豊饒

 忠実、​それも​すこぶる​忠実な​心で、​神の​愛に​応えなさい。​それから、​忠実の​報いと​して​受けた​愛を​他の​人たちにも​たらしなさい。​彼らも​神との​出会いを​楽しむことができる​ためである。

 わたしの​主イエスよ、​あなたの​恩恵を​感じとって​協力し、​心が​空(から​)に​なりますように。​私の​友・​私の​兄弟・​私の​王・​私の​神・​私の​愛である​あなたが​心を​満たしてくださる​ためです。

 使徒職への​気遣(きづか​)いを、​祈りと​犠牲に​よって​絶えず示さないと​すれば、​それすなわち、​あなたが​幸せでない​ことを、また​あなたが​忠実の​度合を​もっと​高めるべきことを​示すしるしである。

​ 幸せを、すなわち善い​ものを​持っている​人なら、​人々にも​それを​与えるよう努力するべきである。

 本当に​エゴ​(我(が​))を​踏みつけて​人々の​ために​生きるなら、​その​ときこそ、​あなたは​神の​手中に​あって​役に​立つ道具と​なる。

​ 主は​弟子たちを​お呼びに​なり ― 今も​呼んで​おられるのだが​ ―、​「出かけて​行」きなさい、​すべての​人々を​探しに​行きなさい、と​命じておられる。

 あなたに​できる​ことだから、​世界を​清い愛で​燃え​上がらせる​決意を​固めなさい。​世界全体を​本当に​神に​近づけて​幸せに​する​ためである。

 ​「小さな​事に​忠実だった」。​わが​子よ、​あなたの​仕事は、​人々を​救うだけでなく、​一見​ありふれた​一瞬​一瞬に、​日々永遠の​響きを​与えて​人々を​聖化する​ことである。

 教理の​種を​信心の​種から​切り離すことは​できない。

​ 教理の​種蒔き人と​しての​仕事は、​あなたが​信心深い​ときのみ、​効果を​なくす細菌を​除去する​ことができる。

 停電に​なると、​たくさんの​工場の​大きな​機械類が​止まってしまうのと​同じように、​祈りと​犠牲が​ないと、​使徒職は​実を​結ば​なくなってしまう。​キリストのいとも​聖なる​御心を​動かすことができないからである。

 あなたが​恩恵の​働きかけに​忠実で​あれば、​良い​実を​結ぶだろう。​神の​栄光を​いつまでも​歌い​続ける​永遠の​実を​結ぶのである。

​ 聖人に​なれば​当然の​こと、​効果的な​働きが​できる。​たとえ実りを​自分の​手で​触れたり目に​したりする​ことができなくても。

 正しい​意向とは、​〈すべてに​おいて、​ただただ〉神の​栄光〈のみ​〉を​求める​ことである。

 霊的生活の​確かな​現れである​使徒職とは、​何を​するにも​神への​愛を​込め、​日々の​大小さまざまな​事柄一つ​ひとつを​超自然化するよう、​絶えず​羽ばたいている​ことである。

 ​その​人は​読書中の​本に​栞と​して​一片の​紙を​挾んでいたが、​それには​〈聖霊の​火で​燃え​上がらせてください​〉と、​大きな​力強い字で​書いて​あった。​と​言うより、​〈聖霊の​火で​燃え​上がらせてください​〉と​彫り付けて​あった、と​言う​ほうが​正しいだろう。

​ キリスト信者よ、​その​神的な火を​あなたの​霊魂に​刻みつけ、​口に​燃え​上がらせ、​あなたの​行いに​移すことが​私に​できれば​よいのだが…。

 聖なるずうずうしさを​もった​子供に​なるよう​努力しなさい。​そのような​子なら、​父なる​神は​常に​最上の​ものを​お送りに​なる​ことを​〈知っている〉。

​ だから、​どうしても​必要と​思える​ものが​不足しても、​慌てずに​落ち着いて、​「少なくとも​私には​聖霊が​ついていてくださる」と​言えるのである。

 すべての​カトリック信者が​忠実を​保ち、​聖人に​なる​ため戦う​決意を​しますように。​この​意向の​ため、​忘れずに​毎日​祈って​ほしい。

​ 当然だろう。​信仰の​強い絆で​私たちと​結ばれた​人々の​ため、​愛する​人たちの​ために、​これ以外に​何を​望めようか。

 すべてを​神に​捧げて​おきながら、​聖性を​目指して​熱心に​戦わない​人が​いると​言うが、​万一​そのような​ことが本当だと​すれば、​そういう​人たちは​生涯で​最大の​失敗を​したことになる。

 ​「雲のように​飛び、​巣に​戻る​鳩のように​飛ぶのは​だれか」と、​預言者は​問い​かけている。​そして、​ある​著者は​次のように​説明している。​「雲は​海と​川に​源を​もち、​ある​期間を​経たのち再びもとの​源に​戻ってくる」。

​ 私は​次の​ことを​加えよう。​あなたも​世界中を​豊かに​潤し、​世界中が​キリストの​生命を​生きるように​する​雲のようでなければならない。​この​神的な​水は​地球の​中に​浸みとおり、​そして​潤す。​水その​ものは​汚れず、​多くの​不純物の​間に​浸透して​清水を​湧き​上がらせ、​やがて​人類の​渇きを​潤すせせらぎと​なり大河と​なる。​あなたは、​その後で、​拠り所であり​広大な海である​神のもとへと​退きなさい。​知っての​通り、​あなたの​使徒職と​いう​超自然の​用水と、​世の​終わりまで​絶える​事の​ない​豊かな​神の​水で、​さらに​多くの​実が​熟し続けるだろう。

 幼子よ、​人々の​悲しみと​苦しみを​も主に​捧げなさい。

 苦痛?​ ​あれや​これやの​困難?​ 父なる​神が​それを​お望みである​ことが​分からないのか。​神は​良い​御方であり、​あなたを​愛しておられる。​世界中の​すべての​母親が​一緒に​なって​子供を​愛する​ことができる以上の​愛を​もって、​あなたを、そう、​あなた​一人を​愛しておられるのだ。

 あなたは​どういう​ふうに​師キリストに​従っているのだろうか。​誠実率直に​糾明しなさい。​心を​込めず​機械的で、​信仰も​周囲を​動かす力も​ない​献身の​仕方に​なっていないだろうか。​謙遜も​犠牲も​日々の​働きもないのではないだろうか。​あるのは​上辺だけで、​各瞬間の​小さな​事柄に​身を​入れていないのではないだろうか。​一言で​いえば、​神への​愛が​不足しているのではないのだろうか。

​ 万一そうだと​すれば、​効果が​上がらないのを​知って​驚く​方が​おかしい。​聖母マリアに​手を​引いていただいて​直ぐに​何とかしなさい。

 ​何か​必要な​ものが​足りなかったり、​大小は​別に​して​困難が​襲ってきたりした​ときは、​守護の​天使の​助けを​求めなさい。​イエスと​共に​それを​解決して​もらうか、​必要に​応じて​手助けを​して​もらう​ためである。

 あなたの、​私の、​そして​恩恵の​状態に​いる​すべての​人々の​霊魂の​中心に、​神は​こもっておいでになる。​そして、​そこに​おいでになるのには​目的が​ある。​すなわち、​私たちが塩となり、​光を​獲得し、​その神の​賜物を​それぞれの​居る​所で​人々に​分配する​ためである。

​ どのように​すれば、​その神の​賜物を​分配できるのだろうか。​謙遜と​信仰心を​もって、​また​母なる​教会に​しっかり​一致する​ことに​よってである。

​ ぶどうの​樹と​枝の​ことを​覚えているだろうか。​樹に​結ばれた​枝は​なんと​多くの​実を​結ぶ​ことか。​なんとたわわな​房に​なる​ことか。​しかし、​樹から​離れた​枝の​無惨な​こと、​枯れて命を​失ってしまう。

 イエスよ、​あなたの​大海のような​愛で​私の​哀れな​心を​満たし、​私を​清め、​すべての​惨めさを​追い出してください。​純粋で​燃え​上がるような​聖心の​愛を、​私の​心に​注いでください。​あなたを​お愛ししたいと​いう​強い​望みが​満たされ、​神の​愛に​燃える​火を​消すことができず〈愛に​焦(こ)がれて〉燃え​上がり、​あなたの​愛が​抵抗を​許さない、​豊富な​生命を​与える​滝と​なって​人々の​心に​降りかかり、​それに​触れた​心が​信仰と​愛を​もって​周囲を​揺り動かすことができますように。

 聖なる​ミサを​〈生きなさい〉。

​ 神に​心を​奪われていた​あの​司祭の​考えが​役に​立つだろう。​「私の​神よ、​聖なる​ミサに​与りながら、​聖人に​ならないなんて​ことが​あり得るでしょうか」。

​ 彼は​さらに​続けて​言った。​「以前の​決心を​果た​すため、​日々わが​主の​御脇の​傷の​中に​入り込み、​そこに​留まろう」。

​ あなたも​元気を​出して​やってみなさい。

 あなたは​大変良いことも​大変悪いことも​できる。​謙遜に​なって​喜びと​犠牲の​精神で​自らを​捧げるなら、​良いことができる。​あなたに​とっても、​兄弟である​人々に​とっても、​教会つまり​この​優しい​母なる​教会に​とっても、​役に​立つ立派な​ことができるのだ。

​ 他方、​自分の​高慢心の​赴くままに​行動した​とき、​なんと​大きな​悪を​なすことか。

 ブルジョアのようにならないように。​万一、​ブルジョア化するような​ことに​なれば、​あなたは​邪魔を​する​ことになる。​使徒職に​とって、​とりわけキリストの​聖心に​とって、​苦しみの​動機と​なるからである。

​ 使徒職を​止(や​)めてはならない。​できるだけ良い​働きを​するよう​努力しなさい。​あなたの​信仰​(信心)​生活を​疎(おろそ)かに​しないように。

​ 残りは​神が​引き受けてくださる。

 ​人々に​対しては、​時には​暖炉の​火のような​扱いを​しなければならない。​すなわち、​鉄火箸を​突っ込んで​掻きまぜ、​燃え滓(かす)を​取り出す。​燃え滓と​いうのは​よく​光るが、​それは​また神の​愛と​いう​火を​消す原因と​なるからである。

 聖櫃の​イエスに​近づいて​主を​〈よく​〉知り、​主の​教えを​咀嚼(そしゃく​)しよう。​その​食物を​人々に​与える​ためである。

 主を​拝領して​甘美な愛を​味わう​とき、​「必要なら、​あらゆる​面で​生き方を​変える​努力を​いたします」と​約束しなさい。​主を​知らず理想も​持たず、​不幸にも​動物のような​歩みを​続ける​大勢の​人々に​主を​もたら​すためである。

 ​「愛と​慈しみの​ある​ところ、​そこに​神が​おられる」と​典礼は​歌う。​そこで、​あの​人は​次のように​メモを​したのだった。​「この​兄弟愛は​素晴らしく​偉大な宝である。​それは、​多くの​場合に​必要であるとは​言え、​慰めに​なるだけでなく​神の​近くに​いると​いう​確かさを​人々に​伝え、​周囲に​いる​人たちの​愛徳、​そして​周囲に​いる​人たちに​対する​私たちの​愛徳と​なって​現れる」。

 人々の​注目の​的に​なるのを​避けなさい。​あなたの​生き方は、​神に​見ていただく​ためである。​聖性とは、​効果は​抜群だが、​隠れている​ものなのだ。

 誰にも​気づかれず、​称賛を​受けず、​見られずに、​助けの​手を​差し​伸べなさい。​塩のように​隠れたままで、​あなたが​生活を​営んでいる​環境に​味を​つけ、​キリスト教的な​感覚に​よって​すべてが​自然で​優しく​快適に​なるよう貢献する​ためである。

 この​私たちの​世界が、​唯一、​歩み甲斐の​ある​道、​つまり​キリスト教的な​道を​歩むには、​神との​忠実な​友情を​前提とし、​基礎と​して、​人々との​忠実な​友情に​〈生き〉なければならない。

 ​私が​〈人々を​信仰へと​導く​〉使徒職に​ついて​話すのを、​幾度も​耳に​したことがあるだろう。​私の​意見は​変わっていない。​本当の​信仰は​知らないけれども​高貴で​寛大で​朗らかな​人々との​使徒職が、​世界中で​私たちを​待っている。​なんと​素晴らしい​ことだろう。

 大勢の​人々の​耳元で​叫んで​やりたくなる​ことが​よく​ある。​事務所や​商店、​新聞や​教壇、​学校や​仕事場、​鉱山や畑で、​内的生活と​聖徒の​交わりに​守られ、​使徒聖パウロの​「自分の​体で​神の​栄光を​現しなさい」、​あなたの​生き方で​神に​栄光を​帰し、​いつも​人々のもとに​神を​お連れしなさい、と​いう​教えに​則して、​あらゆる​ところで​神の​運び手と​なるべきだ、と。

 心に​キリストの​真理を​持つ​私たちは、​この​真理を​人々の​心と​頭と​生活に​注ぎ込まなければならない。​そうしないのは、​安楽であり、​偽(いつわ)りの​戦略である。

​ もう​一度​考えてみなさい。​キリストは​あなたの​霊魂に​入り込む前に​許可を​求められただろうか。​主に​従うか​否かは、​あなたの​自由に​任せられた。​あなたを​探されたのは​キリストである。​ご自分が​そう望まれたからである。

 奉仕の​わざで​実際に​人々に​役立つことに​よって、​エルサレム入城よりも​大きな​勝利を​主の​ために​用意する​ことができる。​ユダの​登場や​オリーブの​園、​あるいは​あの​闇夜の​場面は​二度と​繰り返される​ことがないだろう。​主が​地上に​持って来られた​火で​世界を​燃え​上がらせよう。​すると、​真理の​光 ― ​私たちの​キリスト ― は、​いつまでも​人々の​知性を​照らし続けてくださるだろう。

 びっくりしないで​ほしい。​あなたは​キリスト者なの​だから、​人々が​神と​向き合って​生きるよう、​健全な​危機感を​人々の​心の​中に​引き起こす権利と​義務が​あるのだ。

 世界中の​ため、​すべての​民族と​すべての​言語、​すべての​信条​(宗教)の​人々の​ために​祈りなさい。​宗教に​ついて​ぼんやりした​考えしか​持たない​人と​信仰を​知らない​人の​ために​祈るのである。

​ すると、​人々の​救いを​望む​私たちの​熱意に​動かされ、​つまり​私たちがイエスを​愛している​ことを​ご覧に​なって、​イエスが​来てくださるだろう。

 遠い​国々での​霊魂に​関わる​仕事に​ついて​話を​聞いた​とき、​人々の​目は​なんと​輝いていた​ことか。​大海原を​ひと​飛びで​越える​覚悟が​あるように​思えた。​神への​愛が​大きければ、​世界と​言っても​小さな​ものだ。

 たった​一人の​人にも、​つまり​誰に​対しても、​無関心に​なってはならない。

 キリストの​弟子なら、​次のように​考える​ことは​あり得ないだろう。​私は​努めて​良い​人間になろうと​している。​しかし​他人は、​そう​望むと​言うの​なら、​勝手に​地獄に​行けばよい。

​ こんな​態度は​非人間的で​あり、​神への​愛にも、​隣人に​対して​持つべき愛徳にも​反する。

 キリスト者が​カトリック​(​普遍性)とは​何かを​理解し、​それを​実行に​移すなら、​また​救いの​福音を​すべての​人々に​大急ぎで​告げるべきことに​気づいているなら、​聖パウロが​教えるように、​「すべての​人に​対して​すべての​もの」に​なるべきことが​分かるだろう。

 神を​侮辱する​ことにならない​限り、​欠点が​欠点と​思えなくなるまであなたの​兄弟である​人々を​愛さなければならない。​人々の​良い​ところしか​愛さないと​すれば、​すなわち、​理解せず、​弁解してあげず、​赦さないと​すれば、​あなたは​利己主義者である。

 怠慢や​悪い​模範であなたの​兄弟である​人々の​霊魂を​破滅させる​ことは​許されない。

​ 隣人の​キリスト教的生活と​すべての​人の​霊的な​効果、​つまり​人々の​聖性に​ついては、​(あなたにも​情念が​あるとは​言え)、​やはり​あなたの​責任である。

 実際には​遠くにいても、​すべての​人の​すぐ​近くに​いる、​「すべての​人の​すぐ​傍(そば)に​いる」と、​あなたは​嬉しそうに​繰り返していた。

​ 私が​話した​愛の​交わりの​おかげで、​あなたは​満足していたのだ。​あなたは​飽く​ことなく​常に、​その​交わりを​より​生き​生きとさせなければならない。

 あの​友人を​独りぼっちに​しないように​するには​何を​すべきか、と​あなたは​尋ねた。

​ いつも​言っている​ことだが、​こう​答えよう。​私たちは​手元に​何でも​解決できる​素晴らしい​武器を​持っている。​つまり​祈りである。​まず​祈る​こと。​その後で、​あなたが​同じような​状況に​置かれたら​望むだろう​ことを、​友の​ために​してあげなさい。

​ 辱めないよう​注意しつつ、​難しい​ことも​容易に​なるよう手を​貸してあげるのである。

 常に​隣人の​立場に​立って​物事を​考えなさい。​そう​すれば、​種々の​問題を​落ち着いて​見つめ、​不愉快にならずに​理解し、​弁解し、​必要な​ときには​適切な​方法で​正すことができる。​こうして、​世界を​愛徳で​満たすのである。

 信仰に​関する​ことに​おいては​譲歩できない。​しかし、​真理を​述べる​ためとは​言え、​人を​悪しく​扱う​必要の​ない​ことも​忘れないで​ほしい。

 隣人の​ために​なる​ことなら、​沈黙してはならない。​ただし​怒ったり​不機嫌に​なったりせずに、​優しく​言ってあげなさい。

 出来事や​人の​意見に​ついて​話せば、​必ず​人々の​名前が​出る。​もちろん、​他人を​裁く​ためではない。​「裁くのは​主」である。

​ そういう​とき、​心の​歪んだ​人が、​悪意からか​分別が​ないからか、​あなたの​言葉を​中傷だと​決めつけても​心配するには​及ばない。

 あなたが​良い​ことを​するのを​見て​不愉快に​思う​哀れな​人が​いる。​自分たちで​やり遂げるか​管理するかしないと、​良い​ことで​なくなるとでも​思っているらしい。

​ こういう​無理解を​口実に​して​仕事の​手を​緩めてはならない。​今こそ、​より​いっそうの​努力を​傾ける​ときである。​この​世で​称賛を​得る​ことが​少なければ​少ない​ほど、​それだけあなたの​仕事は​天に​おいて​喜ばしい​行いと​なるのだから。

 時と​して​活動の​半分は、​愛徳の​不足と​兄弟間の​陰口や​噂話が​原因と​なった​内輪の​戦いで​失われ、​仕事の​四分の​一は​使徒職に​必要の​ない​建設事業で​失われる。​決して​陰口に​同意してはならず、​多くの​建物を​建てることに​時間を​浪費してはならない。​この​原則を​守れば、​人は​百パーセントの​使徒と​なるだろう。

 ​今いる​司祭と​将来現れるはずの​司祭が、​心から、​人の​区別を​せず、​日増しに​兄弟である​人々を​愛するよう、​また​司祭たちが​人々に​愛されるような​生き方が​できるよう、​祈りなさい。

 世界中の​司祭の​ことを​考え、​彼らに​実り豊かな​使徒職が​できるよう祈る​私を​助けて​欲しい。

​ 司祭職に​おける​私の​兄弟に​お願い​したい。​常に​神に​ついて​話して​ほしい。​あなたが​主の​ものなら、​主との​会話が​単調に​なる​ことは​ないだろう。

 説教、​それも​〈十字架に​掛けられた​〉キリストの​説教なら、​それは​神の​言葉である。

​ 司祭は​聖務を​果たす前に、​人々の​救いを​目指して、​できるだけ良い​準備を​しなければならない。

​ 信徒は​特別の​敬いを​もって​それに​耳を​傾けなければならない。

 あの​司祭が​「全霊を​込めて、​全身で​説教している」と​噂されているのを​聞いて、​嬉しく​思った。

 使徒たる​人よ、​次のように​祈りなさい。​「主よ、​私が​人々を​〈強く​促し〉、​すべての​人を​焚火のような​愛で​燃え​上がらせる​ことができますように。​焚火のような​愛が、​私たちの​活動の​唯一の​原動力に​なりますように」。

 カトリック信者なら、​使徒と​しての​生き方を​しなければならない。​すなわち、​神の​光と​神の​塩を​もって​人生の​歩みを​続けるのである。​恐れる​ことなく​自然に​生きるのだが、​人々を​照らし、​腐敗と​闇を​避け、​落ち着きの​実りと​キリストの​教えの​効果を​人々に​分け与えられる​くらい、​深い​内的生活と​主との​一致を​保っていなくてはならないのである。

 種蒔く​人が​種を​蒔きに​出て、​この​世の​あらゆる​道々に​一気に​種を​蒔いた。​私たちの​仕事は​幸いな​仕事である。​あらゆる​状況の​時代と​場所で​神の​言葉が​根を​下ろして、​芽を​吹き、​実を​結ぶ​よう​働く​ことを​引き受けたのだから。

 ​「主は​必ず​良い​ものを​お与えに​なり、​わたしたちの​地は​実りを​もたらします」。​そう、​この​祝福こそ​すべての​実りのもとであり、​私たちの​世界で​神の​人・聖人を​育てる​ことができる​ために​必要な​風土である。

​ 「主は​必ず​良い​ものを​お与えに​なり」、​主は​祝福を​与えられる。​しかし、​気を​つけなさい。​続いて​主は、​私たち ― あなたと​私 ― が​実を​結ぶのを​期待していると​仰せに​なる。​私たちが​すべてを​捧げなかったが​ために​結ぶ​弱々しく​痩せ細った​実でなく、​祝福で​満たしてくださる​神の​おかげで​豊かに​結ぶ​実を​期待しておられるのである。

 あなたは​自分の​召し出しを、​種子を​包む袋​(蒴果(さくか))のように​考えた。​…成長すると、​袋が​裂け、​種子が​散らばり、​やがて​時が​訪れて成長すると、​同時に​たくさんの​根を​しっかりと​下ろすだろうと​考えたのである。

 大勢の​人々の​中で​ ― 全員が​あなたの​関心の​的であるが​ ― あなたは​パン種と​なる​必要が​ある。​神の​恩恵と​それに​対する​あなたの​対応に​よって、​世界の​あらゆる​所で、​質を​与え、​味を​加え、​膨らませる​イーストとなり、​やがて​キリストの​パンが​他の​人々を​養うことができるように、である。

 中には​友人だと​いう​連中も​いるが、とにかく​イエスの​敵たちは、​人間的な​学問の​鎧(よろい)を​まとい、​権力と​いう​剣を​つかみ、​ダビデを​軽蔑して​あざわらった​ペリシテ人のように​キリスト者を​あざわらう。

​ 現在も、​憎悪、​虚偽、​権力、​世俗主義、​無関心主義の​ゴリアトは​地に​落ちるだろう。​その​とき​私たちは、​見かけは​弱々しい​祈りと​償いと​行いと​いう​キリスト教的な​精神の​武器で、​傷つけられた​数々の​偽りの​思想と​いう​大怪物から、​誤謬の​鎧(よろい​)を​はぎとる。​そして​兄弟である​人々に​キリスト教的な​生き方と​文化、​つまり、​本物の​学問を​身に​つけさせてあげる​ことができるだろう。

 教会に​反対する​種々の​運動は、​時には​善人と​呼ばれる​人たちと​手を​携えて​多くの​組織が​陰謀を​企(たくら)み、​新聞や​ビラや​ポスター、​中傷や​ロコミの​宣伝で​大衆を​煽動(せんどう​)する。​続いて​人々を​思いのままに​望むところへ、​地獄へも​連れて​行く。​人間には​霊魂が​ないかの​ごとく​個性なき大衆にしようと​いう​わけだ。​かわい​そうな​ことだ。

​ ところで、​人間には​霊魂が​あるのだから、​これら悪の​組織の​手中から​救い​出し、​彼らを​神に​仕える​人に​変えなければならない。

 頻繁に​秘跡に​与(​あずか​)る​人々の​うち、​かなりの​割合の​人が​俗悪な​出版物に​目を​通す。

​ そのような​害毒に​満ちた​反故(ほご)のような​書物を​読まない​よう、​心静かに、​また神の​愛に​溢れて​願い、​また​教えを​伝えなければならない。​彼ら​とて​恥ずかしいから、​自分で​買ったにも​かかわらず、​家族の​者が​手に​入れたかのように​言うのである。

 神に​関する​真理で​あれば、​愛徳と​確たる​態度で​擁護(よう​ご)しなさい。​聖なる​恥知らずと​なって、​誤りを​告発しなさい。​これらの​誤りは、​時には​ちょっとした​悪巧(わるだく​)み、​時には​嫌悪すべき​考えや​鉄面皮(て​つめん​ぴ)な​無知であり、​たいていの​場合は、​神の​言葉の​豊かさに​耐える​ことのできない​人たちの​無能さの​現れである。

 世間一般が​混乱​(した)​状態に​ある​時、​あなたの​人々を、と主に​叫んでも​届いていないかのようであり、​耳を​貸してくださらないかのようでもある。​そればかりか、​あなたは​自分の​使徒職を​無駄な​働きと​考えてしまう​ことさえ​ある。

​ 心配するには​及ばない。​今までと​同じ​喜び、​同じ​活力、​同じ​熱意を​もって​働き続けなさい。​もう​一度​言わせて​もらおう。​神の​ために​働くなら、​実を​結ば​ない​働きは​一つと​してないのだ。

 子よ、​世界中の​海は​すべて​私たちの​ものである。​そして​漁の​難しい​ところこそ、​より​熱心に​漁を​すべき海なのだ。

 キリスト者と​して​教えを​伝え、​申し分ない​生活を​送り、​仕事を​立派に​やり遂げる​ことに​よって、​親族や​友人、​同僚、​隣人、​生徒など、​まわりに​いる​人々に、​専門職の​遂行と​職務に​伴う​義務履行の​模範を​示さなければならない。​雑な​仕事を​してはならないのである。

 あなたは​キリストと​親しく​交わっているのだから、​実を​結ぶ​義務が​ある。

​ 仕事に​おいて、​日常の​社会生活・家庭環境に​おいて、​あなたに​近づく​人々の​飢えを​満たすことのできる​実を​結ば​なければならないのである。

 あなたが​喜んで​寛大に​義務を​果たすなら、​その​おかげで​主は​他の​人々にも​豊かな​恩恵を​注がれるだろう。

 十字架の​友と​なる​人を​もっと​増や​すために、​世界中に​キリストの​精神を​広げる​努力を​しなさい。

 主は、​たくさんの​効果的な​恩恵を​お与えに​なっただけでなく、​あなたの​才能が​実を​結ぶようにと、​頭脳や​手や​知的能力を​くださった。

​ 専門と​する​仕事を​聖化し、​その​仕事を​神に​喜ばれ、​人々に​役立つ燔祭に​する​ため努力する​あなたを​使って、​死者を​蘇らせ、​聞こえない​人に​聴力を、​盲人に​視力を​与え、​足の​不自由な​人を​歩けるように​するなど、​神は​絶えず​奇跡を​なさろうとお望みである。

 人々を​神に​近づける​努力を​しなかった​日、​赤々と​燃える​熾(​おき)火(び)であるべきあなたは、くだらない炭、​あるいは​一(ひと​)吹(ふ)きの​風で​霧散する​一握りの​灰と​化す。

​ 火を​広めなければならない。​火を​つけ、​燃え​上がらせ、​神の​愛と​忠実と​使徒職の​火に​なるべきなのだ。

 聖母マリアの​御名を​お呼びしなさい。​〈母である​ことを​お示しください〉。​聖母が​あなたの母である​ことを​いつも​示してくださる​よう、​また​御子の​恩恵に​よって​知性には​良い​教えの​光を、そして​心には​愛と​清さを​得てくださる​よう​お願い​するのを​止めてはならない。​神のもと​へ​行き、​大勢の​人々のもと​へ神を​お連れする​ためである。

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