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犠牲、犠牲。確かに、主が仰せられたように、イエス・キリストに付き従うとは十字架を背負うことである。しかし、主を愛する人々には、そんなに十字架だとか放棄だとか言ってほしくない。なぜなら、愛があれば犠牲は苦しくても喜ばしいものであり、十字架は聖なる十字架であるからだ。
このように愛し、このように自らを捧げることのできる人は、喜びと平和に満たされる。それなのになぜ、慰めを求めるかのように、犠牲のことばかり言うのか。キリストの十字架―あなたの生命―はあなたを幸せにしてくれるのに。
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…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/surco/249/ (2025/11/29)