を​ご覧ください、​牧者と​すべての​信者の​心に​再び超​自然の​光を​お恵みください、と。​教会が​人々を​喜ばせる​ことに​腐心すべき理由は​ありません。​人間は、​個人と​しても​共同体と​しても、​永遠の​救いを​与える​ことなどできません。​救いを​もたらされるのは​神なのです。

子と​して​教会を​愛する

​ ​今​日こそ声を​上げ、​聖ペトロの​エルサレムの​長老たちへの​言葉を​繰り返さなければなりません。​「あなたが​た家を​建てる​者に​捨てられたが、​隅の​親石と​なった石です。​ほかの​誰に​よっても、​救いは​得られません。​わたしたちが​救われる​べき名は、​天下に​この​名の​ほか、​人間には​与えられていないのです」。

​ キリストが​その上に​教会を​建てられた​岩、​すなわち初代教皇は、​主に​対する​孝愛に​動かされ、​自分に​委託された​小さな​群れに​対する​心遣いから、​こう​話しました。​初代の​信者は、​ペトロと​その​他の​使徒から​愛情を​もって​深く​教会を​愛する​ことを​学んだのです。

​ ところで、​日々​およそ​孝愛の​念を​欠いた​態度で、​母である​聖なる​教会に​ついて​話す​人が​いる​ことは​ご存じでしょう。​教父たちがキリストの​教会に​投げかける、​燃えるような​愛の​言葉を​読むと​心が​慰められます。​聖アウグスチヌスの​言葉を​読んで​みましょう。​「私たちの​主なる​神を​愛そう。​その​教会を​愛そう、​神に​対しては​父に​対するように、​そして​教会に​対しては​母に​対するように。​『そう、​私は​今も​偶像を​拝み、​霊に​憑かれた​人と​まじない​師に​相談するが、​神の​教会を​離れてはいない。​私は​カトリック信者だ』などとは​言わないように。​そのような​人は、​母なる​教会に​属しているとは​いえ、​父なる​神を​侮辱している。​また、​こう​言う​人も​いる。​『神が​こんな​ことを​お許しに​なりませんように。​私は​占い師に​相談しないし、​悪魔憑きに​ものを​尋ねたりも​しない。​汚聖の​占いを​せず、​悪魔を​礼拝せず、​石の​神々に​仕える​こともない。​しかし、​ドナトの​仲間だ』。​神は​母なる​教会を​侮辱した​者に​復讐される。​それなら、​父なる​神を​侮辱しないと​いっても、​それが、​一体なんの​役に​立つのか」。​聖チプリアヌスは​簡潔に​宣言しています、​「教会を​母と​して​持たない​者は、​神を​父と​して​持つことができない」。

​ 最近、​大勢の​人は​母である​聖なる​教会に​ついて​本当の​教えを​聞く​ための​耳を​持っていません。​なかには、​制度を​作り直そうと​望む者もいます。​キリストの​神秘体の​中に​社会で​言う​民主主義、​はっきり​言えば、​すべての​人は​すべてに​おいて​平等と​いう​自分たちの​望み通りの​民主主義を​取り入れようと​いう​愚かさを​主張しているのです。​この​人々は、​教会が​神の​制定に​より、​教皇と​司教、​司祭、​助祭、​信徒、​その​他の​信者で​構成されている​ことが​納得できないのです。​これが​キリストの​望まれた​制度であるにも​かかわらず。

教会は​神のみ​旨に​よって​位階を​有する​組織と​して​制定されています。​第二バチカン公会議は、​教会を​「位階的に​組織された​社会」と​呼んでいます。​教会では​「役務者​(聖職者)が​聖なる​(神的な)​権能を​持っているのです」。​位階制は​自由と​両立するだけでなく、​神の​子の​自由に​役立つための​ものです。

​ 教会では、​民主主義と​いう​言葉は​無意味です。​繰り返しますが、​教会は​神のみ​旨に​よって​位階的に​組繊されています。​しかし、​位階制とは、​人間的な​思いつきや​非​人間的な​専制ではなく、​聖なる​統治と​聖なる​秩序を​意味します。​主は​教会の​中に​位階的な​秩序​(叙階)を​定められましたが、​それが​圧政に​変わっては​なりません。​なぜなら、​権威​その​ものは、​従順と​同じように、​仕える​ために​あるのです。

​ 教会内では​皆が​平等です。​洗礼の​秘跡を​受けた​人は​すべて​同じ​父なる​神の​子であるからです。​教会に​加わったばかりの​人と​教皇との​間にも、​キリスト信者と​して​何ら​違いは​ありません。​しかし​この​根本的な​平等も、​教会の​構成に​関して​キリストが​定められた​事柄を​変える​ことは​できないのです。​神の​明白な​み旨に​よって​役割​(職務)の​相違が​あり、​聖職者​(役務者)は​叙階の​秘跡が​刻み込んだ​消えない​印章に​よって、​職務を​果たす権能が​与えられます。​この​職務の​頂点に​ペトロの​後継者、​そして​彼と​共に、​彼の​下に、​すべての​司教が​聖化と​統治と​教導と​いう​三重の​使命を​もって​存在します。

く​どいようですが、​重ねて​申し上げます。​信仰と​道徳の​真理は​多数決で​決める​ものでは​ありません。​これは、​キリストが​すべての​信者の​ために​与えられた​〈信仰の​遺産〉であって、​それを​提示し、​権威を​もって​教える​仕事は​教会の​教導職に​委ねられています。

​ 人間は​自分たちを​互いに​結びつける​連帯の​絆を​昔以上に​自覚するようになったから、​時代に​見合った​教会を​作る​ために、​教会の​組織を​変更すべきであると​いう​考えは​間違いです。​時とは、​聖職者であろうと​なかろうと、​人間の​ものではなく、​歴史の​主である​神の​ものです。​そして、​教会が​人々に​救いを​もたらすことのできるのは、​教会自らが​その​組織と​教義と​道徳に​おいて​キリストヘの​忠実を​保つときだけです。

​ ですから​山上の​説教を​忘れて、​教会の​使命は​地上に​おける​幸せを​求める​ことであるなどと​考えては​なりません。​人々を​天国の​永遠の​栄光に​導く​ことこそ、​教会の​唯一の​仕事である​ことを​私たちは​知っています。​神の​恩恵の​働きが​最も​大切である​ことを​認めない​自然主義的解決は、​いかなる​ものであっても​拒絶しましょう。​人間の​生活に​おける​霊的な​ものの​重要性を​見失わせる​唯物的な​考えを​退けましょう。​同時に、​神の​教会の​目的を、​この​地上の​国家の​目的と​同一視しようとする​世俗化傾向を​も拒みましょう。​教会の​本質と​制度と​活動を、​現世の​それに​似た​ものと​混同しては​なりません。

神の​知恵は​深淵である

​ いま朗読した​聖パウロの​考えを​思い​起こしましょう。​「ああ、​神の​富と​知恵と​知識の​なんと​深い​ことか。​だれが、​神の​定めを​究め尽くし、​神の​道を​理解し尽くせよう。​『いったいだれが​主の​心を​知っていたであろうか。​だれが​主の​相談相手であっただろうか。​だれが​まず主に​与えて、​その​報いを​受けるであろうか』。​すべての​ものは、​神から​出て、​神に​よって​保たれ、​神に​向かっているのです。​栄光が​神に​永遠に​ありますように、​アーメン」。​神の​言葉に​照らしてみると、​主が​定められた​ことを​変えようとする​人間の​企ての​なんと​ちっぽけな​ことでしょう。

​ しかし、​今どこに​でも​見られる​人間の​奇妙な能力に​ついて​話さないわけには​いきません。​神に​反抗しても​何も​できなかったので、​執拗に​人間を​攻撃しています。​悪の​恐ろしい​道具と​なって、​罪の​機会を​与えたり、​勧誘したり、​混乱の​種蒔き人と​なり、​内在的に​悪い​行いを​善い​行いと​して​実行させます。

​ いつの​時代にも​無知は​ありました、​しかし​今日、​信仰と​道徳に​関する​粗野な​無知は、​時と​して、​見た​ところ​神学的で​勿体ぶった​名前のもとに​姿を​隠しています。​そこで、​いま朗読された​福音書に​あるように、​使徒に​対する​キリストの​命令は​差し迫った​現実性を​帯びてくると​言えるでしょう。​キリストは​「行って、​すべての​民を​わたしの​弟子に​しなさい」と​仰せに​なりました。​知らん顔を​したり、​腕を​こまぬいていたり、​自分の​殻に​閉じ籠ったりする​ことは​できません。​神の​ために、​平和と​落ち着きと​教えの​偉大な​戦いに​出ていきましょう。

​広い心で​人を​理解し、​愛徳の​優しい​マントで​覆ってあげなければなりません。​一部の​人た​ちが主張するような​教会は、​真の​教会ではないとはっきり​言える​よう、​信仰を​確信させ、​希望を​増し、​私たちを​強める​愛徳で​人々を​覆うのです。​教会は​神の​ものであって、​その​目的は​ただ​一つ、​人々の​救いです。​主に​近づき、​祈りの​中で​顔と​顔を​合わせて​主と​話し合い、​自分の​惨めさの​赦しを​乞い​願い、​私たち自身の​罪、​そして、​今のように​混乱した​状況の​中で​どれほど​ひどく​神を​侮辱しているかに​気づいていない​人々の​罪の​償いを​しましょう。

​ カルワリオでの​流血を​伴う​犠牲を、​流血を​伴わずに​更新する​聖なる​ミサに​おいて、​司祭で​あり犠牲である​イエスは、​人々の​罪の​赦しを​得る​ために​ご自分を​お捧げに​なります。​イエスを​独りぼっちに​しては​なりません。​十字架の​傍らで​イエスと​共に​居たいと​いう、​燃えるような​望みを​持ちましょう。​世界に、​教会に、​人々の​良心に、​平和を​取り戻させてくださる​よう、​慈しみ深い父なる​神に​向かって​私たちの​祈願の​叫びを​あげましょう。

​ このように​するなら、​十字架の​傍らに​おいでになる​神の​御母に​して​私たちの​母、​いとも​聖なる​マリアに​出会う​ことでしょう。​聖母の​祝福された​御手に​よって​イエスのもとへと​導かれ、​イエスを​通して、​聖霊に​おいて、​御父のもと​へ​行く​ことができるでしょう。

この章を他の言語で