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首尾一貫した​生活

洗礼に​よって​「もう​一人の​キリスト」に​なるよう召された​カトリック信者が、​神の​子で​ありながら、​ただ形だけの​信心で​良心を​満足させている​ことを​見るに​つけ、​心が​痛みます。​その​人々の​宗教心は​憐れむべきものであって、​自分に​都合が​よい​ときだけ、​時々​祈りに​赴き、​腹を​満た​すため決まった​時間に​食事を​摂る​ことには​几帳面な​注意を​払う​一方、​ミサは​定められた​日に​限ってしまう。​しかも、​その​義務さえ常に​果たすわけではない。​また、​エサウのように​「あじ豆スープの​ために」、​つまり​自分の​地位を​守る​ために、​信仰に​おいて​譲歩したり、​信仰の​中身を​変えたりさえする。​そうしてから、​厚かましくも​立身出世の​ために​キリスト信者の​レッテルを​かかげ、​人々の​躓きとなる。​もっての​ほかです。​私たちは​こんな​レッテルだけでは​我慢できません。​どこから​見ても​百パーセントの​キリスト信者でなければならないのです。​そして、​そうなるには、​間に​合わせの​手段ではなく、​霊的に​適切な​糧を​探す必要が​あります。

​ がっかりする​ことがないように、​前もって​私が​繰り返し​述べてきた​ことは、​よく​ご存じの​ことと​思います。​内的生活とは​毎日​何度も​始める​ことに​あると​いう​ことを、​皆さんは​自らの​経験に​照らして​よく​知っておられ、​休みなく​戦わなければならない​ことも​悟っておられる。​良心の​糾明に​おいて、​たびたび小さな​悲しみに​襲われる​こともあるでしょう。​時には、​愛や​献身、​犠牲の​精神や​細やかさが​不足している​ことを​まざまざと​見せつけられ、​それらが​途方もなく​大きな​ものに​思われたと​いう​経験もなさった​ことでしょう。​私にも​同じ​経験が​あります。​私事に​言及するのは​恐縮ですが、​こう​お話ししている​間も、​主と​共に​私の​霊魂の​必要事に​ついて​思いを​巡らしています。​心の​平和を​失う​ことなく、​真実の​痛悔を​もって、​もう​一度​始めようと​いう​決意を​強めようでは​ありませんか。

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