260

イエスに​付き従って、​この​神の​漁に​加わりましょう。​イエスは​ゲネサレト湖畔に​お立ちに​なっている。​人々は、​「神の​言葉を​聞こうと​して」10、​主の​周りに​押し寄せました。​今も​同じ​情景が​見られるのではないでしょうか。​外面的には​ごまか​している​ものの​実は​神の​言葉を​聞きたくて​仕方が​ない。​ある​人は​キリストの​教えを​とっくの​昔に​忘れ去り、​また、​ある​人は​本人の​せいではないにしろキリストの​教えを​学んだことがなく​宗教に​偏見を​抱いている。​しかし、​次に​申し上げる​ことだけは​理解しておいていただきたい。​彼らにも、​もう​このままでは​だめだ、​ありきたりの​説明では​物足りない、​偽りの​預言者の​虚偽には​もう​満足できない、と​いう​時が​必ず​来ると​いう​ことを。​その​時には、​本人が​認めたくなくても、​主の​教えに​よって​心の​空しさを​満た​したいと​望んでいるはずです。

​ ルカに​語らせましょう。​「二そうの​舟が​岸に​あるのを​ご覧に​なった。​漁師たちは、​舟から​上がって網を​洗っていた。​そこで​イエスは、​そのうちの​一そうである​シモンの​持ち舟に​乗り、​岸から​少し​漕ぎ出すように​お頼みに​なった。​そして、​腰を​下ろして​舟から​群衆に​教え始められた」11。​話を​終えると、​シモンに​お命じに​なります。​「沖に​漕ぎ出して​網を​降ろし、​漁を​しなさい」12。​船長は​キリスト、​準備するのも​キリストです。​キリストが​この​世に​来られたのは、​兄弟である​我々が、​御父への​愛と​栄光の​道を​見つける​ことのできるよう​準備させる​ためでした。​キリスト教の​使徒職は​人間が​考え出した​ことでは​ありません。​私たちは​むしろ、​信仰不足や​自らの​弱さに​よって、​使徒職を​妨げているのです。

この点を別の言語で