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聖ヨハネは​記しています。​「弟子たちは、​それが​イエスだとは​分からなかった。​イエスは、​『子たちよ、​何か​食べる​物が​あるか』と​言われると、​彼らは、​『ありません』と​答えた」27。​キリストとの​親しい​交わりを​示すこの​場面を​見て、​私は​嬉しくて​たまらなくなります。​栄光に​輝く​体を​持つ方、​神である​イエス・キリストが​こう仰せに​なるのです。​「『舟の​右側に​網を​打ちなさい。​そう​すればとれるはずだ』。​そこで、​網を​打ってみると、​魚が​あまり​多くて、​もは​や網を​引き上げる​ことができなかった」28。​弟子たちは​やっと​理解できました。​先生から​何度も​聞いた、​「人を​漁る​者」、​「使徒」と​いう​言葉が​弟子たちの​脳裡に​浮かんで​来ました。​漁を​指揮するのは​主であるから、​どのような​ことでも​可能である​ことが​理解できたのです。

​ ​「イエスの​愛しておられた​あの​弟子が​ペトロに​『主だ』と​言った」29。​遠方から​でも​主を​見分ける​ことが​できたのは​愛の​おかげです。​優しい​心に​最初に​気づくのは​愛の​働きです。​あの​若い​使徒は​「主だ」と​叫びました。​いまだ​汚れを​知らぬ純枠で​優しい​心は、​誰にもまして​深く​主を​愛していたからです。

​ ​「シモン・ペトロは、​『主だ』と​聞くと、​裸同然だったので、​上着を​まとって​湖に​飛び込んだ」​30。​ペトロは​信仰その​ものです。​溢れんばかりの​勇気に​満ちて​湖に​飛び込みました。​ヨハネの​愛と​ペトロの​信仰が​あれば、​私たちに​できない​ことは​ないのではないでしょうか。

聖書への参照
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