37

司祭と​信徒

 ​その​驚きは​理解できますが、​その​思いに​賛成すると​言えば、​私が​正直でないことになります。​「そうしたいから」​自らすすんでと​いう、​最も​超自然的な​理由で​司祭職に​入る​この​人たちは、​普通に​用いられる​放棄と​いう​意味で​専門職を​放棄するのではない​ことを​よく​知っています。​オプス・デイヘの​召し出し、​神的な​十全たる​召し出しを​受け、​すでに​以前から​教会と​人々の​ために​役に​立つよう​奉仕してきた​人たちです。​目常生活を​聖化し、​その​仕事の​中で​自らを​聖化し、​専門職を​機会と​して​活用する​ことに​よって​人々の​聖化に​努力してきたからです。

​ すべての​キリスト信者と​同様、​オプス・​デイの​メンバーは、​司祭も、​そして​常に​普通の​キリスト者である​信徒も、​聖ペトロの​次の​言葉の​対象に​なります。​「あなたがたは、​選ばれた​民、​王の​系統を​引く​祭司、​聖なる​国民、​神の​ものとなった民です。​それは、​あなたが​たを​暗闇の​中から​驚くべき光の​中へと​招き​入れてくださった方の​力ある​業を、​あなたが​たが​広く​伝える​ためなのです。​あなたがたは、​『かつては​神の​民ではなかったが、​今は​神の​民であり、​憐れみを​受けなかったが、​今は​憐れみを​受けている』のです」。

​ キリスト信者と​しての​身分は、​司祭の​場合も​信徒の​場合も、​唯一で​あり​同じです。​主なる​神は​すべての​人を​愛徳の​充満、​つまり​聖性へと​召されたからです。​「主イエス・キリストの​父である​神は、​ほめたたえられますように。​神は、​わたしたちを​キリストに​おいて、​天の​あらゆる​霊的な​祝福で​満たしてくださいました。​天地創造の​前に、​神は​わたしたちを​愛して、​御自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​なりました」。

​ 二流の​聖性など​あり得ません。​神の​恩恵の​内に​あって、​模範である​キリストに​一致するか、​あるいは​この​神的と​いえる​戦いを​捨ててしまうか、​いずれかしかないのです。​主は​すべての​人が​それぞれの​身分で​自己を​聖化するよう​招いておられます。​一人​ひとりの​失敗や​惨めさは​無くならないに​しても、​オプス・​デイに​おいて​この​聖性への​熱意は​司祭の​場合も​信徒の​場合も​同じです。​さらに、​司祭の​数は​属人区の​信者の​中で​ほんの​僅かに​過ぎません。

​ 信仰の​目で​見れば、​司祭職に​就くと​いう​ことは​何かを​放棄する​ことでは​ありません。​また、​司祭に​なる​ことは​オプス・​デイの​召し出しの​完成でもありません。​聖性とは、​独身か​既婚か​司祭かと​いうような​身分とは​関係なく、​個人的に​恩恵に​応えるか​否かの​問題なのです。​そして、​闇の​行いを​打ち捨てて、​落ち着きと​平安、​すべての​人の​ために​犠牲を​払い、​喜びに​溢れて​仕える​ことなど、​光の​武器を​身に​着ける​ことができるよう、​恩恵は​誰に​でも​与えられているのです。

この点を別の言語で