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心の​中でも、​また、​付き合いや​仕事など外に​表れる​行いに​おいても、​神の​現存を​絶えず​保ち、​神との​内的な​語り合いを​続けなければなりません。​あるいは、​次のように​言った​方が​よいかも​知れません。​絶え​ざる​神の​現存とは、​ふつうは​言葉に​表れる​ものではないけれども、​重要な​仕事であれ些細な​仕事であれ、​仕事を​果たす際の​努力と​愛の​こもった​勤勉な​態度に、​さりげなく​表れる​べきであると。​このような​努力を​怠れば、​神の​子と​しての​身分と​甚だしく​矛盾する​生き方を​する​ことに​なるでしょう。​「神の​子に​対する​信仰と​知識に​おいて​一つの​ものとなり、​成熟した​人間に​なり、​キリストの​満ちあ​ふれる​豊かさに​なるまで​成長する」​24ように、​摂理に​よって、​主が​手の​届く​ところに​置いてくださった​手段を​無駄に​してしまうことに​なるからです。

​ 戦時中、​前線に​働く​多数の​青年たちを​司祭と​して​世話する​ため、​しばしば旅に​出ました。​その頃、​ある​町の​近くの​塹壕で​起こった、​今でも​忘れられない​出来事が​あります。​一人の​若い​兵士が、​見た​ところ​柔弱で​臆病そうな​別の​兵士に​ついて​こう​言ったのです。​「あいつは​気骨の​ない​男だ」。​私たちの​うちの​誰かに​ついて、​気骨の​ない​人間であると​躊躇なく​断言されるような​ことが​あれば、​まことに​悲しいとしか​言いようが​ありません。​自分は​真の​キリスト者、​つまり​聖人に​なりたいと​思っていると​自信を​もって​言える​人でも、​自らの​義務を​果たすに​当たって、​絶えず神に​愛と​忠実を​示さないなら、​その​人は​確かに​手段を​軽視しているのです。​万一、​私たちが​この​有様なら、​私も​あなたも、​気骨の​ある​キリスト信者とは​言えません。

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