勝利

  聖なる​処女マリアに​倣いなさい。​自らの​無を​はっきり​認めなければ、​創造主の​御目に​美しい​存在とは​見えないからである。

 若い​使徒ヨハネが​十字架の​キリストの​傍らに​留まったのは、​聖母が​使徒を​お引き寄せに​なったからだ、​と​確信している。​私たちの​貴婦人の​愛は​このような​ことまで​お出来に​なるのだ。

 〈本当に​〉イエスの​真似を​しない​限り、​つまり主のように​謙遜に​ならない​限り、​決して​超自然的にも​人間的にも​本物の​喜び・〈本当の​〉朗らかさを​得る​ことは​できない。

 誠実に​真心から​人々の​ために​自らを​捧げると、​その​効果は​抜群で、​神は​喜びに​満ちた​謙遜を​報いと​してお与えに​なる。

 すべてに​おいて​完璧に、​屈辱を​甘受し、​へりくだって​自らを​無にし、​身を​隠し、​姿を​消さなければならない。

 誠実な​謙遜。​侮辱される​ことを​喜びと​する​人の​心を​乱すものは​何もない。​優しい​扱いを​される​値打ちの​ない​ことを​知っているからである。

 私の​イエスよ、​私の​ものは​あなたの​ものです。​なぜなら​あなたの​ものは​私の​もので、​私の​ものは​何もかもあなたに​お任せしてありますから。

 大切でなく、​真理を​曖昧に​しない​事柄で、​神が​要求される​恥の​数々を、​我慢して​堪え忍ぶことができるだろうか?​ できないって?​ それなら、​謙遜の​徳を​実行しているとは​言えない。

 高慢は​愛徳を​衰えさせる。​あなたを​含めすべての​人の​ため、​謙遜の​徳を​主に​願いなさい。​高慢と​いうのは、​間に​合う内に​矯正(きょうせい​)しておかないと、​歳と​共に​ひどくなるからである。

 大人じみた​子供ほど嫌な​ものは​ない。​哀れな​人間 ― 子供 ― が​大きな​態度を​とり、​高慢で​膨れあがり、​自己を​過大評価して​自分だけに​頼るなら、​神に​好感を​持っていただくのは​無理だろう。

 確かに​あなたが​亡びる​可能性は​ある。​あなたは​その​可能性を​確信しているが、​それは​心の​中に​あらゆる​悪の​種が​見つかるからである。

​ しかし、​神のみ​前で​子供に​なれるなら、​そういう​状態で​あればこそ、​かえって​父なる​神と​聖母マリアに​一致する​ことだろう。​そして​聖ヨセフも​あなたの​守護の​天使も、​子供である​あなたを​見て、​見捨てては​おかないだろう。

​ 信じて、​できるだけの​ことを​しなさい。​償いを​捧げ、​愛を​示しなさい。​足りない​ところは​彼らが​補ってくれる。

 謙遜を​実行するのは​なんと​難しい​ことか。​キリスト教の​格言が​教えるように、​「高慢は​人が​死んでから​二十四時間は​生き続ける」からである。

​ したがって、​あなたの魂を​導く​ため神の​特別の​恩恵を​受けた​人が​言うことに​逆らって、​自分が​正しいと​考える​ことが​あれば、​実は​その​とき間違っているのは​あなたであると​確信しなさい。

 子供に​仕え、​子供を​養育する。​愛情を​もって​病人の​世話を​する。

​ 単純素朴な​人々に​分かって​もらうには、​知性を​へりくだらせ謙遜に​ならなければならない。​かわい​そうな​病人を​理解するには、​心を​謙遜にしなければならない。​このように​知性と​体を​跪(​ひざまず​)かせるなら、​人間の​惨めさ、​自分の​惨めさを​通って​イエスのもと​へ​行くのが​容易に​なる。​自他(じた​)の​惨めさを​見れば、​自らを​消滅させて​無とし、​その​無の​土台の​上に​神が​建物を​お建てになるのが​容易に​なるからである。

 決心。​どうしても​必要でない​限り、​自分の​ことは​決して​話さないことにしよう。

 イエスが​お与えに​なる​確信に​感謝しなさい。​それは​頑固さではなく、​神の​光である。​本当に​良い人であるにも​かかわらず悲しむべき役柄を​演じる​ことになった​人々は、​信仰と​いう​土台を​持たず、​砂の​中に​沈んでいく。​それに​対し、​あなたは、​岩の​上に​いるように​しっかり​立っている​ことができる。

​ 信仰の​徳が​要求する​数々の​事柄を、​あなたと​すべての​人が​それぞれの​生活に​おいて​果た​すことができるよう、​主に​お願いしなさい。

 ​私が​今の​私とは​異なる​私であったなら、​もっと​性格を​抑える​ことができれば、​主よ、​あなたにもっと​忠実で​あれば、​あなたは​素晴らしい​方​法で​私たちを​助けてくださるに​違い​ありません。

 父なる神は​あなたの心に​償いを​したいと​いう​強い​望みを​注いでくださった。​その​望みは、​あなたの​個人的な​償いを​イエスの​無限の​功徳に​合わせる​ことに​よって​満たされるだろう。

​   意向を​正しなさい。​キリストに​おいて、​キリストと​共に、​キリストに​よって、​苦しみを​愛しなさい。

 ​自分が​進歩したか​どうか、​また、​どれくらい​進歩したか​分からない。​そんな​ことを​考えて​何の​役に​立つのだろう。

​ 大切なのは、​あなたが​堅忍し、​心が​火となって​燃え​上がり、​もっと​光を​見、​もっと​視野を​広げる​こと、​また、​私たちの​数々の​意向の​ために​精を​出して​働き、​意向が​分からなくても​自分の​意向と​して​受け入れ、​すべての​意向の​ために​祈る​ことである。

 イエスに​申し上げなさい。​「私の​庭には、​瑞々(みずみず)しい​花は​一輪も​ありません。​どの​花も​汚れており、​色も​香りも​褪(あ)せているようです。​かわい​そうな​私。​堆肥の​積もった​床に​顔を​埋めている。​これが​私の​いる​ところなのです」。

​ このように​自らを​低めるなら、​あなたの中で​主が​打ち勝たれ、​あなたは​勝利を​得るだろう。

 あなたの次の​結論は​よく​理解できる。​「はっきり​言って、​私は​エルサレム入城の​とき主の​玉座と​なった​あの​ロバに​なりきれない。​極貧の​屑屋で​さえ​拾わない​汚れに​まみれた​ボロ山の​一部に​なるのが​関の​山」。

​ しかし、​私は​こう​答えた。​「それにも​かかわらず、​主は​あなたを​選ばれた。​ご自分の​道具に​したいと​望まれたのである。​だから、​現に​自らの​惨めさを​目の​当りにしていると​いう​事実こそ、​召し出しを​お与えに​なった​神に​感謝する​理由に​なるはずだ」。

 ​「マニフィカト」​(マリアの​賛歌)に​現れる​マリアの​謙遜で​喜びに​溢れた​賛歌を​耳に​して、​子供のようになる​人や、​自らを​低めて​誠実に​無である​ことを​認める​人に​対する、​主の​限りない​寛大さを​思い出す。

 特別な​ことが​生じた​時は​いつも、​世間が​好運だとか​不運だとか​言うのを​意に​介さず、​感謝の​心を​表す​「テ・デウム」を​唱えて、​神の​優しさを​認める​こと、​これは​神に​とって​真に​喜ばしい​行為である。​すべては​神の​御手から​来るのだから、​たとえのみが​打ち込まれて体に​傷が​つこうとも、​それは​角を​削って​完全な​状態に​近づける​ためであり、​やはり神が​愛してくださっている​証拠なのである。

 人間は​仕事を​する​とき、​適切な​道具を​使おうと​する​ものである。

​ 何世紀も​前に​生きていたと​すれば、​鳥の​羽根を​使って​字を​書いただろうが、​今は​万年筆を​使っている。

​ところで、​神が​何らかの​事業を​完成させようと​思われる​ときは、​不釣り合いな​道具を​お選びに​なる。​私が​幾度となく​言うのを​聞いたと​思うが、​こうなさるのは、​事業が​ご自分の​ものである​ことを​お示しに​なる​ためである。

​ だから、​自らの​惨めさを​よく​知っている​あなたも​私も、​主に​申し上げなければならない。​「たとえ惨めであっても、​私は​あなたが​手に​なさる​神的な​道具である​ことを​認めないわけには​いきません」。

 ​私たちは​できる​限りの​努力を​して、​父なる神、​子なる神、​聖霊なる​神を​称えたいと​思う。

​ あの​優秀な​大学生 ― 二人の​技師と​二人の​建築家 ― が、​ある​学生寮の​家具の​備え付けに​喜んで​従事していたのを​思い出すと​感激する。​教室に​黒板を​置いて、​その​四人の​芸術家が​最初に​書いた​言葉は​〈すべての​栄光は​神に​〉であった。

​ イエスよ、​私は​あなたが​大喜びされた​ことを​知っています。

 人の​子が​来られたのは、​仕えられる​ためではなく​仕える​ためであった​ことを、​どこに​居ても​決して​忘れないで​欲しい。​そして、​誰であろうと​イエスに​付き従いたければ、​これ以外の​行動の​指針を​考えるべきでない​ことを​確信しなければならない。

 神は​ご自分の​子である​私たちに​対して​特別の​権利を​持っておられる。​個人的に​多くの​失敗が​あっても​神の​愛に​応えよ、​と​要求なさる​権利である。​こう​確信すると、​避ける​ことのできない​責任を​感じると​共に、​十分な​安心を​得る​ことができる。​すなわち​私たちは​神が​手に​なさる​道具であり、​神は​日々​この​道具を​頼りに​しておられる。​それゆえ​私たちは、​日々精一杯の​努力を​傾けて​主に​仕えるのである。

 できるだけの​ことを​して​道具が​完全に​準備されているのを、主は​お望みである。​ところであなたは、​このような​良い​準備が​できるよう​努力しなければならない。

 〈アヴェ・マリアの​祈り〉一つ​ひとつ、​聖母への​挨拶の​一つ​ひとつが​愛する​心の​新たな​鼓動である、と​私は​理解している。

 ​私たちの​生活、​つまり​キリスト者の​生活は、​平凡な​ものでなければならない。​すなわち、​いつもの​義務を​毎日きちんと​果たす努力を​する​こと、​神が​お与えに​なった​使命を、​各瞬間毎の​小さな​務めを​果た​しつつ、​この​世界で​実現させる​ことである。

​ 果た​すべく​努力する、と​言う方が​良いだろう。​なぜなら、​時には​果たせない​ことが​あるから。​そして​夜が​訪れ、​良心の​糾明を​する​とき、​主に​申し上げなければならないだろうから。​「あなたに​徳を​お捧げする​ことは​できません。​今日​お捧げできるのは​失敗だけです。​しかし、​あなたが​恩恵を​下されば、​私は​勝利者に​なれるでしょう」。

 ​私が​心から​望んでいる​こと、​それは​罪を​犯したにも​かかわらず​(もう​決して​イエスを​侮辱しないようにしなさい)、​あなたが​〈常に​神のみ​旨を​愛すると​いう​幸いな​生き方​〉の​できるよう、​神が​慈しみを​注いで​助けてくださる​ことである。

 神に​仕える​ため役に​立たない​仕事は​ない。​すべてが​大切なのだ。

​ 仕事の​値打ちは、​それを​する​人の​霊的な​レベルに​よって​決まる。

 神は​被造物である​人間の​些細な​事柄にまで​関心を​お持ちである、と​いう​絶対​確実な​真理を​知れば、​喜びに​満たされるのではないだろうか。

 本当に​イエスの​ものになりたいと​いう​望みを​再び​表明しなさい。​「イエスよ、​私を​お助けください。​本当に​あなたの​ものに​してください。​誰も​気づかない​小さな​ことを​果たす努力に​よって、​私を​燃え​上がらせ、​焼き尽くしてください」と。

 聖なる​ロザリオ。​聖母の​生涯の​喜びと​苦しみと​栄えの​神秘は、​天使と​天国の​諸聖人、​そして​この​世で​御母を​愛する​人々が​織り上げ、​絶え間なく​繰り返す賛美の​冠である。

​日々​この​聖なる​信心を​実行し、​広めなさい。

 ​私たちは​洗礼に​よって​ラテン語の​〈フィデーレス〉すなわち​(忠実な​人)と​なる。​これは​〈サンクティ〉すなわち​(聖人)と​いう​もう​一つの​言葉と​共に、​キリストに​従った​初代の​信者が​互いの​呼び名と​して​使っていた​言葉である。​そして、​この​〈フィデーレス〉​(忠実な​人)と​いう​表現は、​今も​色々な国の​言葉で​教会の​(信者)を​表す​言葉と​して​用いられている。

​ よく​考えてみなさい。

 寛大さと​いう​点で​神は​決して​引けを​取られない。​だから、​神は​ご自分に​従う​人に​忠実と​いう​賜物を​お恵みに​なる​ことを​確信して​おきなさい。

 自分に​対して​恐れずに​厳しく​要求しなさい。​目立たない​生活を​営みながら​そうしている​人が​大勢いる。​主のみが​際立つためである。

​ 神の​ものになりきろうと​望んだ​あの​人が、​当時ご公現の​八日間の​間に​祝っていた​聖家族の​祝日に​考えたのと​同じように、​あなたも​私も​反応したい​ものである。

​ ​「小さな​十字架は​いつも​ある。​昨日の​十字架は​苦しくて​涙が​出る​ほどだったが、​今日に​なって​考えると、​私の​父であり主(あるじ)である​聖ヨセフと​私の​聖母マリアが​〈ご自分の​子〉に​クリスマスの​プレゼントを​お忘れに​ならなかった​ことが​分かった。​この​プレゼントは、​恩恵に​応えなかった​私の​イエスに​対する​恩知らずな​態度と、​私を​ご自分の​道具にしようと​望まれた​神の​至聖なる​み旨に​卑怯な​振る​舞いで​反抗した​私の​大きな​過ちを​思い知る​ための​光であったのだ」。

 墓に​到着した​聖なる​婦人たちは、​石が​わきへ​転が​してあるのを​見て​喜んだ。

​いつも​こうなるのだ。​な​すべきことを​果たす決心さえ​すれば、​困難は​簡単に​克服できるのである。

 従い方を​学ばない​限り、​効果的な​働きは​できない。

​ これを​確信して​ほしい。

 寒くても​暑くても、​元気であろうが​疲れていようが、​若かろうが​あまり​若くなかろうが、​受けた​命令に​従うことに​かけては、​誰にも​引けを​取ってはならない。

​ 〈命令に​従う​ことのできない​人〉は、​決して​命令の​仕方を​身に​つける​ことができないだろう。

 十二の​ことのできる​人が​四しかしていなくても​満足するような​(霊的)​指導者は、​名だたる​愚鈍と​言われても​仕方ない。

 従うべき​とき、​あるいは​命令すべき​ときは、​いつも​深い​愛を​込めなければならない。

 あなたの​祈りで​助けて​ほしいのだが、​使徒聖パウロが​要求するように、​聖なる​教会の​中で​私たち全員が​一つの​体の​肢体である​ことを​実感したいと​思う。​そして、​無関心な​態度を​取らず、​皆が、​唯一の、​聖なる、​普遍の、​使徒的教会、​私たちの​母なる​ローマ教会の​喜びと​苦しみと​発展を​本当に​自分の​ものと​して​生きればと​思う。

​ 互いに​一つに​なり、​全員が​キリストと​一つに​なりたい​ものだ。

 子よ、​教会に​おいて​分裂とは、​すなわち死である​ことを​確信しなさい。

 初代教会が​そうであったように、​私たちの​母である​聖なる​教会に​おいて、​皆が​心を​一つに​するよう、​神に​お願いして​欲しい。​それは​「信じた​人々の​群れは​心も​思いも​一つにし」ていたと​いう​聖書の​言葉が​世の​終わりまで​実現し続ける​ためである。

​ 私は​真剣に​話している。​この​聖なる​一致が、​あなたが​原因と​なって​損なわれる​ことがないよう、​願う。​祈りの​中で​よく​考えなさい。

 ローマ教皇への​忠実には、​明白に​定められた​義務が​含まれている。​すなわち、​まずカトリック信者が​回勅その​他の​文書に​表明された​教皇の​考えを​知る​こと、​そして​すべての​カトリック信者が、​教皇の​教え​(教導)に​注目し、​各自の​生活を​その​教えに​合わせるよう​自らできる​限りの​努力を​傾ける​ことである。

 主が​私たちに​言葉の​賜物を​お恵みに​なるよう、​毎日、​心から​お願いしている。​ここで​言う​言葉の​賜物とは、​たくさんの​外国語を​知る​ことではなく、​聞き手の​能力に​合わせて​話すための​賜物の​ことである。

​ 〈大衆が​分かるよう単純で​愚かな​話し方を​する​こと〉ではない。​誰もが​理解できるよう、​キリスト教的で​知恵に​満ちた​話し方を​する​ことである。

​ このような​賜物を​私の​子供たちに​お与えくださる​よう、​主と​聖母に​お願いしている。

 少数の​人たちの​悪意と​大勢の​無知、​これこそ神と​教会の​敵である。

​ 悪意の​人たちを​うろたえさせ、​無知の​人の​知恵を​照らそう。​神の​助けと​私たちの​努力で​世界を​救うのである。

 高潔で​正真正銘の​キリスト教的良心を​備え、​首尾一貫した​生活を​送り、​科学と​いう​武器を​人類と​教会の​ために​使う​人が​知的活動の​あらゆる​分野で​活躍するよう、​私たちは​できる​限り​尽力しなければならない。

​ イエスが​地上に​来られた​ときと​同じように、​キリストと​キリストに​従う​人々を​迫害する​ため、​科学の​知識を​悪用するだけでなく、​果ては​捏造(ねつぞう​)する​ことさえ​厭わない​ヘロデのような​人間が​この​世から​消える​ことは​ないからである。

​ 前途に​横たわる​仕事の​なんと​大きいことか。

 あなたの​仕事は​すべて​霊魂に​関わる​ものであるべきだが、​とにかく​霊魂に​関する​仕事に​携わる​ときは、​信仰と​希望と​愛に​満ちていなければならない。​困難は​すべて​克服されるだろう。

​ この​真理を​確信させる​ため、​詩編作者は​次のように​書き記した。​「主よ、​あなたは​彼らを​笑い、​国々を​すべて​嘲笑​(​あ​ざわら​)っておられます」、​あなたは​彼らを​無に​帰してしまわれます。

​ これは、​「これに​対抗できない」、​すなわち神の​敵も​これに​打ち​勝つことは​できない、​教会と​神の​道具と​して​教会に​仕える​人々に​対しては​誰も​何も​できないと​いう​言葉を​確認してくれる。

 ​私たちの​母なる​教会は、​堂々と​愛を​広めつつ、​ローマから​周辺へと​世界中に​福音の​種を​蒔いている。

​ あなたも​この​仕事を​世界中に​広める​ため協力するに​あたり、​全地が​ひとつの​群れと​なり、​一人の​牧者のもとで、​一つの​使徒職を​するよう、​〈周辺〉を​教皇のもとに​連れていきなさい。

 〈​私たちは​キリストが​王に​なるのを​望む〉、​キリストの​支配を​望む。​〈すべては​神の​栄光の​ため〉である。

​ キリストの​武器を​もって​戦い、​そして​勝利を​得ると​いう​この​理想は、​祈りと​犠牲、​信仰と​愛に​よってしか​実現させる​ことができない。

​ だから​祈り、​信じ、​苦しみ、​愛するのだ。

 教会の​日々の​仕事は、​主に​捧げる​素晴らしい​織物である。​洗礼を​受けた​人、​皆が​教会であるから。​私たちが​忠実を​保ちすべてを​捧げて​義務を​果たすなら、​美しく​完全で​見事な​織物を​織る​ことができるだろう。​ しかし、​あちこちの​糸が​ほつれると、​美しい​織物は​切(き)れ切(ぎ)れの​ボロに​なるだろう。

 なぜ​兄弟的説諭を​する​決心を​しないのか?​ 少なくとも​最初の​うちは​へりくだるのが​難しいから、​説諭を​受けた​人は​苦しむ。​ところで、​説諭を​する方は、​いつに​なっても​辛い​ものだ。​これは​誰もが​知っている。

​人を​助ける​ため、​祈りと​良い​模範に​次いで​役に​立つ方​法は、​兄弟的説諭の​実行である。

 教会に​導くに​あたって、​神が​あなたに​寄せられた​信頼を​思えば、​大勢の​人が​歳を​とるに​つれて​身に​つける​慎重と​落ち着き、​剛毅、​自然的・超​自然的賢慮の​徳を​今から​備えていなければならない​ことが​分かるだろう。

​ カトリック要理で​学んだように、​キリスト者とは​イエス・キリストを​信じる​人間である​ことを​忘れてはならない。

 強くなりたいのか?​ 第一に、​自分の​弱さを​知りなさい。​次いで、​キリストを​信頼しなさい。​彼は​父であり兄弟、​先生であって、​勝利を​得る​ための​手段、​すなわち秘跡を​与え、​私たちを​強めてくださった。​秘跡を​活用しなさい。

 聖なる​ミサの​典礼に​浸りきりたい、と心を​打ち明けた​ときの​あなたの​気持ちが、​私には​よく​理解できた。

 聖なる​典礼への​信心には​なんと​大きな​値打ちが​ある​ことか。

​ 数日前に​ある​人が、​最近​死去した​一人の​模範的な​司祭に​ついて、​本当に​聖人だったと​言うのを​聞いたが、​私は​驚かなかった。

​ 「その方の​ことは​よく​ご存じだったのですか」と​尋ねると、​その​人は​次のように​答えたからである。

​ ​「いいえ。​けれども、​その​司祭が​ごミサを​たてておられるのを​一度​拝見した​ことがあるのです」。

 キリスト者と​称する​あなたは、​教会の​聖なる​典礼を​〈生き〉なければならない。​そして​司祭たち、​特に​新司祭の​ために​祈るべく​定められた​日々と​叙階の​知らせを​聞いた​とき、​心を​込めて​祈り、​犠牲を​捧げなければならない。

 祈りと​償いと​行いを​「皆が​一つとなるように」と​いう​目的の​ために​捧げなさい。​すべての​キリスト者が​一つの​意志、​一つの​心、​一つの​精神を​持つため、​また、​〈皆が​ペトロと​共に​マリアを​通って​イエスヘ〉、​すなわち、​私たち皆が​教皇と​一致し、​マリアを​通って​イエスのもと​へ​行く​ためである。

 わが​子よ、​あなたは、​「満足していただくには​どう​すれば​よいのでしょうか」と​尋ねる。

​ 主が​あなたに​満足しておいでに​なるなら、​私も​満足なのだ。​そして​主が​満足しておいでに​なるか​どうかは、​あなたの​心が​平和と​喜びに​満たされているか​どうかに​よって​分かるだろう。

 神の​人である​ことの​明らかな​証拠は​心の​平和である。​神の​人なら、​自ら〈平和〉を​保っており、​接する​人たちに​〈平和〉を​与える。

 哀れにも​〈憎しみを​もつ​人〉が​石を​投げつけるのなら、​あなたも​投げ返しなさい。​ただし、​〈アヴェ・マリアの​祈り〉と​いう​石を。

 万一あなたの​使徒職が​実を​結ば​ないように​思えても、​心配するには​及ばない。​聖性に​関する​種蒔きなら、​無駄には​ならない。​ほかの​人が​実りを​採りいれるだろう。

 祈りに​おいて​あまり光を​得る​ことができず、​祈りが​煩わしく​無味乾燥であっても、​常に​新しく​確かな​洞察力を​もって、​信仰生活​(信心生活)の​細かな​こと​すべてに​おいて​堅忍する​必要を​考えなければならない。

 あなたは​使徒職の​困難を​前に​して次のように​祈り、​勇気づいた。​「主よ、​あなたは​いつもの​あなたです。​恩恵に​応え、​あなたの名に​おいて​偉大な​奇跡、​本物の​不思議を​行った​人たちの​信仰を​私に​お与えください」。​そして、​「そうしてくださると​信じています。​しかし​同時に、​あなたは​人々が​願うのを​待っておられる​こと、​私たちがあなたを​探し求め、​聖心の​扉を​強く​叩く​よう​お望みである​ことを​知っています」と​祈りを​結んだ。

​ 最後に​あなたは​謙遜で​信頼しきった​祈りを​堅忍して​続ける​決心を​新たに​したのだった。

 苦しみの​最中にも、​勝利の​ときにも、​繰り返しなさい。​「主よ、​私の​手を​放さないでください。​放っておかないでください。​未熟な​子供を​助けるように​私を​お助けください。​いつも​手を​取ってお導きください」。

 ​「大水も​愛を​消すことは​できない」、​逆巻くが​ごとき​洪水も​愛徳の​火を​消し止める​ことは​できない。​聖書の​この​箇所の​解釈を​二つ​提供しよう。​一つ、​あなたの​無数の​罪も、​深い​痛悔の​念が​あるので、​決してあなたを​私たちの​神の​愛から​離す​ことはない。​二つ、​ひょっと​すれば​苦しみのもとになっている​無理解や​困難の​大水も、​あなたの​使徒職を​中断させるはずは​ない。

 完成させよう、​最後まで​やり通そう。​子よ、​「最後まで​耐え忍ぶ者は​救われる」のだ。

​ 神の​子らには​手段が​ある。​あなたにも。​私たちは​必ず​乗り切る​ことができる。​私たちを​強めてくださる​御方に​おいて、​すべてが​可能なの​だから。

​ 神と​共に​すれば、​できない​ことはない。​常に​克服できるのである。

 近い​将来が​不安材料だらけに​見える​ことが​時々​あるが、​そのような​ときは​超自然的な​見方を​失っているのである。

​ だから​子よ、​その​ときこそ​信仰が、​そして​今以上の​行いが​必要なのだ。​そう​すれば​きっと、​父なる​神が​いつも​問題を​解決してくださる。

 通常の​摂理も​絶え間ない​奇跡であるが、​どうしても​必要な​ときには、​神が​特別の​手段も​講じてくださる。

 キリスト者の​楽観とは、​甘ったる​い​ものでも、​何もかも​上手く​いくだろうと​いう​人間的な​確信でもない。

​ それは​自らが​自由であると​いう​自覚と、​恩恵の​確実さとを​根拠に​した​楽観である。​すなわち自らに​厳しく​要求し、​各瞬間の​神の​呼びかけに​応える​努力を​するよう導く​楽観の​ことである。

 主の​勝利、​すなわち復活の​日は​決定的な​日に​なった。​官権が​派遣した​兵士は​どこに​いるのだろうか。​墓を​閉じた​石の​封印は​どこへ​行ったのか。​師に​刑を​宣告した​連中は​どこに​いるのか。​イエスを​十字架の​磔に​処した​人々は​どこに​いるのだろうか。​哀れで​惨めな​人たちは、​主の​凱旋を​見て、​逃げ去った。

​ 大きな​希望を​持ちなさい。​イエス・キリストは​常に​勝利を​得られるのだから。

 マリアを​探し求めるなら、​〈必ず​〉イエスに​出会い、​神の​聖心の​中に​ある​ことを​常に​より​いっそう​深く​学ぶことができるだろう。

 使徒職を​しようと​する​ときには、​神を​探し求めていた​あの​人の​言葉を​自分に​当てはめなさい。​「今日、​私は​司祭の​ための​黙想会の​説教を​始める。​私たちが​豊かな​実りを​得る​ことができればと​思う。​しかし、​まず​私自身が…」。

​ 後に​なってから、​彼は​言った。​「黙想会が​始まって​数日が​経った。​参加者は​百二十人。​主が​私たちの​霊魂内で​効果的な​働きを​してくださると​期待している」。

 子よ、​あなたは​謙遜、​従順、​忠実に​なり、​神の​精神で​満たされる​値打ちが​ある。​今あなたが​居る​ところ、​仕事場から、​この​世界に​住むすべての​人々に​神の​精神を​もたら​すためである。

 戦争中は、​弾薬や​食料や​薬品を​兵士たちに​供給する​人たちが​必要である。​彼らは​見た​ところ​戦いに​参加していないように​見えるが、​彼らが​いないと、​敵と​対決する​兵隊の​勇気も​大して​役に​立たない​ことだろう。

​大勢の​人の​祈りと​犠牲が​なければ、​本物の​使徒職活動は​あり得ない。

 奇跡を​起こす力。​あなたの中で​キリストが​お働きに​なるのを​認めれば、​大勢の​死人やすでに​腐っている​人たちさえ​蘇らせる​ことができるだろう。

​ 福音書に​よれば、​その頃、​病に​苦しむ​人々が、​お通りに​なる主を​呼び求めた。​キリストは​今も、​キリスト者と​しての​あなたの​生活を​使って​人々の​間を​通っておられる。​あなたが​キリストに​手を​お貸しすれば、​大勢の​人々が​主を​知り、​主に​呼びかけ、​助けを​乞う​ことだろう。​そして、​彼らの​目は​開かれ、​素晴らしい​恩恵の​光を​見る​ことだろう。

 あなたは​勝手な​ことばかりしている。​だから​働いても​実を​結ば​ないのである。

​ 従いなさい。​素直に​なりなさい。​機械の​歯車は​それぞれ自分の​場に​納まっていなければならない。​(そうでないと、​機械が​止まったり​部品が​変形したりして​何も​作れないか、​ほんの​わずかしか​作れない​ことだろう)。​それと​同じように、​男性も​女性も​自分の​活動の​場から​離れてしまえば、​使徒職の​道具と​なる​どころか、​かえって​邪魔に​なってしまう。

 使徒の​目的は​ただ​一つである。​主の​働きの​邪魔を​しない​こと、​いつでも​使っていただける​よう​自分を​準備しておく​こと。

 最初の​十二人の​使徒たちも、​福音を​宣(の​)べ伝えに​行った​所では​外国人であり、​キリストの​教えに​真っ向から​対立する​考えを​基礎に​世界を​打ち立て​ようとする​人々と​ぶつかった。

​ 考えても​みなさい。​彼らは​このような​逆境を​ものとも​せず、​贖いに​関する​神の​メッセージの​管理者である​ことを​自覚していたのだ。​そして​使徒パウロは、​「福音を​告げ知らせないなら、​わたしは​不幸なのです」と​叫んでいる。

 ​私たちの​生活が​贖いの​効果、​永遠の​効果を​上げるか​どうかは、​謙遜に​自らを​隠し、​人々が​主を​見出す​ことのできるように​するか​どうかに​かかっている。

 使徒職を​する​神の​子らは、​光源を​見せないが​世界を​明るく​照らす強力な​発電所と​なるべきである。

 イエスは​「あなたが​たに​耳を​傾ける​者は、​わたしに​耳を​傾け」ると​仰せに​なる。

​ それでもあなたは​自分の​言葉で​人を​説得できるなどと、​未だに​信じているのだろうか。​さらに、​聖霊は​ご計画の​ため、​まったく​役立たずの​道具を​お使いに​なることもあると​いう​点も​忘れないで​ほしい。

 聖アンブロジオの​言葉は、​見事に​神の​子らに​当てはまる。​彼は、​イエスの​凱旋の​ときに​仕えた​ロバ、​母ロバに​繋がれた​子ロバに​ついて​説明している。​「主の​命令が​なければ、​ロバを​解き​放つことができなかった。​そして​使徒たちの​手が​それを​解き放った。​同じような​ことの​ため、​ある​種の​生き方、​特別の​恩恵が​必要と​なる。​あなたも、​囚われの​身に​ある​人々を​自由に​する​ため​使徒に​なりなさい」。

​ 同じ​箇所を​もう​一度​説明させて​ほしい。​私たちは​キリストの​命令に​より​何度も​人々を​束縛から​解き放たなければならない​ことだろう。​主は​ご自分の​凱旋の​ため​彼らを​必要と​しておられるからである。​私たちの​手、​私たちの​行い、​私たちの​生活が、​使徒の​それでありますように。​そうなれば、​繋がれた​人々の​鎖を​断ち切る​ため、​神は​私たちに​使徒と​なる​恩恵を​お与えに​なるだろう。

 ​私たちの​間を​お通りに​なる​イエスの​力を​自分の​ものと​考える​ことは​できない。​主は​お通りに​なる。​そして​私たち皆が​主の​傍らに​集い、​心を​一つにし、​一つの​考えを​持ち、​よい​キリスト者に​なりたいと​いう​唯一の​望みを​持つなら、​主が​人々を​お変えに​なる。​あなたでも​私でもなく、​主が​そうなさる。​キリストが​お通りに​なるのである。

​ それだけでなく、​キリストは​あなたの心、​私の​心、​私たちの​心の​中に、​そして​聖櫃に​残ってくださる。

​ お通りに​なるのは​イエス、​お残りに​なるのも​イエスである。​あなたの内に、​私の​内に、​私たち一人​ひとりの​内に​留まってくださるのである。

 主は​私たちを​贖いの​協力者にしようとお望みである。

​ だから、​私たちに​この​素晴らしい​事実を​理解させる​ため、​福音史家に​働きかけて​たくさんの​素晴らしい​奇跡を​語らせたのである。​主は​お望みに​さえなれば、​どこからでも​パンを​取り出すことが​おできになったが、​そうなさらず、​人間の​協力を​求められた。​一人の​子供、​少年、​わずかの​パンと​数匹の​魚を​わざと​必要と​された。

​ あなたと​私を​必要となさる​御方は、​ほかなら​ぬ神である。​そうと​分かれば、​是非とも​物借しみしない心で​神の​恩恵に​応えなければならない。

 あなたが​使徒たちのように​ささやかな​手助けを​するだけで、​主は​奇跡を​行い、​パンを​増やし、​人々の​意志を​変え、​およそ​暗い​知性に​光を​与え、​かつて​高潔な​心など​持った​ことの​ない​人に​特別の​恩恵を​注いで​高潔な​人間に​変えてくださる。

​ あなたが​持っている​もので​主の​お手伝いを​すれば、​これら​すべて、​そして​それ以上の​ことを​実現させてくださるのである。

 イエスは​死去された。​死者となられた。​あの​聖なる​婦人たちは​何も​期待していなかった。​主が​ひどい​扱いを​受け、​十字架の​磔に​処されるのを​目の​当たりに​した​後だった。​あの​苦しい​受難の​荒々しさは​脳裏を​去らなかった。

​ 兵士たちが墓の​見張りに​立っている​ことは​知っていた。​墓には​完全に​封が​なされている​ことも​承知していた。​非常に​大きな​石だったので、​誰が​入口の​石を​取り除いてくれるだろうかと​思案していた。​それにも​かかわらず、​婦人たちは​主の​お伴(とも​)を​する​ため墓を​目指す。

​ご覧。​大小数々の​困難は​すぐに​目につく。​しかし​愛が​あれば、​障害を​前に​しても​たじろぐ​ことなく、​確たる​決意で​大胆に​勇敢に​立ち向かう​ことができるのだ。​この​婦人たちの​気力、​勇気、​大胆さを​見ていると、​我ながら​恥ずかしいと​白状せざるを​得ないのではないだろうか。

 母マリアは、​あなたを​イエスの​愛へと​導いてくださるだろう。​そこであなたは​〈喜びと​平和〉に​満たされるだろう。​ただし、​信じ、​愛し、​苦しむため、​常に​〈導かれて〉歩みを​進めなければならない。​一人で​歩むなら、​倒れて泥に​まみれるからである。

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