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司祭は​聖なる​ミサの​ため

 しつこく​繰り返しますが、​ぜひ​思い出してください。​聖なる​ミサを​たてる​ときの​司祭は、​罪人であっても、​ただの​人間では​ありません。​その​時、​私たちは​カルワリオの​神的な​犠牲を​祭壇上で​更新する​キリストです。​「司祭たちが​その​主要な​任務を​果たす聖体の​犠牲の​秘義に​おいて、​我々の​贖いの​業が​実現する。​その​ため、​この​祭儀を​日々挙行する​ことが​強く​勧められる、​日々の​祭儀挙行に​信者が​参列できなくても、​それは​キリストの​行為であり、​教会の​行為である」。

​ トリエント公会議の​教えを​見ましょう。​「ミサに​おいて​行われる​神的な​犠牲の​中に、​十字架の​祭壇上で​血を​流して​自分​自身を​捧げた​その​同じ​キリストが​現存し、​血を​流さずに​自分​自身を​捧げている。​(…)​事実、​捧げものは​同一である。​あの​とき​自分を​十字架の​上で​捧げた​キリストが、​いま司祭の​役務を​通して​捧げているからである。​違うのは​捧げ方だけである」。

​ 信者が​聖なる​ミサに​参加していても、​していなくても、​この​真理に​変わりは​ありません。​私は​人々に​囲まれて聖体​祭儀を​とり行う​とき、​自分が​集会の​座長であってもなくても、​嬉しく​思います。​私は​一方では​他の​人と​同じ​一信者ですが、​他方では​何にもまして​祭壇上の​キリストです。​私は、​血を​流さずに​カルワリオの​神的な​犠牲を​更新し、​キリストの​ペルソナに​おいて​聖変化を​実現させ、​本当の​意味での​キリストの​代理者と​なります。​私の​体と​声と​手、​さらに​何度も​汚れ、​主の​清めを​願う​私の​哀れな​心を​主に​お貸しするからです。

​ 一人の​侍者と​聖なる​ミサを​たてる​ときも、​そこには​民全体が​居ます。​私の​傍に​すべての​カトリック信者と​すべての​キリスト者、​さらに​神を​信じない​人々が​居るのを​感じています。​天も​地も​海も、​動物も​植物も、​神の​すべての​被造物が​そこに​居て、​全被​造物が​主に​光栄を​帰しているのです。

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