永遠の司祭

1973年4月13日


数日前の​ことです。​ミサを​たてるに​あたり、​しばし聖体拝領の​詩編の​言葉を​考えていました。​「主は​羊飼い、​わたしには​何も​欠ける​ことがない」。​これを​祈ると、​むかし剃髪式(ていは​つしき)で​唱えられていた​もう​一つの​詩編の​言葉を​思い出します。​「主は​わたしの​運命を​支える方」。​キリストが​司祭の​手に​ご自分を​お任せに​なり、​司祭は​「神の​秘められた​計画を​ゆだねられた​管理者」と​なります。

​ この​夏には​五十人余りの​オプス・デイ属人区の​信者が​聖なる​叙階の​秘跡を​受けます。​一九四四年以来ずっと​恩恵の​働き、​そして​教会への​奉仕を​示す現実と​して、​毎年​僅かずつ司祭が​誕生しています。​それにも​拘わらず、​毎年​不​思議に​思う​人が​います。​どうして​司祭に​なる​決心を​するのでしょうか、と。​今日は​いく​つかの​考察を​示すつもりですが、​ひょっと​すると、​不思議に​思っている​人たちの​困惑を​もっと​増すことに​なるかもしれません。

なぜ、​司祭に​なるのか

 聖なる​叙階の​秘跡を​受ける​これらオプス・​デイの​少数の​メンバーは、​すべて​医師や​弁護士、​技師、​建築家、​あるいは​その​他の​専門職に​就いていて、​長期に​わたる​貴重な​経験の​持ち主で、​社会に​あっては​自分の​仕事の​実りと​して​多少とも​重要な​地位が​期待できる​人々です。

​ 叙階の​秘跡を​受けるのは​仕える​ためです。​命令する​ためでも​自分が​輝いて​良い​格好を​する​ためでもなく、​すべての​人に​役立つよう、​絶えず​崇高に​黙々と​自らを​捧げる​ためです。​それまで​自分が​携わってきて​精通した​仕事が​あり、​その​中で​生涯失う​ことの​ない​社会人と​しての​考え方を​身に​着けていたとしても、​司祭に​なってからは、​信徒が​従事する​仕事や​職業を​真似たいと​いう​誘惑には​決して​負けない​ことでしょう。

​ 歴史や​自然科学、​心理学、​法学、​社会学など、​あらゆる​分野の​人間的な​知識の​専門家であり、​それは​必然的に​社会人と​しての​ものの​見方の​形成に​資するでしょうが、​それにも​拘わらず司祭心理学者や​司祭生物学者、​司祭社会学者と​して​自らを​提示する​ことは​ありません。​彼らが​叙階の​秘跡を​受けたのは、​まさしく​司祭、​百パーセント司祭に​なる​ためなのです。

​彼らが、​かなりの​信徒よりも​さらに​深く、​現世的あるいは​人間的な​事柄を​理解している​公算は​大です。​しかし、​聖職者に​なってからは、​これらの​分野での​資格や能力に​ついては​喜んで​沈黙を​守り、​絶え​ざる​祈りに​強められて、​神に​ついて​のみ​話し、​福音を​説き、​秘跡を​授けます。​こういう​言い方が​できると​すれば、​これこそ​彼ら​司祭に​とっての​新しい​専門職であり、​いつも​時間は​不足が​ちとは​言え、​毎日​毎日​それに​没頭します。​絶えず神に​ついての​知識を​深め、​霊的に​人々を​導き、​告白を​聞き、​常に​教えを​説かなければならないからです。​さらに、​人間である​限り​必ず経験する​種々の​困難を​ものとも​せず、​素晴らしい​献身を​喜んで​実行し、​彼らを​ご自分の​ものとする​ために​選ばれた​主が​実際に​現存なさる​聖櫃を​常に​思いつつ、​たくさん​祈らなければならないからです。

​ 先に​申し上げたように、​このような​考察は​かえって​驚きを​増すだけかもしれません。​疑問を​持ち続ける​人も​いる​ことでしょう。​どうして​たくさんの​こと、​公正な​こと、​大なり小なり卓越した​専門職を​捨てないで、​文化や​教育や​経済、​その​他あらゆる​分野で​社会に​いながら、​自らの​模範で​キリスト教的な​影響を​与え続けないのだろうか、と。

​ また、​今日​多くの​所で​司祭像に​ついて​著しい​混乱が​見られ、​司祭とは​何者か、​司祭の​本質とは​何かを​探求しなければならないと​無駄口を​叩く​人や、​現在の​社会で​司祭職に​おいて​神に​すべてを​捧げる​ことの​意義を​疑問視する​人が​いる​ことは、​ご存じでしょう。​あるいは​また、​司祭への​召し出しの​少ない​時代に、​努力の​甲斐あって​社会での​就職や​仕事の​問題を​解決した​キリスト信者の​内から、​司祭に​なる​人が​出てくることに​驚きを​感じる​向きも​あるでしょう。

司祭と​信徒

 ​その​驚きは​理解できますが、​その​思いに​賛成すると​言えば、​私が​正直でないことになります。​「そうしたいから」​自らすすんでと​いう、​最も​超自然的な​理由で​司祭職に​入る​この​人たちは、​普通に​用いられる​放棄と​いう​意味で​専門職を​放棄するのではない​ことを​よく​知っています。​オプス・デイヘの​召し出し、​神的な​十全たる​召し出しを​受け、​すでに​以前から​教会と​人々の​ために​役に​立つよう​奉仕してきた​人たちです。​目常生活を​聖化し、​その​仕事の​中で​自らを​聖化し、​専門職を​機会と​して​活用する​ことに​よって​人々の​聖化に​努力してきたからです。

​ すべての​キリスト信者と​同様、​オプス・​デイの​メンバーは、​司祭も、​そして​常に​普通の​キリスト者である​信徒も、​聖ペトロの​次の​言葉の​対象に​なります。​「あなたがたは、​選ばれた​民、​王の​系統を​引く​祭司、​聖なる​国民、​神の​ものとなった民です。​それは、​あなたが​たを​暗闇の​中から​驚くべき光の​中へと​招き​入れてくださった方の​力ある​業を、​あなたが​たが​広く​伝える​ためなのです。​あなたがたは、​『かつては​神の​民ではなかったが、​今は​神の​民であり、​憐れみを​受けなかったが、​今は​憐れみを​受けている』のです」。

​ キリスト信者と​しての​身分は、​司祭の​場合も​信徒の​場合も、​唯一で​あり​同じです。​主なる​神は​すべての​人を​愛徳の​充満、​つまり​聖性へと​召されたからです。​「主イエス・キリストの​父である​神は、​ほめたたえられますように。​神は、​わたしたちを​キリストに​おいて、​天の​あらゆる​霊的な​祝福で​満たしてくださいました。​天地創造の​前に、​神は​わたしたちを​愛して、​御自分の​前で​聖なる者、​汚れの​ない​者にしようと、​キリストに​おいて​お選びに​なりました」。

​ 二流の​聖性など​あり得ません。​神の​恩恵の​内に​あって、​模範である​キリストに​一致するか、​あるいは​この​神的と​いえる​戦いを​捨ててしまうか、​いずれかしかないのです。​主は​すべての​人が​それぞれの​身分で​自己を​聖化するよう​招いておられます。​一人​ひとりの​失敗や​惨めさは​無くならないに​しても、​オプス・​デイに​おいて​この​聖性への​熱意は​司祭の​場合も​信徒の​場合も​同じです。​さらに、​司祭の​数は​属人区の​信者の​中で​ほんの​僅かに​過ぎません。

​ 信仰の​目で​見れば、​司祭職に​就くと​いう​ことは​何かを​放棄する​ことでは​ありません。​また、​司祭に​なる​ことは​オプス・​デイの​召し出しの​完成でもありません。​聖性とは、​独身か​既婚か​司祭かと​いうような​身分とは​関係なく、​個人的に​恩恵に​応えるか​否かの​問題なのです。​そして、​闇の​行いを​打ち捨てて、​落ち着きと​平安、​すべての​人の​ために​犠牲を​払い、​喜びに​溢れて​仕える​ことなど、​光の​武器を​身に​着ける​ことができるよう、​恩恵は​誰に​でも​与えられているのです。

司祭職の​尊さ

 司祭職とは、​それ自体、​他の​人たちと​比べてより​良い​身分でも、​より​悪い​身分でもありません。​それは​人々と​本質的に​異なった​身分を​受けて​神に​仕えると​いう​ことです。​しかし​司祭の​召し出しは、​この​地上で​並ぶものが​ない​ほどの​尊厳と​偉大さとを​持っています。​シエナの​聖カタリナは、​次の​言葉が​イエス・キリストの​口から​出たと記しています。​「司祭に​対する​敬いの​心が​少なくならないよう望む。​司祭に​対する​敬意や​尊敬は​彼らの​ためではなく、​それを​司るよう​彼らに​与えた​血ゆえに、​わたしに​対して​示される​ものである。​もしそうでなければ、​司祭に​対する​敬いは、​他の​信者に​対するのと​同じでなければならず、​それ以上では​あり得ない。​(…)​司祭を​侮辱してはならない。​司祭を​侮辱する​者は、​わたしを​侮辱する​ことになる。​それゆえ、​わたしは​それを​禁止し、​わたしの​キリストたち、​つまりわたしの​注油された​ものに​触れるなと​言ったのである」7。

​ いわゆる​司祭の​独自性や本質を​懸命に​なって​探し求める​人が​います。​聖カタリナの​言葉で​明らかでは​ありませんか。​司祭の​独自性とは​何でしょうか。​キリストの​独自性の​ことです。​キリスト信者は​すべて、​もう​一人の​キリストではなく、​キリスト自身に​なるべきです。​ところで​司祭の​場合には、​これが​秘跡のかたちで​直接に​与えられています。

​「キリストは、​このように​偉大な​業 ― 贖い​ ― を​成就する​ために​常に​自分の​教会と​共に、​特に​典礼行為に​現存している。​キリストは​ミサの​犠牲の​うちに​現存している。​『かつて​十字架上で​自身を​捧げた​同じ​キリストが、​今、​司祭の​奉仕に​よって​奉献者と​して』、​司祭の​うちに​現存するとともに、​また​特に、​聖体の​両形態のもとに​現存している」。​叙階の​秘跡に​よって、​実際に​司祭は​声と​手と​自分の​全存在を​主に​貸すことになります。​聖なる​ミサ中、​聖変化の​言葉で​パンとぶどう​酒の​実体を​キリストの​御体と​御霊魂、​御血、​神性に​変えるのは、​イエス・キリストです。

​ これこそ、​他の​追随を​許さない​司祭の​尊厳のもとです。​私の​卑小さが​借り物の​尊厳と​共存しているのです。​すべての​司祭が​聖なる​事柄を​聖なる​仕方で​実現する​ため、​また、​私たち司祭が​自らの​生活に​主の​偉大さを​反映させる​ための​恩恵を​お与えくださる​よう、​主に​お願いしています。​「主の​受難の​秘義を​祝う​私たちは、​自分が​祝う​ことを​真似なければならない。​私たち自身が​ホスチアと​なれば、​その​ホスチアが​神のみ​前で​私たちの​場を​占めてくれるだろう」。

​ 万一、​見た​ところ​福音に​従った​生活を​していないと​思える​司祭に​出会っても、​裁かないでください。​お裁きに​なるのは​神ですから。​そして​その​司祭も、​聖変化させる​意向のもとに​有効な​ミサを​たてれば、​相応しくなくても​その​手に​主が​おいでになる​ことを​知っておいてください。​ベツレヘムや​カルワリオさえ​及ばない、​これほどの​奉献と​自己放棄を​考える​ことができるでしょうか。​なぜなら、​イエス・キリストは​人々の​贖いを​切望する​あまり、​締め付けられるような​思いを​しておられるからです。​呼ばれなかったと​いう​人が​一人も​いないように​とお望みですし、​主を​探し求めていない​人には​偶然に​出会ったようになさるからです。

​ 愛、​これしか​説明のしようが​ありません。​キリストの​愛を​言葉で​言い​表す​ことなどできないのです。​傷ついた​聖心の​鼓動に​気づくかもしれないたった​一人の​ためであっても、​主は​その​可能性を​与える​ために、​すべてに​おいて​身を​低くして​近づき、​すべてを​認め、​汚聖にも​冒涜にも​大勢の​無関心の​冷淡にも、​身を​さらされます。

​ キリストが​勝ち得てくださった​救いの​恩恵を、​人々に​日々直接伝える​道具に​なる、​これこそ​司祭の​独自性です。​この​ことが​理解できれば、​祈りの​活動的な​沈黙の​中で​この​点を​黙想するなら、​司祭職を、​何かを​放棄する​ことだと​考えるような​ことは​できないはずです。​計算などできない​利益です。​私たちの​母である​聖マリア、​被造物の​中で​最も​聖なる​御方、​神に​次ぐ​御方は​この​世に​一度だけ主を​もたらせました。​ところで、​司祭は​私たちの​世界と​体と​霊魂のもと​へ​毎日​キリストを​もたらし、​そして​キリストは、​私たちに​糧を​与え、​元気づけ、​永遠の​生命の​保証を​すでに​今から​与える​ために​来てくださいます。

共通の​司祭職と​職位的司祭職

 司祭は、​人間と​しても​キリスト者と​しても、​他の​信者以上の​存在では​ありません。​それゆえ、​司祭は​深い​謙遜を​育むべきであり、​聖パウロの​言葉が​特に​当てはまるのは​自分である​ことを​理解すべきです。​「あなたの​持っている​もので、​いただかなかった​ものが​あるでしょうか」。​受けた​もの、​それは​神です。​受けた​ものとは、​司祭叙階の​目的である​聖なる​ミサ・聖体の​秘跡を​捧げる​力であり、​さらに、​罪を​赦し、​他の​秘跡を​司り、​権威を​もって神の​言葉を​説き、​天の​国に​関する​事柄に​ついて​他の​信者を​導く​ことです。

​「司祭の​司祭職は​キリスト教入信の​諸秘跡を​前提と​するが、​別個の​秘跡に​よって​授与される。​この​秘跡は、​聖霊の​塗油に​よって​特別な​霊印​(印章)を​司祭に​しるし、​こうして、​司祭は​頭である​キリストの​ペルソナに​おいて​行動できるように、​司祭キリストに​似た​ものとなる」。​教会とは、​人間の​気紛れに​よってではなく、​創立者である​キリストの​明白な​み旨に​よって、​こういう​ものなのです。​「犠牲と​司祭職とは​神の​計画に​よって​結ばれており、​旧約と​新約の​両時代に​常に​存在した。​新約に​おいて、​カトリック教会は​主の​制定に​よって​聖体の​可見的犠牲が​与えられたのであるから、​その​教会に​新しい​可見的、​外的司祭職が​ある​ことを​認めなければならない。​こうして​旧約の​司祭職は​この​新しい​司祭職に​代わったのである」。

​ 司祭叙階を​受けた人の​場合、​すべての​信者に​共通の​司祭職に​職位的司祭職が​加えられます。​従って、​司祭が​他の​信者よりもっと​信者であると​いえば​間違いですが、​司祭が​他の​信者よりもっと​司祭であるとは​言えます。​司祭は​他の​すべての​信者と​同じように、​キリストが​贖われた​司祭的な​民に​属しているだけでなく、​職位的司祭職の​霊印​(印章・カラクテル)を​も押されており、​これを​信者の​共通の​司祭職と​比べると、​「段階に​おいてだけでなく、​本質に​おいて​異なる」と​いう​ことになります。

​私が​理解に​苦しむのは、​司祭と​その​他の​信者との​間に​異なる​点を​無視して​両方が​全く​同じであるように​考えたり​言ったりして、​せっかく​その​ために​叙階されておきながら、​教会内で​自らに​固有な​使命を​忘れたり、​ないが​しろに​したりする​司祭の​いる​ことです。​キリスト信者は​司祭の​うちに​もう​一人の​人間を​見たがっていると​彼らは​考えます。​しかし、​本当は​そうでは​ありません。​人々が​司祭の​うちに​見たいと​思い、​また、​感嘆するのは、​キリスト信者と​しての徳であり、​あるいは​少なくとも​高潔な​人と​しての​徳です。​例えば、​理解や​正義、​仕事​(司祭の​場合は​司祭職)、​愛徳と​教養、​心遣いの​行き届いた​人付き合いなど。

​ しかし、​これに​加えて​信者は、​司祭と​しての​特徴が​際立っている​ことも​司祭に​期待しています。​つまり、​よく​祈り、​秘跡を​拒まず、​どのような​事柄であれ人間的党派の​ボスや​闘士にならず、​すべての​人を​受け入れる​司祭を​期待しています。​また、​愛と​信心を​もって​聖なる​ミサを​たて、​告白場に​坐り、​病に​伏す人や​苦しむ人を​慰め、​子供にも​大人にも​要理を​教え、​たとえ熟知している​ことであっても、​救いを​もたら​さず​永遠の​生命に​導かない​人間的な​知識は​教えず、​神の​言葉を​説き、​困っている​人に​勧めと​愛を​与える​用意の​ある​司祭を​期待しているのです。

一言で​いうと、​司祭に​要求されているのは、​特に、​御体と​御血の​犠牲を​捧げる​ときと、​ゆる​しの​秘跡を​通して​神の​名に​おいて​罪を​赦すときに、​自分の​うちに​現存される​キリストの​邪魔を​しない​ことです。​この​二つの​秘跡の​授与は​司祭の​使命の​うち最も​大切な​ことで、​他の​ことは​付随的であると​言えます。​説教や​信仰教育と​いった​その​他の​司祭の​仕事も、​キリストに​接するよう​教え、​ゆる​しの​秘跡と​いう​愛の​法廷と​聖なる​ミサの​中で​再現される​カルワリオの​無血の​犠牲に​おいて、​キリストとの​出会いへと​導かなければ、​その​根拠が​ないと​いう​ことになります。

​ もうしばらく​聖なる​犠牲に​ついての​考えを​続けさせてください。​ミサが​私たちに​とって​キリスト教的生活の​中心で​あり根源であるなら、​司祭の​生活に​とっては​特に​そう​ある​べきです。​司祭が​自分の​落度で​毎日の​ミサを​たてずに​いると​すれば、​あまり神を​愛していないと​言われても​仕方​ないでしょう。​万一、​そうであれば​キリストの​贖いの​熱意を​自分の​ものと​せず、​霊魂の​糧と​して​食物と​なり、​無防備で​自らを​渡された​主の​焦慮を​理解できず、​かえって​キリストを​非難する​ことに​なるでしょう。

司祭は​聖なる​ミサの​ため

 しつこく​繰り返しますが、​ぜひ​思い出してください。​聖なる​ミサを​たてる​ときの​司祭は、​罪人であっても、​ただの​人間では​ありません。​その​時、​私たちは​カルワリオの​神的な​犠牲を​祭壇上で​更新する​キリストです。​「司祭たちが​その​主要な​任務を​果たす聖体の​犠牲の​秘義に​おいて、​我々の​贖いの​業が​実現する。​その​ため、​この​祭儀を​日々挙行する​ことが​強く​勧められる、​日々の​祭儀挙行に​信者が​参列できなくても、​それは​キリストの​行為であり、​教会の​行為である」。

​ トリエント公会議の​教えを​見ましょう。​「ミサに​おいて​行われる​神的な​犠牲の​中に、​十字架の​祭壇上で​血を​流して​自分​自身を​捧げた​その​同じ​キリストが​現存し、​血を​流さずに​自分​自身を​捧げている。​(…)​事実、​捧げものは​同一である。​あの​とき​自分を​十字架の​上で​捧げた​キリストが、​いま司祭の​役務を​通して​捧げているからである。​違うのは​捧げ方だけである」。

​ 信者が​聖なる​ミサに​参加していても、​していなくても、​この​真理に​変わりは​ありません。​私は​人々に​囲まれて聖体​祭儀を​とり行う​とき、​自分が​集会の​座長であってもなくても、​嬉しく​思います。​私は​一方では​他の​人と​同じ​一信者ですが、​他方では​何にもまして​祭壇上の​キリストです。​私は、​血を​流さずに​カルワリオの​神的な​犠牲を​更新し、​キリストの​ペルソナに​おいて​聖変化を​実現させ、​本当の​意味での​キリストの​代理者と​なります。​私の​体と​声と​手、​さらに​何度も​汚れ、​主の​清めを​願う​私の​哀れな​心を​主に​お貸しするからです。

​ 一人の​侍者と​聖なる​ミサを​たてる​ときも、​そこには​民全体が​居ます。​私の​傍に​すべての​カトリック信者と​すべての​キリスト者、​さらに​神を​信じない​人々が​居るのを​感じています。​天も​地も​海も、​動物も​植物も、​神の​すべての​被造物が​そこに​居て、​全被​造物が​主に​光栄を​帰しているのです。

第二バチカン公会議の​言葉を​借りて​申し上げますが、​(聖体​祭儀を​行う​とき)​私たちは​特に​天上の​教会の​礼拝に​最も​よく​結ばれています。​第一に​栄えある​終生処女聖マリア、​さらに​聖ヨセフ、​聖なる​使徒、​殉教者、​諸聖人との​交わりに​結ばれ、​彼らを​記念し敬います。

​ すべての​キリスト信者に​お願いします。​私たち司祭が​聖なる​犠牲を​聖なる​仕方で​実現させる​ことができるよう​祈ってください。​聖なる​ミサに​濃やかな​愛を​示してください。​司祭が​皆さんの​愛に​動かされ、​人間的超​自然的な​尊厳を​もって​優雅に、​手入れの​行き届いた​祭服と​典礼用具や​器具を​使い、​信心を​込めて​急が​ずに​ミサを​たてる​ことのできるように​助けてください。

​ なぜ急ぐのでしょうか。​恋人たちは​大急ぎで​分かれますか。​彼らは​分かれそうで​分かれない。​何度も​戻って​来ては​ありふれた​言葉を​今発見したかのように​繰り返します。​高貴で​清い​人間の​愛を​例に​出して、​神に​関する​事柄に​当てはめてもかまいません。​私たちは​他の​心を​持ち合わせていないので、​人の​心で​主を​愛するわけですが、​そうであるなら、​神との​この​出会い、​この​愛の​約束を​急いで​終らせて​よいはずが​ありません。

​ 悠々と​している​人も​居ます。​お知らせと​連絡を​疲れ果ててしまうくらい​続けるのです。​ところが、​聖なる​ミサの​本質的な​部分、​固有の​意味での​犠牲の​時が​来ると、​大急ぎで​走る。​こうして​信者た​ちが、​司祭で​あり犠牲である​キリストを​信心深く​礼拝する​ことも、​私たちのもとに​再び来てくださった​主に、​拝領後、​ゆっくり慌てずに​感謝する​ことも​できなくさせるのです。

​ ミサは、​キリスト信者の​心の​うちに​ある​愛情や​望みを​表すための​最良の​流れと​なります。​すなわち、​聖霊に​おいて、​キリストを​通って、​御父へと​至る​流れです。​皆が​これを​知り、​そう​生きるよう助けるのは​司祭の​義務です。​聖体を​愛し、​敬う​よう​教える​仕事に​優先させるような​活動は​あり得ません。

​「司祭は​二つの​行為を​行う。​一つは​真の​キリストの​体に​対する​もの、​もう​一つは​二次的で​キリストの​神秘体に​対する​ものである。​第二の​行為あるいは​聖務は、​第一の​ものに​依存する。​その逆ではない」。​それゆえ、​司祭の​務めの​うち最良の​ものは、​すべての​カトリック信者が、​より​清く​謙遜と​敬いを​もって​聖なる​犠牲に​あずかるよう助ける​ことです。​司祭が​このように​努力すれば、​落胆する​ことも、​兄弟である​信者たちを​裏切る​こともないでしょう。

​ 「あなたの神である​主を​拝み、​ただ主に​仕えよ」と​いう、​創造主に​対する​被造物の​義務の​第一は、​聖なる​ミサの​礼拝に​おいて​愛を​込めて​果たされます。​召使のような​冷淡で​外面的な​礼拝ではなく、​愛する​子が​示す尊敬と​敬意です。

​ 聖なる​ミサでは、​私たちと​すべての​人々の​罪の​償いを​する​ため、​また​聖パウロと​共に、​キリストの​苦しみの​欠けた​ところを、​身を​もって​満たす21と​言う​ための、​最高の​機会が​与えられています。​この​世では、​一人だけで​生きている​人は​いません。​原罪そして​多くの​自罪すべての​結果と​して、​この​世で​犯される​悪に​くみしていない​人は​いません。​犠牲を​愛し、​償いを​探しましょう。​どのように?​ 聖なる​ミサに​おいて​司祭で​あり犠牲である​キリストに​一致する​ことに​よって。​被造物と​私と​あなたの​不忠実と​いう​押しつぶされんばかりの​重荷を​背負うのは​常に​キリストですから。

カルワリオの​犠牲は​キリストの​寛大さが​無限である​ことを​示す証しです。​私たち一人​ひとりは​いつも​打算的です。​しかし、​私たちが必要と​する​ことを​聖なる​ミサの​中で​悉く​み前に​申し出ても、​主なる​神は​気になさいません。​主よ、​この​病を、​主よ、​この​悲しみを、​主よ、​御身への​愛を​示すためと​思いつつも​忍ぶことのできない​あの​辱めを、と​いうように、​誰にも​願うべきことが​あるでしょう。​家族には、​良い​こと、​幸せ、​喜びを​望んでいます。​食物と​正義に​飢え渇く​人々の​不運、​孤独を​味わっている​人々、​晩年に​なって​愛情や​世話を​受ける​ことのできない​人々を​見ると​心が​痛みます。

​ しかし、​私たちの​苦しみのもとであるたい​へん​惨めな​状態、​手段を​講ずるべき緊急事態と​いえば、​それは​罪であり、​神からの​離反、​人々が​永遠に​滅びる​危険です。​神の​愛の​うちに​人々を​永遠の​栄光に​導く​こと、​これこそ、​キリストが​カルワリオで​生命を​捧げられた​時と​同じく、​ミサを​たてるに​当たり、​私たちが​根本的に​望む事柄なのです。

​ 罪なき犠牲である​キリストが​司祭の​手に​おいでになる​とき、​このような​ことを​誠実に​話すことにしましょう。​主は​必ず助けてくださると​信頼しているなら、​濃やかな心で、​苦しむ​人や、​すぐに​悲しみに​変わってしまうのも​知らず、​空虚な​満足を​装っている​人に​対して、​常に​良い​行いと​愛、​理解と​優しさを​示すことができるでしょう。

最後に、​主なる​神が​お与えに​なった​こと​すべて、​私たちの​ための​主の​素晴らしい​献身に​感謝しましょう。​受肉された​みことばが​私たちの​心に​来てくださいますように。​天と​地を​造られた​御方が​ちっぽけな​私たちの​内に​入り込んでくださいますように。​聖母マリアは​胎内に​キリストを​宿らせる​ため、​無原罪で​お生まれに​なりました。​賜物と​功徳の​間の​相違が​大きければ​大きいほど、​より​一層深い​感謝を​示すべきであるのなら、​私たちの​日常の​生活全体を​絶え間ない​感謝に​すべきではないでしょうか。​聖体を​拝領してから​すぐに​教会を​後に​しないでください。​ありがとう​ございますと​申し上げる​ため、​主に​十分間も​捧げる​ことができない​ほど、​あなたを​待っている​ことは​大切なのですか。​さも​しくは​なりたくない​ものです。​愛には​愛を​もって​報わなければなりません。

永遠に​司祭

 聖なる​ミサを​たてる​とき、​このように​キリストと​ひとつに​なって、​礼拝と​償い、​祈願、​感謝を​捧げ、​祭壇上の​犠牲を​キリスト者の​生活の​中心および​根源と​するよう​人々に​教える​司祭なら、​永遠に​失う​ことの​ない​印章で​封印された​召し出しの​比類ない​偉大さを​示すことになります。

​ このような​司祭が​いる​一方で、​神の​奉仕者​(役務者)に​なることが​何か​恥しい​ことであるかのように​振る​舞う​司祭の​態度は、​人間的にも​キリスト教的にも​間違っていると​考えるべきでしょう。​私が​こう​言っても、​皆さんは​分かってくださるでしょう。​不幸な​ことです。​なぜなら、​聖職を​捨て、​信徒の​真似を​し、​徐々に​本来の​召し出しと​使命を​脇に​置き、​二つ目の​仕事を​探し求めるようになるからです。​人々の​霊的な​世話を​する​仕事から​逃げると、​往々に​して​社会活動や​政治活動など​信徒に​固有な​分野に​介入するようになり、​果ては、​司祭の​真の​使命が​歪められた​状態、​つまり​聖職者主義に​陥ってしまいます。

このような​悲観的な​響きを​持つ暗い​調子のままで​終わりたく​ありません。​神の​教会から​真の​キリストの​司祭職が​消えてしまったわけでは​ありません。​神である​イエスが​お教えに​なった​事柄は​不変です。​教会の​始めから​存在している​聖性と​恩恵の​宝を​捨て​去る​誘惑に​陥る​ことなく、​黙々と​恩恵に​応えて​働き続ける​司祭が​世界中に​大勢います。

​ 世界中に​散らばった​(司祭職に​おける)​兄弟たちの​示す、​人間的・​超​自然的に​洗練された​尊い​濃やかさを、​私は​心ゆく​まで​味わっています。​彼らが​すでに​今から、​大勢の​キリスト信者の​友情と​助けと​愛情に​囲まれているのも​当然でしょう。​この​世に​いる間、​主のみ​名と​ペルソナに​おいて​聖務を​果たし、​自分の​管理に​委ねられた​恩恵を​寛大に​人々の​上に​注いだ司祭は、​神のみ​前に​出頭する​とき、​イエス・キリストの​出迎えを​受け、​永遠に​讃えられる​ことでしょう。

​ この​夏、​司祭に​なる​オプス・デイ属人区の​信者に​再び​思いを​戻しましょう。​彼らが​常に​忠実で、​信心深く、​博識を​保ち、​献身的で​喜びに​溢れた​司祭である​よう、​続けて​祈ってください。​御子で​あり永遠の​司祭である​主イエス・キリストの​傍で、​生涯を​かけて​仕える​人々に、​聖母は​誠に​母親らしい​心遣いを​示してくださいますから、​彼らを​特に​聖母に​委ねてください。

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