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神に​舟の​舵を​お任せする、​つまり主を​船長と​して​迎えるなら​安全この​上なしと​言えます。​たとえ神が​いてくださらないように​思えても、​神が​眠っておられ、​全く​注意を​払ってくださらないように​感じても、​あるいは、​暗闇の​中で​嵐が​起こったとしても、​主が​船長で​あれば、​危険な​ことは​何も​起こりません。​聖マルコは、​使徒たちも​そんな​状態に​なったことがあると​述べています。​「逆風の​ために​弟子たちが​漕ぎ悩んでいるのを​見て、​夜が​明ける​ころ、​湖の​上を​歩いて​弟子たちの​ところに​行き、​そばを​通り過ぎようとされた。​(…)​イエスは​すぐ​彼らと​話し始めて、​『安心しなさい。​わたしだ。​恐れる​ことはない』と​言われた。​イエスが​舟に​乗り込まれると、​風は​静まり、​弟子たちは​心の​中で​非常に​驚いた」27。

​ 皆さん、​この​世では​本当に​色々な​事が​起こります。​沢山の​人の​苦労、​難儀、​虐待、​文字通りの​殉教、​英雄的行為に​ついて​語る​ことも​できます。​私たちには​イエスが​眠っておられるように​映り、​私たちに​耳を​傾けてもくださらないと​思える​ことがしばしば​あります。​ところで、​主は​弟子たちを​どのように​扱われたのでしょう。​聖ルカは​次のように​記しています。​「(湖を​)渡って​行く​うちに、​イエスは​眠ってしまわれた。​突風が​湖に​吹き降ろして​来て、​彼らは​水を​かぶり、​危なくなった。​弟子たちは​近寄って​イエスを​起こし、​『先生、​先生、​おぼれそうです』と​言った。​イエスが​起き​上がって、​風と​荒波とを​お叱りに​なると、​静まって​凪に​なった。​イエスは、​『あなたが​たの​信仰は​どこに​あるのか』と​言われた」28。

​ 神に​自らを​捧げるなら、​主も​ご自身を​お与えに​なる。​主に​全幅の​信頼を​寄せ、​けちけちせずに​主のみ​手に​自分を​投げ出さなければなりません。​舟は​主の​ものである​ことを、​行いに​よって​認める​必要が​あるのです。​持っている​もの​すべてを​主に​使っていただければと​思いますが、​この​望みを​行いで​示さなければなりません。

​ 最後に、​聖母の​執り成しを​お願いしながら、​次のような​決心を​立て、​この​祈りの​ひと​ときを​終りたいと​思います。​信仰に​よって​生きる​こと。​希望を​もって​堅忍する​こと。​イエス・キリストから​離れない​こと。​本当に、​本当に、​本当に​主を​愛する​こと。​神の​ことに​夢中に​なって​この​愛の​冒険を​続ける​こと。​粗末な舟である​私たちに​お乗りに​なり、​霊魂の​主人と​なってくださる​キリストの​邪魔を​しない​こと。​誠実な​態度で​一日中、​昼も​夜も、​主の​現存を​保つ努力を​する​こと。​主が​私たちを​信仰に​お呼びに​なったのです。​「主よ、​お話しください。​僕は​聞いております」29。​主のもとで​のみ、​この​世の​幸せと​永遠に​続く​真の​幸せの​ある​ことを​確信し、​善き牧者の​口笛と​声に​魅せられたので、​私たちは​主の​囲いの​中に​入ったのです。

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