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もう​何度も​考えていただいた​ことですが、​イエスの​単純素朴な​ご生活を​今一度​振り返ってみましょう。​主が​隠れてお過ごしに​なった​歳月は、​無意味な​ものではなく、​その後に​来る​公生活の​単なる​準備期間でも​ありませんでした。​一九​二八年以来、​私は​主の​お望みが​はっきりと​わかるようになりました。​キリスト信者は​主の​ご生涯を​模範と​して、​主に​倣わなければならないと​いう​ことです。​主の​ご生涯の​中でも​特に、​隠れた​ご生活、​人々の​中に​あって​同じように​お過ごしに​なった​仕事の​ご生活を​倣ねるべきだと​理解したのです。​何年もの​黙々とした​地味な​生活に​大勢の​人々が​道を​見つけるように​主は​お望みなのです。​神のみ​旨に​従うとは​それゆえ、​自己の​殻から​脱けだす​ことです。​しかし、​それは、​身分、​職業、​社会的環境を​同じく​する​人々の​生活から​離れる​ことを​意味するのでは​ありません。

​ 市民と​しての​生活を​続けながら​自らを​聖化し、​隣人と、​情熱・夢・努力を​分かち合う​神の​子たちの​大群衆を​夢みてきましたが、​この​夢は​すでに​実現しました。​社会の​直中に​あって、​神が​皆さんの​ことを​お忘れに​なったから​でも、​お呼びに​ならなかったから​でも​ないのです。​この​神からの​真理を、​声を​大に​して​叫びたいのです。​地上で​携わっている​活動や​抱いている​抱負を​そのまま​続けなさいと​主は​呼びかけていらっしゃいます。​皆さんの​職業、​能力など、​いわゆる​人間的召し出しは​神の​ご計画と​無関係ではない​どころか、​主は​それらを​御父に​喜んでいただく​捧げ物と​して​聖化してくださったのです。

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