試練

 主よ、​感情を​使ってあなたに​仕える​ことができますから、​それを​取り去ってくださいとは​申しません。​しかし、​感情を​清めてください。

 神の​すべての​素晴らしさと​私たち人間の​弱さを​見て、​「あなたは​私の​すべてです。​お望みのように​私を​お使いください」と​申し上げなければならない。​そう​すれば、​あなたも​私たちも​孤独を​感じる​ことは​ないだろう。

 聖性に​達する​ための​最高の​秘訣は、​唯一の​模範である​優しい​イエス・キリストに​どんどん​似ていく​ことである。

 祈り​始めたのに、​何も​見えず、​心が​落ち着かず、​熱意も​湧いて​こない。​それが​道なのだ。​自分の​ことを​考えず、​贖い​主イエス・キリストの​ご受難に​目を​戻しなさい。

​あなたは​確信しなければならない。​最も​近しい​三人の​弟子に​オリーブの​園​(ゲッセマニ)で​仰せに​なったように、​イエスは​私たち一人​ひとりにも、​「目を​覚まして​祈っていなさい」と​仰せに​なっているのだ。

 聖なる​福音書を​開く​とき、​そこに​語られている​こと、​すなわちキリストの​言葉と​行いは、​知る​ためだけでなく、​〈生きる​〉ためである​ことを​考えなさい。​細かな​ことを​含め、​そこに​書かれている​一つ​ひとつの​事柄は​すべて、​あなたが​実生活の​個々の​状況に​具体的に​当てはめて​実行する​ために​集められた​ものである。

​ カトリック信者は、​主の​すぐ​後ろに​ついて​行く​よう​招かれている。​そして​聖書の​中に、​イエスの​生涯を​見出すだけでなく、​あなた​自身の​生き方を​見出さなければならない。

​ 使徒聖パウロのように、​あなたも​愛に​満ちて​尋ねる​ことができるようになるだろう。​「主よ、​どう​したら​よいでしょうか」。​すると、​あなたは​心の​中に、​神のみ​旨を​果たせ、と​いう​断固とした​命令を​聞くだろう。

​ と​いうわけで、​日々福音書を​手に​取り、​それを​読み、​具体的な​指針と​して​実行しなさい。​聖人たちは、​このように​したのである。

 心に​確かな​反応が​欲しいと​あなたが​本当に​望むの​なら、​主の​御傷の​一つに​入り込みなさい、と​私は​勧める。​こうしてあなたは​主と​親しく​付き合い、​主に​寄り添い、​聖心の​鼓動を​感じる​ことができる。​そして​主が​何を​要求な​さっても、​すべてに​おいて​主に​従う​ことだろう。

 確かに、​祈りは​イエスを​愛する​人たちの​〈慰め〉である。

 十字架は​キリストの​使徒の​生活の​象徴である。​その​力と​真理は、​時と​して​辛く​重荷と​感じられるとは​言え、​霊魂と​体に​喜びを​与える。

 愛するが​ゆえに​キリストと​共に​苦しみたいと​いう​あなたの​気持ちは​分かる。​主を​鞭で​打つ​刑吏と​キリストとの​間に​入ってあなたの​背中を​さらし、​茨の​冠を​受ける​ためキリストのではなく​あなたの頭を​差し出し、​あなたの​手と​足を​釘づけに​したい。​あるいは​少なくとも、​カルワリオの​聖マリアに​付き添い、​あなたの罪で​神を​死に​至らしめた​ことを​認め、​苦しみ、​そして​愛したい。

 慰め主ともっと​頻繁に​付き合って​光を​求める​つもりです、と​あなたは​言った。

​ よろしい。​しかし、​子よ、​聖霊は​十字架の​実りである​ことを​忘れないように。

 明るく​喜ばしい​愛は​人を​幸せに​するが、​そのような​愛は​苦しみを​通らなければ​生まれない。​何も​放棄しないなら、​愛の​生まれる​余地は​ないのである。

 キリストは​十字架に​つけられた。​それにも​かかわらずあなたは、​自分の​好みや​楽しみだけに​浸っているのか。​言い直そう、​自分の​好みや​楽しみで​釘づけに​されているのか。

 ​甘ったれた​キリスト者には​なりたくない。​第一、​そんな​ことは​認められない。​この​世で​苦しみと​十字架を​避ける​ことは​できないのである。

 この​世に​生きる​限り、​十字架を​覚悟しておかなければならない。​十字架を​覚悟しない​人は​キリスト者と​呼べない。​そして​そんな​人も​〈自分の​十字架〉との​出合いを​避ける​ことは​できないので​絶望する​ことだろう。

 十字架が​重々しくの​しかかってくる​今こそ、​イエスが​問題を​解決してくださり、​心は​平和で​満たされる。​荷が​軽くなるよう、​御自らが​キレネ人と​なって​担ってくださるのである。

​ そこで、​信頼を​込めて​申し上げなさい。​主よ、​これは​なんと​いう​十字架でしょうか。​十字架の​ない​十字架です。​あなたの​助けを​得てあなたに​委託する​方​法を​知った​今、​私の​十字架は​すべて​このような​十字架に​なるでしょう。

 ​「主よ、​見世物ではなく、​苦しみを​望みます」と​いう​あの​友の​昔の​決心を​心の​中で​再確認しなさい。

 十字架を​背負うとは、​喜びを​もつと​いう​ことである。​主よ、​それは、​あなたを​所有する​ことです。

 人間を、そして​社会全体を​も本当の​不幸に​陥れるのは、​焦慮(しょうりょ)に​駆(か​)られ利己的に​豊かな​生活を​求める​こと、​すなわち快適や​心地よさに​反する​こと​すべてを​避けようと​する​態度である。

 愛の​道は、​犠牲と​呼ばれる。

 十字架、​聖なる​十字架は​重い。

​ 一方に、​私の​罪が​ある。​他方に、​私の​母なる​教会の​苦しみと​いう​悲しい​現実、​すなわち、​大勢の​中途半端な​信者の​無気力、​様々な​理由に​よる​愛する​人たちとの​別離、​自分や​他人の​病や​苦しみなどが​ある。

​ 十字架、​聖なる​十字架は​重い。​「神の​いと​正しく、​いと​愛すべきみ旨は、​万事に​越えて​行われ、​全う​され、​賛美され、​永遠に​称えられますように。​アーメン、​アーメン」。

 キリストの​お通りに​なる​道を​通り、​諦めるのではなく​自発的に​十字架に​一致し ― 十字架に​順応して​ ―、​神のみ​旨を​愛するなら、​十字架を​心から​望むなら、​その​時こそ主が​十字架を​運んでくださる。

 苦しみを、​内的・外的な​十字架を、​物惜しみしない​心から​出る​〈なれかし〉で​神のみ​旨に​一致させなさい。​そう​すれば、​喜びと​平安に​満たされるだろう。

 本物の​キリストの​十字架である​ことを​示す確かなしるしを​並べてみよう。​落ち着きと​深い​平和、​どのような​犠牲でも​受け入れる​愛、​イエスの​御脇から​流れ出る​素晴らしい​〈効果〉、​そして​常に​明らかな​喜び、​言い​換えれば​心から​献身する​人が、​十字架のもと、​すなわち主の​傍らに​いる​ことを​知っているから​持つことのできる​喜び。

 王である​キリストの​寵愛を​理解し感謝する​ことを​忘れてはならない。​王は​あなたの​生涯の​間、​あなたの肉体と​精神を​聖十字架の​真の​印でしっかり​封印してくださるからである。

 あの​友が​書いていた。​「よく​手に​され、​たくさんの​接吻を​受けたので​擦り​減ってしまったが、​小さな​キリストの​十字架像を​持ち歩いています。​それを​ずっと​使っていた​祖母が​亡くなった​とき、​父が​受け継いだものです」。

​ 「使い古した​安物の​十字架なので​差し上げる​わけには​いきませんが、​こうして、​これを​見る​たびに​十字架への​愛を​増してくれる​ことでしょう」。

 ある​司祭が​苦しい​とき次のように​祈っていた。​「イエスよ、​あなたが​お望みの​十字架を​お送りください。​今から​喜んで​それを​受け入れ、​私の​司祭と​しての​豊かな​祝福を​与えます」。

 ​大きな​打撃、​つまり​十字架を​受けても、​慌てる​必要は​ない。​それどころか​反対に​喜んで​主に​感謝しなさい。

 咋日、​死去された​イエスを​描いた​絵を​見ていて​心を​奪われた。​一人の​天使が​言うに​いわれぬ信心深さで​主の​左手に​接吻している。​もう​一人の​天使は​主の​足元に​立ち、​十字架から​引き抜かれた​釘を​手に​持っている。​絵の​手前には、​背を​こちらに​向けた​太っちょの​天使が​キリストを​見つめて​立っている。

​ その​絵が​手に​入りますように、と主に​お願いした。​美しい​絵で​信心の​雰囲気を​漂わせていたからである。​それを​買わないかと​見せられた​人が、​「死体じゃないか」と​断った​ことを​知って、​私は​悲しくなった。​主よ、​私に​とってあなたは​常に​生命です。

 ​何度も​繰り返し申し上げます。​主よ、​あなたの​お伴が​したいのです。​ご受難と​十字架の​辱めと​残酷さを​あなたと共に​苦しみたいと​思っております。

 十字架に​出会うとは、​キリストに​出会う​ことである。

 イエスよ、​各瞬間に​十字架の​寛大さを​〈生きる​〉ことができるよう、​神である​あなたの血を​私の​血管に​注ぎ込んでください。

 十字架で​死去された​イエスの​前で​祈りなさい。​キリストの​生命と​死が、​あなたの​生活と​神のみ​旨に​対する​応え方の​模範と​なり刺激と​なる​ためである。

 苦しみや​償いの​ときには、​十字架は​贖い​主キリストの​印である​ことを​思い出しなさい。​十字架は、​悪の​象徴ではなく、​勝利の​象徴に​なったのである。

 料理には、​材料の​中で​〈最高の​もの〉、​すなわち犠牲を​加えなさい。

 ​何日間かは​大きな​犠牲を​実行するが、​他の​日には​止(や​)めてしまうような​態度を、​犠牲の​精神と​呼ぶことは​できない。

​ 犠牲の​精神とは​毎日、​自分に​打ち勝ち、​愛の​心で​目立たず​地味に、​大小さまざまな​犠牲を​捧げる​ことである。

 小さな​こと ― 些細な​困難と​大きな​困難 ― は、​犠牲すなわち唯一の​犠牲である​主の​大きな​苦しみに​合わせると、​値打ちを​増して​宝物と​なる。​そうなると​私たちは、​喜びに​満たされて勇敢に​キリストの​十字架を​担う​ことだろう。

​ その​結果、​すぐに​克服できない​苦しみは​なくなり、​何者(なに​もの​)も​何事も​私たちから​平安と​喜びを​奪うことができなくなるだろう。

 聖パウロが​教えるように、​使徒に​なるには、​十字架に​つけられた​キリストを​身に​帯びなければならない。

 正に​その​通り。​聖なる​十字架は、​私たちの​生活が​キリストの​ものである​ことを​疑う​余地なく​確認してくれる。

 十字架は​苦しみでも​不快でも​悲しみでもない。​それは、​キリストが​勝利を​得られた​聖なる木であり、​主が​お送りに​なる​ことを​喜びと​物惜しみしない心で​受け入れれば、​私たちが​勝利を​得る​ところである。

 聖なる​犠牲​(ミサ)の​後で、​あなたに​分かった​ことがある。​兄弟たちの​堅忍だけでなく、​彼らの​地上での​生活までが​大部分、​あなたの​信仰と​愛 ― 償いと​祈りと​活動 ― 次第である。

​ 主キリストと​あなたと​私は、​なんと​幸いな​十字架を​担っている​ことか。

 イエスよ、​熱狂的な​愛の​篝(かがり)火(び)に​なりたいのです。​私が​いるだけで、​周囲何キロメートルにもわたる​世界を​消えない火で​燃え​上がらせる​ことができればと​思っています。​私が​あなたの​ものである​ことを​知りたいのです。​その後でなら、​「十字架よ、​来たれ」と​言えるでしょう。

​ 苦しみ、​愛し、​信じる​ ― 素晴らしい​道である。

 病に​伏すときの​苦しみを​愛の​心で​捧げなさい。​苦しみは、​神を​称えて​立ち昇る​香と​なり、​あなたを​聖化する​ことだろう。

 神の​子であり、​主の​恩恵を​得ている​あなたは、​強い​人間、​つまり​望みと​行いの​人でなければならない。

​ 私たちは​温室育ちの​植物ではない。​世の​直中に​住み、​東西南北の​風、​暑さや​寒さ、​雨や​嵐に​晒(さら​)されていなければならないのである。​ただし、​神と​その​教会への​忠実を​保ちつつ。

 軽蔑を​愛そうと​思っているが、​いざ受けてみると、​なんと​辛い​ことか。

​ 驚かずに、​その​軽蔑を​神に​捧げなさい。

 ​その​軽蔑に​あなたは​ずいぶん​傷つけられた。​あなたが​いとも​簡単に​自分が​何者(なに​もの)であるかを​忘れている​証拠である。

 不当だと​考える​非難を​受けたなら、​その​ときは​神のみ​前で​自らの​行いを​〈喜びと​平安の​心で​〉、​つまり​明るく​冷静に​糾明しよう。​そしてたとえあなたの​行いが​無害であっても、​愛徳の​面から​見て​必要なら、​行いを​正すことにしよう。

​ 聖人に​なるよう、​日々いっそうの​努力を​傾けて​戦おう。​そして​その後は、​あの​至福八端の​言葉を​当てはめる​ことのできる​限り、​〈好きな​ことを​言わせておくことにしよう〉。​「わたしの​ためにののしられ、​迫 害され、​身に​覚えの​ない​ことで​あらゆる​悪口を​浴びせられる​とき、​あなたがたは​幸いである」。

 誰が​どこで​言ったか​憶えていないが、​讒言(ざん​げん)は​抜きん出た​人に​対して​強暴性を​発揮すると​言われる。​台風が​背の​高い​木を​強く​打つのと​同じである。

 陰謀、​本人の​卑しい​心に​見合った​邪(よこしま)な​解釈、​臆病者の​陰口。​悲しい​ことだが、​色々な​ところで​繰り返される​場面である。​そういう​ことを​する​人たちは、​自ら​働かないだけでなく、​他人を​も働かせない。

​ あの​詩編の​言葉を​ゆっくり黙想し、​その後で​仕事を​続けなさい。​「兄弟は​わたしを​失われた​者とし、​同じ母の​子らは​わたしを​異邦人とします。​あなたの​神殿に​対する​熱情が​わたしを​食い​尽くしているので、​あなたを​嘲(​あざけ)る​者の​嘲りが​わたしの​上に​ふりかかっています」。

 人みな​善人とは​言え、​善い​ことを​しようと​すれば、​必ず噂や​陰口と​いう​聖なる​十字架を​担わなければならない。

 ​「お前たちは、​立ち帰って​静かに​している​ならば​救われる。​安らかに​信頼している​ことに​こそ力が​ある」。​主は​ご自分の​者たちに​こう​保証な​さった。​沈黙と​信頼こそ、​逆境に​置かれて​何ら​人間的な​手段が​ない​ときの​二つの​根本的な​武器である。

​ ご受難と​ご死去の​ときの​イエスを​眺めなさい。​不平を​言わずに​苦しみを​忍ぶことも、​愛の​尺度である。

 余す​ところなく​神の​ものとなり、​神ゆえに​人々の​ものになりたいと​強く​望む人が​祈っていた。​「主よ、​あなたが​この​罪人の​なかで​お働きくださる​よう、​そして​私の​意向を​正し、​清め、​純粋な​ものに​してくださる​よう、​お願い​致します」。

 譲歩する​態度と​譲歩しない​態度とを​両立させた、​あの​博学で​聖なる​人の​寛容には、​本当に​感動した。​その​人は、​「神を​侮辱しない​限り、​どんな​ことにも​妥協しよう」と​言ったのである。

 あなたの​生涯を​通して、​あなたを​困らせ、​また​困らせようとした​人た​ちが、​どれほど​あなたに​良い​ことを​してくれた​ことに​なるかを​考えなさい。

​ 他の​人なら、​そのような​人々を​敵と​呼ぶだろう。​あなたは​敵が​いるとか、​いたとか​言う​ほどの​大物ではないの​だから、​この​点に​ついても​聖人たちを​真似て、​その​人たちの​ことを​〈恩人〉と​呼びなさい。​神に​祈れば、​彼らに​好感を​抱くようにも​なるだろう。

 子よ、​よく​聞きなさい。​手酷(て​ひど)く​扱われ、​名誉を​傷つけられた​とき、​「世の​屑」である​あなたが​大勢の​人に​騒ぎ立てられ、​あたかも​流行であるかのように​唾を​吐きかけられる​とき、​あなたは​幸せだと​思わなければならない。

​ 辛い、​とても​辛い。​忍びが​たいことだ。​しかし​それも、​遂には​聖櫃に​近づいて、​自分が​世の​屑、​蛆虫と​思われている​ことを​認め、​「主よ、​あなたが​私の​名誉を​お望みでないのなら、​どうして​私が​それを​望めましょうか」と​心から​申し上げるまでの​ことである。

​ その​ときまで、​すなわち犠牲と​悲しみを​もとにして​徹底的に​裸に​なり、​愛ゆえに​余すところなく​捧げるまで、​神の​子が​幸せとは​何であるかを​知ったとは​言えないのである。

 善人が​反対する?​ それは​悪魔の​仕業である。

 心の​平安を​失っていらいらすると​いう​ことは、​あなたの​理性から​〈理〉を​取り除いたような​ものだ。

​ そういう​ときは、​平安と​落ち着きを​失って​湖に​沈むペトロに​師キリストの​仰せに​なった​言葉が​再び聞こえてくる。​「なぜ​疑ったのか」。

 秩序は​あなたの​生活に​調和を​もたらし、​堅忍する​力を​与える。​秩序は​あなたの心を​平和に、​行いを​沈着に​する。

 あなたの心に​安らぎを​与えるだろうから、​次の​言葉を​書き写しておこう。​「これ以上は​ひどくなり得ない​ほど​経済的に​困った​状態に​いるが、​心の​平和を​失う​ことはない。​父なる​神が​一度に​何もかも​解決してくださると​堅く​信じている」。

​ 「主よ、​私の​心遣いを​こと​ごとく​御手に​委ねます。​こんな​時、​私たちの​母 ―あなたの​御母 ― は、​カナの​婚宴の​ときのように、​『ぶどう​酒が​なくなりました』と​伝えてくださったはずです。​イエスよ、​あなたを​信じ、​あなたに​希望し、​あなたを​お愛しいたします。​私の​ためには​何も​望みません。​すべて​人々の​ためなのです」。

 あなたのみ​旨を​愛します。​偉大な​先生である​聖なる​清貧を​愛します。

​ あなたの、​いとも​正しく、​いとも​父親らしく、​いとも​愛すべきみ旨から、​たとえわずかでも​離れる​原因と​なる​もの​すべてを、​常に​いつまでも​憎むことに​いたします。

 清貧の​精神、​現世の​財から​離脱した心は、​使徒職に​多大の​効果を​もたらす。

 ナザレは​信仰と​離脱の​道であり、​創造主が​天の​御父に​対するように、​被造物​(人間)に​従われた​ところである。

 イエスは​常に​愛を​込めて​優しく​お話しに​なる。​私たちを​正す​ときや​逆境に​置かれる​とき、​やはり​そうなさる。

 神のみ​旨を​完全に​自分の​ものとしなさい。​そう​すれば、​困難も​困難で​なくなる。

 神は、​あなたが​自分​自身を​愛する​愛を​はるかに​超える​愛で、​あなたを​愛してくださる。​だから、​主の​要求を​すべて​受け入れなければならない。

 恐れずに​神のみ​旨を​受け入れなさい。​信仰が​教え要求する​ところに​従って、​あなたの​生活全体を​築きあげる​決心を​躊躇せずに​固めなさい。

​ そう​すれば、​悲しみや​中傷に​襲われている​ときにも、​きっと​幸せを​感じる​ことだろう。​人々を​愛し、​人々を​超自然の​喜びに​あずから​せる​努力を​せよと​駆り立てる​幸せである。

 困難に​襲われる。​それすなわち、​父なる​神が​あなたを​愛しておられる​証拠である。

 愛する​ことを​知る​人々の​生涯は​すべて​苦しみの​溶鉱炉と​言えようが、​たとえ辛くても​恐れずに​キリストの​跡を​辿る​人は​喜びに​出合うだろう。​主は​こう​お教えに​なる。

 あなたの​精神を​償いに​よって​強くしなさい。​困難が​襲ってきても、​決してがっかりしないためである。

 あなたは​一体​いつに​なったら、​生命である​キリストと​一致する​決意を​断固と​して​固める​つもりなのだろうか。

 イエスの​歩みに​堅忍して​従うには、​常に​自由に、​常に​望みつつ、​絶えずあなた​自身の​自由を​行使しなければならない。

 改善可能な​事柄一つ​ひとつの​中に​たくさんの​異なる​目標の​ある​ことが​分かり、​あなたは​驚いている。

​ それらは、​〈道〉の​中の、​また​数多い道であり、​その​おかげで​惰性に​陥るのを​避け、​もっと​主に​近づく​ことができる。

​ 努力を​惜しまず、​もっと​高い​ところを​狙いなさい。

 謙遜に、​すなわち、​まず決して​不足するはずの​ない​神の​祝福を​頼りに​して​働きなさい。​次いで、​良い​望みと​仕事の​計画、​それに​あなたが​出合うもろもろの​困難を​もとにして​働きなさい。​ただし、​困難の​一つは​あなたの​聖性の​不足である​ことを​忘れてはならない。

​ 日毎に​良くなる​ために​戦いを​続けるなら、​効果的な​道具に​なれるだろう。

 あなたは​祈りの​中で​主に​申し上げた​ことを​私に​打ち明けてくれた。​「考えてみると、​あなたの​恩恵を​受けているにも​かかわらず、​確かに​私の​応え方が​足りないために、​惨めさが​増していく​ようです。​私には​あなたが​要求なさる​事業の​ための​準備が​まったく​できていない​ことは​よく​知っております。​そして、​名声と​才能とお金を​持った​大勢の​人たちがあなたの​御国(みくに​)を​守ろうと​話し、​書き、​組織作りに​精を​出す様子を​新聞で​読んで、​自分​自身に​目を​移すと、​無知で​貧しく、​つまらない​人間に​過ぎない​自分が​見えます。​あなたが​このような​私を​お望みである​ことを​万一知らなかったと​すれば、​私は​恥ずかしくて​どう​したら​よいのか分から​なくなった​ことでしょう。​しかし、​イエスよ、​本当に​喜んで​私の​野心を、​信仰と​愛を、​あなたの​足元に​差し出した​こと、​また​私が​愛し、​信じ、​苦しむ覚悟の​ある​ことを​あなたは​ご存じです。​この​点では​確かに​裕福で​知恵ある​者に​なりたいと​望んでいます。​しかし、​限りない​慈しみに​よって​お定めに​なった以上に​裕福で​知恵ある​者に​なる​ことは​望みません。​あなたのいとも​正しく、​いとも​聖なるみ旨を​忠実に​果た​すため、​私の​名声と​名誉の​すべてを​捧げるべきだからです」。

​ 私は​その​良い​望みを​単なる​望みで​終わらせないように、​と​勧めて​おいた。

 十字架は、​引きずらないでしっかり​担いなさい。

​ 人類全体の​重さを​肩で​感じなさい。​そして​それぞれの​身分と​仕事に​固有な​状況の​なかで、​御父のみ​旨の​明白で​愛すべき​ご計画を​果たしなさい。​神の​愛は​こう​招いている。

 後にも​先にも​これ以上の​馬鹿は​ある​まいとも​言うべき前代未聞の​馬鹿は​〈彼〉である。​誰の​ために​身を​捧げたかを​考えてみれば、​〈彼〉の​狂気のような​献身に​まさる​献身が​あり得るとは​考えられない。

​ な​ぜこう​言うのか。​いたいけない​幼子に​なってくださった​こと​自体が​狂気の​沙汰だからである。​しかし​それだけなら、​大勢の​悪人も​敢えて​手荒く​扱わずに​心を​和らげた​ことだろう。​まだ​足りないと​考えられた​御方は​さらに​遜(へりくだ)って​自らを​捧げ、​食物となられた。​パンに​なってくださったのである。

​ 神的な​狂気としか​言いようが​ない。​「人々は​あなたを​どのように​扱っているのでしょうか」。​「私自身は​どうでしょうか」。

 イエスよ、​あなたの​狂気の​ごとき​愛には​心を​奪われてしまいます。​あなたを​食する​人が​大きくなれるように、​あなたは​無防備の​小さな​ものとなってくださいました。

 あなたの​生活を、​根本から​徹底的に​ご聖体​中心にしなければならない。

 私は​好んで​聖櫃を​〈愛の​牢獄〉と​呼ぶ。​二十世紀の​昔から​主は​そこに​おられる。​私の​ため、​すべての​人の​ために、​自ら​進んで​こもってくださったのである。

 一生に​一度しか聖体を​拝領できないと​すれば、​主を​お迎えする​ために​どんなに​心を​込めて​準備を​するか、​考えたことがあるだろうか。

​ いとも​簡単に​主に​近づく​ことができることに​感謝しよう。​ただし、​その​感謝は、​主を​拝領する​ために​よい​準備を​する​ことに​よって​示さなければならない。

 主に​申し上げなさい。​「今後は、​一生の​最後の​出来事の​つもりで、​篤い​信仰と​焼き尽く​すほどの​愛を​もって、​聖なる​ミサを​たて、​あるいは​ミサに​与り、​ご聖体を​配り、​あるいは​拝領いたします」と。

​ そして、​あなたの​過去の​怠りを​思い出して​痛悔しなさい。

 あなたが​聖なる​ユーカリスチア(聖体)を​毎日​拝領したい​気持ちは​よく​分かる。​神の​子である​ことを​自覚している​人なら、​何が​なんでも​キリストを​必要と​するからである。

 聖なる​ミサに​与る​ときは、​神的な​犠牲に​参加している​こと、​すなわちキリストが​祭壇上で​再び​自らを​あなたの​ために​お捧げに​なる​ことを​考えなさい。​事実​その​通りなの​だから。

 主を​礼拝する​とき、​申し上げなさい。​「あなたに​希望します。​あなたを​礼拝します。​あなたを​お愛しいたします。​私の​信仰を​増してください。​人間の​数々の​弱さを​救う​ために​無抵抗な​ご聖体となられた​あなたが、​どうぞ​私の​弱さの​支えと​なってくださいますように」。

 イエスの​あの​言葉を​よく​噛み締めて​自分の​ものとしなさい。​「あなたが​たと共に​この​過越の​食事を​したいと、​わたしは​切に​願っていた」。​聖なる​犠牲に​対して​最高の​関心と​愛を​示す​最も​よい​方​法は、​教会が​その​知恵を​しぼって​定めた​典礼を​細部に​至るまで​丹念に​心を​込めて​守る​ことである。

​ 愛を​示すだけでなく、​内的にも​外的にも​イエス・キリストに​似る​〈必要〉を​も強く​感じなければならない。​広い​空間を​備えた​キリスト教の​祭壇を、​キリストの​花嫁の​願い、​つまり​キリスト自身のみ​旨に​従って、​落ち着いて​優雅に​動くのである。

 ご聖体の​主を​拝領する​とき、​この​世の​重要人物を​迎えるように、​いや、​それ以上に​飾り立て、​明かりを​灯し、​晴れ着を​着て、​お迎えしなければならない。

​ どのような​清さ、​どのような​飾り、​どのような​明かりで、と​尋ねるなら、​「あなたの​感覚​一つ​ひとつを​清め、​能力​一つ​ひとつを​飾り、​心全体を​明かりで​灯して」と​答えよう。

 聖体を​中心に​して​生きる​人に​なりなさい。​子よ、​あなたの​思いと​希望の​中心が​聖櫃に​あれば、​聖性と​使徒職は​なんと​豊かな​実を​結ぶ​ことだろう。

 神を​礼拝する​ために​使われる​ものは、​芸術的でなければならないだろう。​ただし、​礼拝が​芸術の​ために​あるのではなく、​芸術こそが​礼拝の​ために​ある​ことを​忘れてはならない。

 実際に​足を​運んで、​あるいは​心の​中で、​辛抱強く​聖櫃に​近づきなさい。​安心を​得る​ため、​落ち着きを​感じる​ためである。​また、​愛されていると​感じる​ため、​そして​愛する​ためでもある。

 ある​司祭が​自分の​使徒的事業に​加わった​人たちに​述べた​言葉を​写してみよう。​「祭壇上の​聖体顕示台に​安置された​聖なる​ホスチアを​眺める​とき、​キリストの​深い愛と​優しさを​考えなさい。​あなたたちに​対して​抱く​自分の​愛を​考えると、​私には​キリストの​聖心が​よく​分かる。​遠くで​働きながら、​あなたたち一人​ひとりの​傍らに​いる​ことができるのなら、​大喜びで​そうする​ことだろう」。

​ 「ところで、​キリストは​それが​おできになる。​そして、​世界中の​すべての​心が​抱く​ことのできる​愛を​遥(はる​)かに​超える​深い愛で、​私たちを​愛する​神が​残ってくださったのである。​私た​ちがいつも​キリストの​聖なる​人性に​一致している​ことができるよう、​また​忠実に​なれるよう助け、​慰め、​力づける​ためである」。

 人に​仕えつつ​生きる​ことが​簡単だと​思ってはならない。​使徒聖パウロが​教えるように、​「神の​国は​言葉ではなく力に​ある」の​だから、​その​立派な​望みを​実行に​移さなければならないのである。​また、​犠牲を​払わずに​絶えず​他人に​助けの​手を​差し​伸べる​ことは​できないのである。

 常に​すべてに​おいて​教会と​同じ​心を​持ちなさい。​それが​できるよう、​必要な​霊的・​教理的形成を​受けなさい。​そう​すれば、​現世の​事柄を​正しく​判断する​規準を​備えた​人、​間違いに​気づいたら​すぐに​正す謙遜な​人に​なるだろう。

​ 自らの​過ちを​潔く​正す​ことは、​個人の​自由を​行使する​ための​真に​人間的かつ超​自然的な​方法である。

 キリストの​教えと​いう​光を​大急ぎで​広めなければならない。

​ 形成と​いう​宝を​積み、​明確な​考えと​十全な​キリストの​使信​(メッセージ)を​しっかりと​身に​つけなさい。​後で​それを​人々に​伝える​ためである。

​ 神が​特別の​照らしを​下さる​などと​期待してはならない。​勉強や​仕事と​いう​私たちに​できる​具体的な​手段が​あるのに、​そんな​ものを​お与えに​なるはずが​ないのである。

 誤謬(ごびゅう)は​知性を​暗く​するだけでなく、​人々の​意志を​分裂させる。

​ 逆に、​「真理は​あなたたちを​自由に​する」、​すなわち真理は、​愛徳を​枯渇させる​党派的な​分裂から​あなたを​守ってくれるだろう。

 挨拶さえしない​あの​同僚と​頻繁に​接しなければならず、​あなたは​辛いと​感じている。

​ 辛抱しなさい。​裁いてはならない。​あなたと​同じように、​その​人には​〈その​人なりの​理由〉が​あるのだろう。​あなたは​自分の​理由を​大切に​して、​毎日​その​人の​ために​祈ってあげなさい。

 四つ足で​這いつくばったような​生活を​している​あなたが、​他人が​天使でないのを​知って​驚くのは​なぜだろう。

 聖なる​純潔を​保つよう愛を​込めて​警戒していなさい。​火事を​消すより、​火花を​消すほうが​簡単なの​だから。

​ しかし​必須の​武器である​犠牲と​苦行帯と​断食で​どれほど​努力しても、​わが​神よ、​あなたの​助けが​なければ、​ほとんど​役に​立ちません。

 常に​記憶しておいて​欲しい​ことがある。​あなたは​自分の​まわりに​居る​人たちと​すべての​人々の​霊的・​人間的形成に​協力していると​いう​こと。​聖徒の​交わりは​ここまで​届くのである。​しかも、​いつでも、​すなわち働いている​ときも​休んでいる​ときも、​喜んでいる​ときも​心配している​ときも、​仕事場あるいは​町中で​神の​子の​祈りを​していて​心の​平和が​表に​現れている​ときも、​苦しんでいる​― 涙を​流している​ ―ときも、​微笑んでいる​ときにも。

 聖なる​強制と、​盲目的な​暴力あるいは​復讐との​間には、​何の​関係も​ない。

 師キリストは​すでに​仰せに​なっていた。​少なくとも​闇の​子らが​自分たちの​行動に​注ぐのと​同じだけの​努力と​執拗さを、​光の​子らが​良い​行いを​する​ために​注いでくれれば​いいのだが、と。

​ 不平を​言ってはならない。​不平を​鳴らすかわりに、​豊富な善で​悪を​溺れさせる​ために​働きなさい。

 使徒職の​超​自然的な​効果の​妨げと​なるような​愛徳は、​偽りの​愛徳である。

 神は、​堅く​信じる​しっかりした​男女、​つまり​頼りに​できる​人々を​必要と​しておられる。

 この​世や​私たちの​名誉の​ためではなく、​神の​誉れと​神の​栄光の​ため、​神に​仕える​ために​生きる。​これこそ、​私たちの​行いの​動機で​なければならない。

 主イエス・キリストが​教会を​創設されて以来、​母なる​教会は​絶え間なく​迫害を​受けてきた。​おそらく​昔は​公然たる​迫害であったが、​今は​往々に​して​陰険な​方法で​組織的に​迫害が​加えられていると​言えるだろう。​いずれに​せよ、​昨日と​同じく​今日も、​教会への​攻撃は​続いている。

​ 責任を​自覚した​カトリック信者と​して​毎日を​生きる、​重大な​義務の​ある​ことが​分かるだろう。

 次の​処方​箋に​従って​生きなさい。​「私は​自分が​存在する​ことすら​思い出さない。​自分の​ことは​考えない。​そんな​ことを​する​時間が​ないから」。

​ 働き、​そして​仕えるのだ。

 ​私たちの​母・聖マリアの​飛び抜けた​素晴らしさの​根拠と​なっているのは、​真心を​込めて​最後の​最後まで​徹底的に​神のみ​旨を​果たす愛、​そして​神の​お望みの​ところで​喜んで​過ごし、​私心を​すべて​捨てる​こと、​これである。

​ だから、​聖母の​仕草の​うちで​最も​些細な​もので​さえ、​取るに​足りないとは​言えないのである。​倣いなさい。

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