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余談ですが、​この​場に​本当に​ふさわしい​話題なので、​少し本筋から​逸れる​ことを​お許しください。​私は​今まで​出会った​ことの​ある​どなたに​対しても、​その​人の​政治的見解に​ついて​尋ねた​ことは​一度も​ありません。​私は​政治問題に​関心が​ないのです。​このような​姿勢を​保つことに​よって、​聖なる​教会に​仕える​ために​神の​恩寵と​慈しみに​助けられ、​私の​すべてを​捧げてきた​オプス・​デイの​精神を​はっきりと​人々に​示してきました。​政治問題は​私の​関心事では​ありません。​キリスト者は、​全く​自由に、​教会の​教導職が​定めた​範囲内で、​政治や​社会、​文化などの​問題に​自ら望む方​法で​関与する​ことができます。​もちろん、​自由の​行使に​伴う​責任を​負うのは​当然です。​万一、​教導職の​範囲を​越えるような​ことが​あれば、​その​時こそ、​私は​その​人の​救いを​思って​心配する​ことでしょう。​その​時には、​告白する​信仰と​行いとが​明らかに​対立する​ことに​なるわけですから、​私は​はっきりと​注意する​つもりです。​しかし、​神法から​離れていない​限り、​意見を​述べる​自由は、​侵すことのできない​権利と​して​尊重されなければなりません。​ただ、​この​ことを​理解できない​人々もいます。​彼らは​十字架上で​キリストが​勝ち得てくださった​自由18が​本当に​何を​意味するかを​知らないのです。​このような​人たちは​互いに​敵対する​党派心に​負けて、​現世に​関する​意見を​必ず​信ずべき教義であるかの​よう​押しつけ、​人間の​尊厳を​卑しめ、​信仰の​価値を​否定し、​その​結果、​信仰に​関するとんでも​ない​誤りを​生じさせる​ことになります。

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