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​私が​理解に​苦しむのは、​司祭と​その​他の​信者との​間に​異なる​点を​無視して​両方が​全く​同じであるように​考えたり​言ったりして、​せっかく​その​ために​叙階されておきながら、​教会内で​自らに​固有な​使命を​忘れたり、​ないが​しろに​したりする​司祭の​いる​ことです。​キリスト信者は​司祭の​うちに​もう​一人の​人間を​見たがっていると​彼らは​考えます。​しかし、​本当は​そうでは​ありません。​人々が​司祭の​うちに​見たいと​思い、​また、​感嘆するのは、​キリスト信者と​しての徳であり、​あるいは​少なくとも​高潔な​人と​しての​徳です。​例えば、​理解や​正義、​仕事​(司祭の​場合は​司祭職)、​愛徳と​教養、​心遣いの​行き届いた​人付き合いなど。

​ しかし、​これに​加えて​信者は、​司祭と​しての​特徴が​際立っている​ことも​司祭に​期待しています。​つまり、​よく​祈り、​秘跡を​拒まず、​どのような​事柄であれ人間的党派の​ボスや​闘士にならず、​すべての​人を​受け入れる​司祭を​期待しています。​また、​愛と​信心を​もって​聖なる​ミサを​たて、​告白場に​坐り、​病に​伏す人や​苦しむ人を​慰め、​子供にも​大人にも​要理を​教え、​たとえ熟知している​ことであっても、​救いを​もたら​さず​永遠の​生命に​導かない​人間的な​知識は​教えず、​神の​言葉を​説き、​困っている​人に​勧めと​愛を​与える​用意の​ある​司祭を​期待しているのです。

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