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キリスト信者に​とって、​神のみ​旨に​従う​以外に​生きる​意味は​ないと​言っても、​それは​人々から​離れてしまいなさいと​いう​ことでは​ありません。​それどころか、​多くの​場合、​主の​お与えに​なる​ご命令は、​主が​私たちを​お愛しに​なったように​私たちも​互いに​愛し合う​22ことを​要求します。​〈人々と​一緒に、​同じように​生活しながら〉、​社会に​あって​主に​仕える​ために​自己を​捧げ、​神の​愛を​くまなく​人々に​伝え、​〈地上に​神へ​至る​道が​拓かれた​〉ことを​教えなさいと​主は​命じておられるのです。

​ 私たちを​愛していると​主が​仰せに​なっただけでなく、​行いを​もって​ご自分の​愛を​示してくださいました。​イエス・キリストが​人となられたのは、​神の​子と​しての​生活を​私たちに​教え、​私たちが​その​生活を​学ぶためであった​ことを​忘れては​なりません。​使徒言行録の​は​しがきに​福音史家聖ルカが​書き記しています。​「テオフィロさま、​わたしは​先に​第一巻を​著して、​イエスが​行い、​また​教え​始めてから、​お選びに​なった​使徒たちに​聖霊を​通して​指図を​与え、​天に​上げられた​日までの​すべての​ことに​ついて​書き記しました」23。​教える​ために​来られたのですが、​行いつつ教えられました。​教える​ために​来られましたが、​自ら​行いを​もって​手本を​示し、​師と​なり、​模範と​なる​ためでした。

​ 今、​幼きイエスのみ​前で、​それぞれ良心の​糾明を​続けましょう。​兄弟・同僚・隣人に、​自分の​生活の​模範を​示し、​教えを​伝える​決心を​したでしょうか。​もう​一人の​キリストに​なる​決意が​あるでしょうか。​口先だけの​答えでは​不十分です。​私は​あなたに​尋ねるだけでなく、​私自身にも​問い​かけています。​キリスト信者であるからには、​もう​一人の​キリストと​なるべく​呼ばれている​あなた、​あなたは​神のみ​旨に​注意を​払い、​神の​子に​相応しく​すべてを​成し遂げ、​人々から​「行い、​また​教える」​ために​来たと​言われるだけの​価値が​ありますか。​そうであれば、​救いのみ​業に​関係ある​善い​こと、​気高い​こと、​神の​こと、​人間の​ことに、​すべての​人々を​あずから​せるよう​導く​ことができるのです。​社会での​あなたの​日常生活に​おいて、​キリストの​ご生活を​実行していますか。

​ 神の​業を​行うとは、​美辞麗句を​連ねる​ことではなく、​神である​御方の​ために​自己を​使い​果たしなさいと​いう​招きなのです。​己れに​死に、​新たな​生命に​生まれなければなりません。​十字架の​死に​至るまで​イエスは​従順であったのです。​「へりくだって、​死に​至るまで、​それも​十字架の​死に​至るまで​従順でした。​この​ため、​神は​キリストを​高く​上げ、​あらゆる​名に​まさる​名を​お与えに​なりました」24。​従順であったから​神は​イエスを​高められたのです。​神のみ​旨に​従うならば、​十字架は​復活であり、​称揚でもあります。​キリストの​ご生涯が、​少し​ずつ、​私たちに​おいて​実現する​ことでしょう。​そう​すれば、​たとえ弱さや​過ちがどれほど​多かったとしても、​神の​よい子であろうと​努力し、​善を​なしつつ過ごした​と​言う​ことができるでしょう。

​ そして、​避ける​ことのできない​死が​訪れる​とき、​日常生活に​おいて​多くの​聖人た​ちが死を​待っていたように、​よろ​こんで​死を​迎える​ことができるでしょう。​よろ​こんで​死を​迎えられると​いうのは、​キリストに​倣って​善を​行い、​たとえ惨めさに​満ちてはいても、​従順に、​十字架を​担う​生活を​続けてきたのですから、​「ほんとうに​よみが​えられた​キリスト」25のように​復活できると​いう​ことなのです。

​ 子どもとなられ、​死に​打ち勝たれた​イエスを​黙想しましょう。​ご自分を​無と​する​ことに​よって、​その​謙遜と​従順とに​よって、​平凡で​ありふれた​生活に​神的な​価値を​付与する​ことに​よって、​神の​御子は​勝利者となられました。

​ キリストは​まさに​こうして​勝利を​得たのです。​自らは​人間の​子の​地位にまで​下り、​私たちを​神の​子の​地位にまで​高める​ことに​よって。

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