68

歪んだ物の​受け取り方を​するのが​ほとんど​第二の​天性と​なってしまったような​人々に、​隣人の​善を​考える​ことが​最も​人間的で​あり誠実なのだと​理解させるのは、​極めて​難しい​ことです。​聖アウグスチヌスは​次のように​忠告しています。​「あなたの​兄弟に​欠けていると​思われる​徳を​自分が​実行するように​努めなさい。​あなたにも​その​点が​欠けているのだから、​他人の​その​不足も​見えなくなるだろう」7。​ある​人々に​とって、​このような​考え方は​馬鹿正直としか​思えないでしょう。​彼らは​自分が​もっと​〈現実的〉であり、​〈合理的〉であると​思っているからです。

​ 常に​偏見に​満ちた​判断を​する​人は、​訳も​聞かずに​人を​侮辱します。​次いで、​侮辱された​人に​対して​客観的で​善意に​満ちた​態度を​示し、​自己釈明の​機会を​与えようと​いうのです。​しかし、​自らの​憶測を​立証しないで、​潔白の​人に​その​潔白を​証明する​特典を​与えようと​いう​態度は、​法と​道徳の​常識に​反すると​いう​ほかは​ありません。

​ 今​述べた​ことは​法律や​道徳の​書物から​得た​知識以上の​ことであると​正直に​申し上げるべきでしょう。​多数の​人々が​身を​もって​体験したことに​基づいているからです。​多くの​人々が、​長年に​わたって、​しばしば、​陰口・中傷・名誉毀損などの​標的に​されて​来ました。​しかし、​神の​恩恵と​持って生まれた​素直な​性格の​おかげで、​悲痛や​苦々しさの​影も​彼らには​残りませんでした。​聖パウロと​共に、​「わたしに​とっては、​あなたが​たから​裁かれようと、​人間の​法廷で​裁かれようと、​少しも​問題では​ありません。​わたしは、​自分で​自分を​裁く​ことすらし」8ないと​言う​ことができます。​もっと​平たい​表現を​用いれば、​あんな​ことは​全く​取るに​足りない​ことだったのだと​付け加えた​ことでしょう。​事実、​その​通りだったのです。

​ しかし、​その​反面、​正直者を​不当に​攻撃する​ことを​考えると​同情せざるを​得ません。​不当な​攻撃者と​いうのは​自らを​滅ぼしてしまうことに​なるからです。​また、​途方も​ない​勝手きわまる​訴えを​受けて、​何に​頼って​よいかわらなくなる​大勢の​人々を​思うと、​その​苦しみが​わかりすぎる​ほど​わかります。​彼らは​恐怖に​慄き、​そのような​ことが​あり得るとは​信じられず、​悪夢ではないかと​考え​込んでしまうのです。

​ 数日前の​ミサの​書簡で、​情欲の​乱れた​二人の​老人の​偽証の​おかげで​不貞の​罪を​負わされた​スザンナと​いう​貞女の​物語を​読みました。​「スザンナは​嘆いて​言った。​『私には​逃げ道が​ありません。​もし​私が​あなたたちの​言​うままに​なれば​それは​私に​とって​死ぬことです。​またいやだと​言っても​あなたたちの​手からは​逃げられません』」9。​なんとしばしば、​潔白な​人々が​妬み深い​人や​陰謀家の​仕掛ける​罠に​陥れられる​ことでしょう。​神の​怒りを​かうか、​名誉毀損を​甘んじて​受けるか​その​いずれかの​選択を​迫られるのです。​そんな​時、​「主の​御前に​罪を​犯すより、​罪を​犯さずに​あなたたちの​手中に​おちよう」10と​いう、​気高く​立派では​あるが​同時に​大きな​苦痛を​伴う​解決法しか​残されていないのです。

この点を別の言語で