再び戦いを

 ​「あなたが​たが​眠りから​覚めるべき時」と​いう​聖パウロの​勧めに​従いなさい。​今は​働く​時だと​彼は​言っているのだ。​内で​働いて​魂の​建物を​築き上げ、​外側では、​あなたの​今いる​ところで、​神の​国建設の​ために​働くのである。

 痛悔の​念を​もつ​あなたは​言った。​「なんと​惨めな​私だろう。​かくも​愚かで、​あまりにも​多くの​情欲を​引きずり歩いているので、​神に​近づく​ため​何もしなかったように​さえ​思える。​もう​一度​始めよう。​再出発だ。​主よ、​私は​いつまで​経っても​始めの​方に​います。​とは​言え、​毎日、​全力を​あげて​前進します」と。

​ 主が​その​努力を​祝福してくださる​よう、​祈ろう。

 ​「神父様、​私は​たくさんの​間​違いや​失敗を​犯しました」と、​あなたは​私に​言った。

​ そこで​私は​答えた。​「分かっている。​しかし、​同じく​それを​ご存じで​それを​考慮なさる​主なる​神は、​たった​一つの​ことを​あなたに​要求しておられる。​すなわち、​あなたが​謙遜に​それを​認め、​行いを​改める​ため、​また神に​日々もっと​よく​仕える​ため、​いっそう​深い​内的生活と​絶え間ない​祈り、​信仰心、​それに​仕事を​聖化するのに​必要な​手段を​使って​戦う​ことである」。

 ロバが​備えている​徳を​身に​つけて​欲しい。​また、​それらを​備えたいと​望んで​欲しい。​ロバは​謙遜で​よく​働き、​辛抱強く、​一徹で​忠実、​しっかり​歩みを​続け、​しかも​強い。​さらに、​良い​主人を​得ると​感謝を​忘れず、​よく​従う。

 ロバの​特徴に​ついて​考え続けなさい。​ロバが​役に​立とうと​すれば、​自分を​導く​主人の​意志に​すべてを​委ねなければならない。​独りでなら​馬鹿な​ことしかできないだろう。​ひっくり返ったり、​小屋に​駆け込んだり、​鳴いたりする​以外に​何も​できないだろう。

​ あなたも​主に​申し上げなさい。​「イエスよ、​『私は​み前で​ロバのような​ものです』。​あなたの​ロバに​してくださいました。​私を​見捨てないでください。​『私は​いつも​あなたと共に​います』。​恩恵で​私を​しっかり​繋いで​おいてください。​『あなたが​わたしの​右の​手を​取ってくださる』。​端綱を​引いて、​『あなたの​御計らいに​従って​わたしを​導』かれる。​主よ、​私が​み旨を​果たせますように。​こうして、​私は​代々に​至るまであなたを​お愛しいたします。​そしてあなたは、​『後には​栄光の​うちに​わたしを​取られるで』しょう」。

 取るに​足りない​犠牲なのに、​あなたには​英雄的な​行為と​思える。​時と​して​イエスは、​あなたの​〈変わった​ところ​〉やつまらない​ところを​利用して​犠牲を​捧げさせ、​あなたが​必要に​迫られてした​ことを​徳に​変えてくださるのである。

 私の​イエスよ、​あなたの愛に​お応えしたいのですが、​私は​弱い​人間です。

​ あなたの​恩恵を​得る​ことができれば、​お応えする​ことができるでしょう。

 わざと​何度も​繰り返すが、​霊的生活とは、​絶えず​始める​こと、​繰り返しやり直す​ことである。​やり直すって?​ そうだ。​痛悔する​度に​ ― 実は、​毎日、​幾度と​なく​痛悔すべきなのだが​ ― ​その度に​あなたは​やり直したことになる。​痛悔する​ごとに、​再び神を​愛し始めるからである。

 神に​仕える​私たちが、​今実行している​ことで​満足するわけには​いかない。​芸術家が​自分の​手で​生みだした​絵画や​彫刻に​満足しないのと​同じである。​皆が、​素晴らしい​出来栄えだと​言うが、​当人は​考えている。​「違う、​こうじゃない。​もっと​上を​狙っていたのだ」。​私たちも​こういう​反応を​しなければならない。

​ そればかりか、​主は​多くの​ことを​お恵みに​なるから、​もっと​十分に​応えよと​要求する​権利を​持っておられる。​私たちは​神の​歩みに​合わせて​歩みを​進めなければならないのである。

 あなたには​信仰も​愛も​不足している。​そうでなければ、​すぐに、​そして​もっと​頻繁に​イエスのもと​へ​行き、​あれや​これや​お願い​するはずである。

​ ぐず​ぐずしないで​直ぐに​イエスに​懇願しなさい。​主を​道端で​疲れを​知らず​呼び続けた​あの​盲人に​お応えに​なったように、​「何を​して​欲しいのか」と​応える​イエスの​声を​聞く​ことだろう。

 あの​私たちの​友が​書いていた。​「私の​大きな​罪の​数々を​赦してくださる​よう、​繰り返し主に​お願いしました。​お愛ししております、​と​申し上げて​十字架像に​接吻し、​ここ数日の​間に​お示しに​なった​御父の​摂理の​数々に​感謝しました。​後で​気づいたのですが、​〈主の​業は​完璧〉であると​昔のように​言っている​自分を​見て​驚きました。​それと​同時に、​一片の​疑いも​持たずに、​これこそ​罪人では​あるが​主を​愛する​人間に​対する​神の​お答えであると、​完全に​確信できたのです。​神に​すべてを​期待しています。​主は​賛美されますように」。

​ 私は​急いで​返事を​しておいた、​「主は​常に​優しい​父親と​して​接してくださる。​そして​絶えず​ご自分の​愛の​しるしを​お恵みに​なる。​すべてを​神に​希望し、​そして​戦いを​続けなさい」。

 イエスよ、​哀れな​私の​過去の​振る​舞いにも​かかわらず、​あなたが​何もかも​すべてを​なさいました。​もっと​しっかり​お応えしていたなら、​どれほど​多くの​ことを​やり遂げてくださった​ことでしょう」。

​ それが​分かった​あなたは、​惜しみない​努力を​絶えず​続ける​ことだろう。

​ 悲しみと​愛を​もって​泣き、​心の​痛みを​感じなさい。​主・キリストと​その​幸いな​御母とは、​当然あなたが​今までとは​異なる​態度で​接すべき御方であるから。

 時に​やる​気が​なくなり、​口先だけに​なったとしても、​信仰と​希望と​愛の​行為​(信徳唱、​望徳唱、​愛徳唱)を​繰り返しなさい。​眠ってはいけない。​眠り込むと、​上手く​いっている​ことの​中に​悪いことが​入り込んで、​あなたを​引きずって​行くからである。

 次のような​祈りを​しなさい。​私が​何か役に​立つことを​すべきなら、​イエスよ、​あなたが​代わりに​してくださらなければなりません。​み旨が​実現しますように。​たとえ、​今の​状態が​いつまでも​続き、​愚かな​私が​倒れては​起き​上がらせていただくのが​み旨であったとしても、​やはり​私は​み旨を​愛します。

 ​私の​神よ、​私を​打ち叩いてでも​聖人に​してください。​み旨の​邪魔は​したく​ありません。​応じたいのです。​惜しみなく​応えたいのです。​しかし、​私は​本当に​そう​望んでいるのでしょうか。

 愛しきっていない​自分を​見てあなたは​大変心配している。​あなたは​すべてが​不愉快だ。​そこで、​敵は​全力を​あげてあなたの機嫌の​悪さが​目立つよう​頑張っている。

​ あなたが​大変​恥ずかしい​思いを​しているのは​理解できる。​だから​こそ、​直ちに​効果的に​反応しなければならないのだ。

 ​「一人の​聖人を​堪(た​)え忍ぶには、​二人の​聖人が​必要である」。​こう​考えざるを​得ないような​聖性は​本物ではない。​そんなのは、​良く​見積もっても、​聖人の​戯画に​過ぎない。

 悪魔は​あなたを​神から​離そうと​試みる。​万一あなたが​悪魔に​支配されると、​正直で​誠実な​人たちがあなたから​〈離れて〉しまう。​人々は​悪魔たちの​仲間や​悪魔憑きから​〈離れる​〉ものなのだ。

 主とお話しする​とき、​また​口先だけの​おしゃべりしかしていないと​思える​ときには、​いっそう​徹底して​献身し、​もっと​決然と​して​キリスト教的​完全性​(完徳)の​道を​歩めるよう、​言い​換えれば​もっと​あなたを​燃え​上がらせてくださる​よう​お願いしなさい。

 〈常に​神を​意識しつつ〉、​すなわち、​いつどのような​状態に​あっても、​常に​キリスト者と​しての​生活を​営むと​いう​固い​決意を​新たに​しなさい。

 恩恵の​邪魔を​してはならない。​パン種の​働きを​しようと​思えば、​聖人に​なり、​主と​ひとつに​なる​ために​戦わなければならないと​確信しなさい。

 誠実な​心で、​ゆっくり〈今、​始める​〉と​言いなさい。

​ 残念な​ことに、​あなたに​何ら変化なく、​主の​右手の​効果も​見られないと​しても、​がっかりしてはならない。​その​低迷状態から​叫ぶことができるのだ。​「私の​イエスよ、​お助けください。​私は​み旨を、​あなたの愛すべきみ旨を​果た​したいのです」と。

 あなたが​〈彼らの​こと〉を​気遣わなければならないと​いう​ことに​ついて、​異存は​ない。​しかし、​第一に​自分​自身、​あなた​自身の​内的生活を​気遣わなくてはならない。​そうでないと、​彼らの​役に​立てないからである。

 聖霊が​お勧めに​なる​その​犠牲の​なんと​辛い​ことか。​ゆっくりと​十字架像を​眺めなさい。​そう​すれば、​その​償いを​愛せるようになるだろう。

 自らを​十字架に​掛ける​こと。​この​望みが​新たな​光と​なって、​あの​人の​知性と​心、​唇に​幾度と​なく​上(の​ぼ)ってきた。

​ 自らを​十字架に​掛けるって、​なんと​辛い​ことだろう。​彼は​そう​独り言を​言った。​〈自らに​逆らう​〉、​つまり​自己を​否定するのが​自分の​道である​ことを​知った​上の​言葉だった。​だから​彼は​「主よ、​お助けください」と​願っていたのである。

 イエスが​死去された​カルワリオに​身を​置き、​私たちの​自罪​(個人的な​罪)を​思うと、​当然の​こと心の​痛みを​感じ、​二度と​神に​背く​まいと​いう​以前にもまして​強くて​堅い​決意を​固めるはずである。

 石や木を​彫るのと​同じく、​毎日​少し​ずつ、​で​こぼこや​ざらざらを​削っていかなければならない。​各自の​生活に​付きまとう​欠点を、​償いの​精神と​小さな​犠牲で​取り除いていくのである。​そして​その​犠牲には​二種類ある。​一つは、​一日​中​小さな​花を​摘み取るように​積極的に​探す犠牲。​もう​一つは​外から​やってくる​もので、​なかなか​受け入れ難い​受身的な​犠牲。​あなたが​すべてを​実行した後でなら、​イエスが​不足分を​補ってくださる。

​ すべてに​おいて、​惜しみなく​喜んで​応えれば、​言葉に​表せない​くらい​素晴らしい​十字架像に​なれるのだ。

 両腕を​広げた​主は、​絶え​ざる​愛の​施しを​あなたに​懇願しておられる。

 あなたの​ために​死去された​イエスに​近づきなさい。​ゴルゴタの​丘の​頂上に​くっきり浮かび​上がる​十字架に​近寄りなさい。

​ただし、​誠実な​心と、​キリスト者と​して​成熟した​ことの​しるしである​内的潜心を​もって、​そうしなければならない。​ご受難と​いう​神的・​人間的な​出来事が​あなたの魂に​染(し)み透(とお)る​ためである。

 イエス・キリストが​聖なる​ご受難の​ときに​持たれたのと​同じ​気持ちで、​犠牲を​受け入れなければならない。

 犠牲こそ、​すべての​使徒職を​一つ​ひとつ完全に​果た​すために​欠かす​ことのできない​前提である。

 償いの​精神とは、​何にもまして、​行い、​放棄、​犠牲、​奉仕など、​日々道を​歩みつつ​見つける​たくさんの​小さな​ことを​活用する​ことである。​それらを​愛や​痛悔や​犠牲の​行為に​変えて、​一日の​終わりに​小さな​花束を​作る。​神に​捧げる​素晴らしい​花束を​作るのである。

 最高の​犠牲の​精神とは、​やる​気が​あろうが​なかろうが、​始めた​仕事を​最後まで​堅忍して​やり遂げる​ことである。

 あなたの​犠牲の​計画は、​霊的指導者に​検討して​もらいなさい。​加減して​もらう​ためである。

​ 加減するとは、​必ずしも​減らす​ことではなく、​必要と​あれば​増やす​ことである。​いずれにしろ指導者の​勧めを​受け入れなさい。

 聖アウグスティヌスの​言葉を​借りると、​悪い​情念は​服を​掴んで​下の​方​へ​引っ張っている、と​言って​良いだろう。​しかし​同時に、​心の​中には​立派で​高貴な​数々の​清い​望みが​あるのも​確かである。​戦っているわけだ。

​ 神の​恩恵を​得て​内的な​戦いの​手段を​講じるなら、​すなわち神の​現存を​求め、​犠牲を​捧げ、​(怖がらないで)​償いを​果たすなら、​あなたは​前進し、​平和を​得て​勝利を​ものに​するだろう。

 心の​守り。​あの​司祭は​次のように​祈った。​「イエスよ、​私の​哀れな​心が​閉じられた​庭園でありますように。​私の​哀れな​心が​あなたの​お住みに​なる​天国と​なりますように。​守護の​天使が​私の​心を​守り、​すべての​愛情が​心の​中に​入る​前に​火の​剣で​清めてくれますように。​イエスよ、​あなたの​十字架の​神的な​封印で​私の​哀れな​心を​封印してください」。

 それぞれが​自分の​置かれた​身分に​おいて​勇敢に​清い​生活を​送るには、​神の​深い愛に​かけて、​「ノー」と​言えなければならない。

 聖女と​聖人の​間には、​石灰と​石、​つまり​頑丈な​壁が​なければならないと​いう、​まことに​明快な​諺(ことわざ)が​ある。

​ 絶えず罪の​機会を​避けて、​心と​感覚を​見張らなければならない。​たとえ聖なる​ものと​思えても、​情念を​避ける​必要が​あるのだ。

 わが​神よ、​何を​見ても​魅力に​溢れており美しく​見えます。​しかし、​あなたへの​愛ゆえに​四六時中、​目の​用心を​いたします。

 キリスト者であり、​キリスト者であるゆえ​神の​子である​あなたは、​主が​お示しに​なった​数々の​慈しみに​対し、​警戒を​怠らず愛に​溢れてしっかり​応じる​重大な​責任が​ある。​神が​あなたの心に​刻まれた​神の​愛の​持ち味を、​何者にも​何事に​も​ぼかされないためである。

 間近に​おられる​神、​あなたの​霊魂の​中に​おられる​神と​あなたは​本当に​親しくなった。​ところで​その​親しさが​もっと​増し、​もっと​深まるよう​努力しているだろうか。​つまらない​事柄が​間に​割り込んで​来て、​親しさを​弱めていないだろうか。

​ 勇敢に​なりなさい。​あなたを​こんなに​愛してくださる​御方を、たとえわず​かなりとも​悲しませるような​ことは、​すべて​捨てなければならない。

 ​私たちが主に​対して​忠実で​あれば、​イエス・キリストの​一生が、​何らかのかたちで​私たち一人​ひとりの​うちに​繰り返される。​すなわち、​内的な​面では​聖化と​いうかたちに、​そして​外的な​面では​振る​舞いと​いうかたちに​現れるのである。

​ 主の​優しさに​感謝しなさい。

 た​とえ自分の​惨めさばかりが​目に​ついても、​聖人に​なりたいと​いう​熱烈で​大きな​望みを​頻繁に​主に​表明する​ことは​良い​ことだと​思う。

​ 惨めな​ところが​たくさん​あるから​こそ、​そうしなさい。

 あなたは​自分が​神の​子である​ことを​はっきり​見たのだから、​― ​そんな​ことはないと​思うが​ ― たとえ二度と​見る​ことができないと​しても、​忠実な​心で、​決して​後ろを​振り返る​ことなく、​常に​前進しなければならない。

 決心。​普段の​生活でも、​特別な​ことの​ある​日にも、​予定の​時間を​忠実に​ ―言い訳を​せず、​英雄的な​忠実を​もって​ ― 守る​こと。

 ​「イエスが​愛された」​若い​使徒ヨハネの​ことを​時々​考えて、​聖なる​妬みに​駆られた​ことがあるだろう。

​ あなたも、​「神のみ​旨を​愛する​人」と​呼ばれたら​嬉しいのではないだろうか。​そうなれる​よう、​毎日​手段を​講じなさい。

 確信しなさい。​神の​子に​相応しい​振る​舞いを​したいと​望み、​それを​行いに​表せば、​いつまでも​続く​若さと​落ち着き、​喜びと​平和を​得るのだ。

 神の​御手に​再びあなた​自身を​委ねるなら、​聖霊が、​知性に​光を、そして​意志に​力を​お与えに​なるだろう。

 聖ヨハネが​福音書で​書いている​喩えを​イエスの​口から​聞こう。​「わたしは​ぶどうの​木、​あなたがたは​その枝である」。

​ あなたの​想像力と​知性は、​喩え全体を​把握している。​ぶどうの​木の​幹から​離れた​枝は​役に​立たず、​実を​結ばず、​乾いた​棒切れと​なって​人間や​動物に​踏まれるか、​火に​くべられる​以外に​道は​ない、と​分かっている。

​ あなたは​ぶどうの​枝なの​だから、​この​喩えの​結論を​すべて​自分に​当てはめてみなさい。

 ​今​日​再び、​私は​信頼して​祈り、​お願いした。​「主よ、​すでに​許された​過去の​惨めさや​将来しでかすかも​知れない​惨めさに、​私たちが心を​煩わされませんように。​あなたの慈しみ深い​手に​私たち自身を​委ねる​ことができますように。​見た​ところ​冷たい灰の​下で​熾(​おき)火(び)のように​隠れている​聖性と​使徒職の​望みを​あなたに​お捧げできますように」。

​ 「主よ、​聞き届けてくださると​信じております」。​あなたも​同じ​ことを​お願いしなさい。

 あなたの心を​開く​とき、​誠実で​ありなさい。​時に​幼稚としか​言いようの​ない​態度で、​丸薬を​金色に​塗るような​ことを​せずに、​つまり​胡麻化さずに​話すのである。

​ その後、​素直な心で​前進するのだ。​もっと​聖なる​人、​もっと​幸せな​人に​なるだろう。

 神以外に​慰めを​求めないようにしなさい。​あの​司祭の​書いた​言葉を​考えてみなさい。​「必要が​ない​限り、​神以外の​友には​決して​心を​打ち明けないようにしよう」。

 聖性とは、​霊魂内に​住みに​来られる​聖霊の​助けと​秘跡を​通して​与えられる​恩恵と、​絶え間ない​修徳の​戦いに​よって​手に​入れる​ものである。

​ わが​子よ、​妄想を​抱かないようにしよう。​幾度でも​繰り返すが、​あなたと​私は​一生を​終えるまで​常に​戦いを​続けなければならない。​そうして​始めて、​平和を​愛し、​人々に​平和を​与え、​永遠の​褒美を​手に​入れる​ことだろう。

 慰め主​(聖霊)には、​話しかけるだけでなく​耳を​傾けて​聴きなさい。​自分が​神の​子である​ことの​深い​意味を​発見し、​幼子の​生活に​よって、​御父に​対する​子と​しての​愛に​満たされた​ことを、​祈りの​中で​考えなさい。​それより​前には​マリアを​通って、​友・兄弟・熱烈に​愛する​者と​して​イエスのもと​へ​行っていた​ことを​考えてみなさい。

​ この​勧めを​受けてから、​これまでは​聖霊が​あなたの心に​お住まいに​なり、​聖化してくださる​ことは​知っていたが、​聖霊の​現存と​いう​真理を​〈理解〉していなかったことに​気づいた。​真に​的確な​勧めだった。​今は、​あなたのうちに​居を​定められた​愛なる​御方を​感じとることができる。​聖霊と​付き合い、​聖霊の​友・​信頼の​おける​親友と​なり、​不用な​ものを​抜き取り、​あなたを​磨き、​燃え​上がらせる​聖霊の​働きを​容易に​したいと​望んでいる。

​ あなたは​「どうして​良いか​分からない」と​思っていた。​重ねて​言う。​注意を​傾けて​聖霊に​聴きなさい。​きっと​望んでいると​思うが、​あなたが​望みさえ​すれば、​聖霊は​力を​くださるだろう。​聖霊が​すべてを​やり遂げてくださるだろう。

​ 聖霊に​祈りなさい。​神なる​客人、​先生、​光、​導き手、​愛なる​御方よ、​あなたを​歓迎し、​その​教えを​聴き、​心を​燃え​上がらせ、​あなたに​従い、​あなたを​愛する​ことができますように。

 神に​近づき、​神のもと​へ​飛んで​行くには、​祈りと​償いと​いう​強くてたくましい​立派な​翼が​必要である。

 口祷を​唱える​と​き惰性に​陥らないように、​恋する​人が​初めて​話すように​愛を​込めて、​あるいは​これが​主に​お話しする​最後の​機会であるかのような​気持ちで​唱えなさい。

 あなたが​聖マリアの​子である​ことを​誇りに​思っているのなら、​自分に​問い​かけてみなさい。​朝から​晩まで​一日の​間に、​どれほどの​信心を​聖母に​示しているだろうか?

 毎土​曜日と​聖母の​祝日の​前夜、​無原罪の​御母に​償いを​捧げるべき理由が​少なくても​二つ​ある、と​あの​友人が​言っていた。

​ 第二の​理由。​日曜日や​聖母の​祝日は​(たいていは​村々の​祝日に​なっているが)、​人々が​祈りに​精を​出すどころか、​見れば​分かるように、​公の​罪や​主イエスに​対する​破廉恥な​罪を​犯すことに​専念しているから。​ 第一の​理由。​聖母の​良い子に​なりたいと​思っている​私たちが、​おそらくは​悪魔に​そそのかされ、​主と​その​御母に​捧げられた​日々を、​十分に​心を​込めて​過ごしていないから。

​ 残念ながら、​これらの​理由は​今も​当てはまるだろう。​だから​私たちも​償いを​しなければならないのである。

 キリスト者の​祈りは​イエスとの​愛情の​こもった​会話であると​常に​理解してきた。​この​祈りは、​聖櫃から​遠い​所に​いても​決して​中断すべきではない。​私たちの​生活全体は、​神の​ために​歌う​人間の​愛の​歌で​織りなされているからである。​しかも、​愛せない​ときなど​あり得ない。

 神は​人間を​この​上なく​愛しておいでに​なるから、​聖体祭儀​(ミサ)の​とき、​私たちは​時計が​止まってしまう​ほどの​応じ方を​しなければならないはずである。

 ぶどうの​樹の​幹に​繋がった​枝なら、​成長して​実を​結ぶ。​あなたと​私は​何を​すべきなのだろうか。​私たちの​幹である​イエス・キリストに​パンと​言葉に​よって​繋がっている​こと。​そして​一日中、​愛情の​こもった​言葉を​捧げるのである。​恋人たちは​こうするのだから。

 懸命に​なって​主を​愛しなさい。​心の​中で、​主を​愛すべきだと​いう​緊急感を​保ち、​それを​助長しなさい。​主を​手に​する​大勢の​人々が、​主を​愛さず、​悪しく​扱い、​疎かに​している​今、​特に​主を​愛しなさい。

​ ごミサの​とき、​そして​一日中、​本当に​心を​込めて​主に​接して​欲しい。

 祈りは​キリスト者が​有する​最強の​武器である。​祈りに​よって、​私たちは​効果的な​働きが​できるようになる。​祈りに​よって、​幸せに​なる。​祈りに​よって、​神の​命令を​果た​すために​必要な​力を​すべて​得る​ことができる。

​ そう、​あなたの​生活全体を​祈りに​する​ことができるし、​また​実際に​そうしなければならないのである。

 ​私たち一人​ひとりの​聖性は、​実現できない​夢ではなく、​具体的、​神的、​人間的な​現実である。​それは​日々具体化され、​絶えず愛の​行為と​なって​現れる​ものである。

 人々の​間で​過ごされた​イエスの​生涯全体に​活気を​与えていたのは​祈りである。​私たちは​その​祈りの​精神から、​大小さまざまの​行いは​すべて、​まず​祈りに​始まり、​祈りと​共に​なされ、​祈りに​繋がっていく​べきであると​いう​ことを​学ぶのである。

 主と​共に、​キリストの​ご受難を​黙想し、​体験しなさい。​毎日、​キリストが​鞭で​打たれる​とき、​あなたの​背中を​向け、​茨の​冠の​ときには、​あなたの頭を​差し出しなさい。

​ 私の​故郷では、​〈愛には​愛で​応えるべきだ〉と​言う。

 愛する​人は​どんな​小さな​ことも​見逃さない。​私は​大勢の​人の​うちに​この​点を​見てきた。​些細な​ことも、​実は​偉大な​行いである。​つまり​愛その​ものなのである。

 神を​愛さない​人たちの​ことを​考え、​それを​補うつもりで​神を​愛しなさい。​この​償いの​精神を​しっかり​身に​つけなさい。

 万一、​内的な​戦いが​難しくなる​ことが​あれば、​その​時こそ、​私たちの​愛が​本物である​ことを​示すための​絶好の​チャンスである。

 次の​ことを​はっきり​理解させてくださったのは​ほかなら​ぬ神であった、と​あなたは​確信している。​内的生活で​以前に​実行していた​実に​子供っぽい​小さな​事柄に​戻り、​心が​冷淡であっても​愛ゆえに​果たす​決意を​し、​(良いことに​対する​感​受性が​鈍感に​なっていても​気に​せずに)​それら​些細な​ことだが​英雄的な​事柄に​何年も​何ヵ月も​堅忍すべきである。

 心が​無味乾燥であっても、​自発的に、​そして​愛を​込めて、​信心生活に​堅忍しなさい。​信心の​業や​仕事を​しながら、​あと​何分、​あと​何日と​数えている​自分に​気づいても​驚く​必要は​ない。​怠け者の​学生が​学期の​終わりを​夢見て、​ぼんやりした​喜びを​感じたり、​十五日間の​拘留を​科せられた​男が​拘置所の​扉が​開かれて元の​仕事に​戻る​ことを​楽しみに​したりするのと​同じである。

​ 重ねて​言う、​堅忍しなさい。​効果的で​現行的な​意志を​もって、​一瞬たりとも​怠けずに​これら​信心の​業を​活用するのである。

 イエス・キリストに​密着し、​喜びに​溢れて​信仰に​生きなさい。​真心から、​本当に、​本気に​なって、​主を​愛しなさい。​そう​すれば、​日々ますます愛が​深まるわけだから、​愛の​大冒険の​主人公に​なれるだろう。

 師キリストに​ゆっくり申し上げなさい。​「主よ、​あなただけに​仕えたいと​思っております。​とにかく​義務を​果たし、​恋人のような​心であなたを​お愛ししたいのです。​私の​傍を​お通りに​なる​あなたを​感じとることができますように。​どうか、​私の​唯一の​支えと​なってください」。

​ ゆっくり心の​底から、​こう申し上げなさい。

 あなたには​内的生活と​教理教育とが​必要である。​もっと​自分に​厳しくなりなさい。​キリスト者である​あなたは、​地の​塩・世の​光でなければならない。​あなたは​聖なる​恥知らずと​なって、​模範を​示す義務が​あるのだから。

​ キリストの​愛を​考えれば、​一刻の​猶予も​認められない。​主に​従うと​言って​以来、​もう​一人の​キリストである​自分を​感じ、​それが​理解できたのだから、​あなたの​親類縁者や​友人、​仕事仲間などから​離れて生活する​ことは​できないのである。​塩が​自分で​味を​つけた​食物から​離れないのと​同じである。

​ あなたの​内的生活と​教理的形成には、​神の​子の​持つべき信心と​その​規準が​含まれている。​自分の​存在と​活動に​よって​すべてに​味を​つける​ためである。

​ あなたが​いつも​人々の​生活に​良い味を​与える​ことのできるよう、​主に​助けを​願いなさい。

 ​私たちキリスト者は、​永遠に​新しい​福音の​宝を​若々しい​精神で​集めに​やって​来た。​その宝を​地球の​隅々にまで​届ける​ためである。

 あなたは​イエス・キリストに​倣い、​自らの​振る​舞いで​主を​人々に​知らせなければならない。​キリストが​人性を​とられたのは、​私たち全員を​神的な​生活に​導き入れ、​主と​ひとつに​なった​私たちに、​個人的にも​社会的にも​天の​掟を​実行させる​ためであった​ことを​忘れてはならない。

 キリスト者である​あなたは、​兄弟である​人々の​心配事や​必要事の​どの​一つにも​背を​向けて​生きる​ことは​できない。

 使徒聖ヨハネは​「互いに​愛し合いなさい」と​いう​新しい​掟を​どれほど​強調して​教えた​ことか。​芝居が​かった​ことを​する​つもりは​ないが、​私は​自分の​心の​叫びに​応じ、​跪(​ひざまず​)いてあなたたちに​頼みたい。​神への​愛に​かけて​互いに​愛し合いなさい。​互いに​助け合い、​互いに​手を​貸し合い、​互いに​赦し合いなさい。

​ その​ため、​高慢な​心を​退け、​情け深い心を​持ち、​愛徳を​実行し、​互いに​祈りと​誠実な​友情で​助け合わなければならないのである。

 他人(ひと)の​長所と​徳を​認める​ことのできる​人は​良い​人間だと​言える。

​ だから、​何らかの​点で​正してあげる​必要の​ある​ときは、​愛徳を​忘れず、​良い​機会を​探し、​相手を​辱める​ことなく​そうしなさい。​しかも、​正してあげた​ことから​あなた​自身が​学び、​その点で​自己を​改善する​つもりでなければならない。

 人と​人の​区別を​せず、​限りなく​愛徳を​愛し、​実行しなさい。​愛徳こそ、​師キリストの​弟子の​特徴なの​だから。

​ とは​言う​ものの、​愛徳を​口実に​して​信仰を​弱めてはならない。​そんな​ことを​すれば、​愛も​徳とは​呼べなくなるからである。​すなわち、​ある​人たちが​目指しているように​愛徳を​言い​訳に​して、​信仰を​明確に​する​角(かど)を​取り去り、​信仰を​弱め、​果ては​神的な​強さと​力を​欠いた​訳(わけ)の​分からない​ものに​する​ことは​許されないからである。

 あなたは​人々と​仲よく​生活し、​人々を​理解し、​兄弟である​人々の​本当の​兄弟と​なるべきである。​カスティーリャ出身の​神秘家の​言うように、​愛を​引き出すには、​愛の​ない​ところに​愛を​注が​なければならないのである。

 批判する​必要の​ある​ときは、​一緒に​努力する​つもりに​なって、​前向きで​建設的な​批判を​しなければならない。​決して​当事者の​背後で​批判してはならない。

​ そうしないと、​批判は​裏切りや​陰口、​中傷と​なり、​時には​讒言(ざん​げん)と​さえなる。​いずれに​せよ、​常に​高貴さに​欠ける​行為である​ことに​かわりは​ない。

 神の​栄光と​教会の​善の​ために​話す必要の​ある​ときは、​決して​沈黙してはならない。

​ よく​考えなさい。​永遠を​直視すれば、​神の​前で​勇気の​出ない​人は​いないだろう。​失う​ものは​何も​ないのに​対して、​得る​ものは​無数に​あるからである。​それなら、​なぜ​思い切らないのか。

 兄弟である​人々の​良い​兄弟に​なりたければ、​たとえ周囲の​人た​ちが​私たちの​行いを​悪く​解釈し、​嫌な​反応を​しても、​正しい​振る​舞いを​守らなければならない。

 ​私たちは​すべての​人が​完全に​キリスト教的に​なって​ほしいと​熱烈に​望んでいる。​とは​言え、​聖なる​教会に​対する​あなたの愛と​奉仕が、​教会を​構成する​人々の​聖性の​程度に​左右されてはならない。

​ 今、​そして​常に、​キリストの​花嫁であり、​あなたの母である​清く​汚れの​ない​教会を、​愛さなければならないのである。

 ​私たち一人​ひとりが​聖性に​達する​ために​努力するか​否か、​これが​大勢の​人々の​聖性と​神の​教会の​聖性に​影響を​与える。

 確信しなさい。​神は​あなたの​言うことに​耳を​傾け、​あなたを​愛し、​あなたに​栄光を​約束しておいでになる。​だから、​天の​御父の​全能の​手に​守られている​あなたが​望みさえ​すれば、​主の​愛すべき真の​教えを​世界中で​身を​もって​示す覚悟の​ある​剛毅の​人に​なることができるのである。

 主の​畑は​肥沃で、​その種は​良質の​種である。​したがって、​私たちの​この​世界に​毒麦が​姿を​現したと​すれば、​疑いなく​次の​ことが​言える。​そうなったのは​人間が、​特に​キリスト者が​〈神の​恩恵に​〉応じないで​眠り込み、​畑を​敵に​明け渡したからである、と。

​ 嘆き悲しんでも​役に​立たない。​そんな​ことより、​あなたの​行いを​糾明しなさい。

 ​私の​深い悲しみのもとになった次の​言葉を​聞けば、​あなたも​考え込むことだろう。​「非道な​法に​対する​抵抗力が​ない​こと、​また、​あっても​非力である​ことの​理由は​明らかである。​上にも​下にも​真ん中にも、​大勢の、と​いうより​大変な​数の​烏合の​衆が​いるのだから」。

 神と​教会の​敵は、​悪魔の​尽きる​ことの​ない​憎悪に​踊らされて​休みなく​活動し、​組織作りに​精を​出す。

​ 〈模範的な​〉着実さでもって​中核グループを​形成し、​学校を​経営し、​指導者と​煽動者を​育てる。​また、​密(ひそ)やかに、​しかし真に​効果的に、​自分たちの​考えを​宣伝し、​家庭や仕事場から​宗教​思想を​根こそぎに​する​破壊的な​種を​撒き散らすのである。

​ キリスト者である​私たちは、​当然の​こと、​常に​真理を​もって​神に​仕えるべきではないのか。

 決定あるいは​検討を​遅らせる​ことや怠けたり投げ出したりする​ことが、​落ち着きであるかのような​思い違いを​してはならない。

​ 落ち着きは、​常に​懸案事項を​遅滞なく​検討し、​解決する​ために​必要な​勤勉の​徳に​よって​補われ、​完成される。

 子よ、​人々が​あなたの中に​探し求めている​キリストは​どこに​おいでになるのか?​ あなたの​高慢の​中だろうか?​ 他人を​威圧したいと​いう​望みの​中だろうか?​ 自分で​克服しようとしない​あな​たの​性格の​欠点の​中なのだろうか?​ あなたの​頑固さの​中なのだろうか?​ ​そんな​ところに​キリストが​おいでになるだろうか?​ 絶対に​あり得ない​ことだ。

​ 個性を​持たなければならない。​それは​賛成だ。​しかし、​あなたの​個性が​キリストの​個性と​同じに​なるよう​努力しなければならない。

 兄弟愛や​奉仕の​精神を​実行するのに​大いに​役立つ行動の​指針を​提案したい。​自分の​経験を​寛大に​伝える​ことに​よって​自分が​不可欠な​存在に​なる​ことを​避け、​あなたが​居なくても、​今あなたが​している​仕事を​誰かが​ちゃんと​進める​ことのできるように​しておく​ことである。

 人々の​聖性や​キリスト教的生活に​ついて、​あるいは​効果的な​働きが​できるか​どうかに​ついては、​情念を​引きずっている​あなたにも​責任が​ある。

​ あなたは​孤立した​存在ではない。​万一あなたが​立ち止まれば、​なんと​大勢の​人々の​歩みを​止め、​害を​与える​ことだろう。

 母なる​教会を​思いやりなさい。​そして​その肢体の​一つが​弱くなれば、​体全体に​どのような​影響を​及ぼすかを​よく​考えなさい。

​ 体は​肢体の​一つ​ひとつを​必要と​するが、​各々の​肢体も​体全体を​必要と​している。​私の​手が​手の​役目を​果たさなかったり、​心臓が​鼓動を​止めたりすれば、​一体​どうなる​ことか。

 大勢の​人々が​神を​知らないで​いるのに、​神は​あなたに​目を​留めてくださった​ことが、​明らかに​理解できた。​神は、​あなたが​教会の​生命を​支える​基礎・土台石に​なるよう​お望みなのである。

​ この​点に​ついて​黙想しなさい。​そう​すれば、​あなたの​日常の​振る​舞いに​役立つたくさんの​具体的な​結論を​引き出すことができるだろう。​基礎や​土台は、​輝く​ことも​表に​現れる​こともないが、​脆(もろ)さの​ない​堅固な​ものでなければならない。​建物を​支える​土台と​しての​役目を​果たさなければならないのである。​それが​できなければ、​役に​立たなくなる。

 あなたは​償いの​協力者に​なる​ため神に​選ばれた​と​自覚しているのだから​ ― 自分が​惨めさその​ものである​ことを​忘れず、​すべての​人の​足の​下に​居る、​つまり、​すべての​人に​仕える​ほどに​謙遜でなければならない。​建物の​土台とは​こういう​ものだ。

​ ところで、​土台は​強くなければならない。​強さ、​つまり​剛毅は、​人々を​支え、​人々の​後押しを​する​ために​どうしても​必要な徳である。

​ 力を​込めて​申し上げなさい。​イエスよ、​私が​偽(に​せ)の​謙遜に​負ける​ことなく、​枢要徳である​剛毅の​徳を​常に​実行できますように。​神よ、​屑(くず)と​金とを​見分ける​ことができますように。

 ​私たちの​母、​私たちの​希望よ、​あなたから​離れない​限り、​たとえすべてが​揺らいでも、​心の​底から​安心している​ことができます。

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