戦い

 神の​選びは​個人の​聖性を​意味すると​同時に、​聖性を​要求する。

 主の​呼びかけに​応えるなら、​あなたの​一生、​哀れな​生涯も、​人類の​歴史に​深くて​広い跡、​光り輝く​豊かな跡、​永遠かつ神的な​跡を​残すことだろう。

 毎日、​聖人に​なる​義務に​ついて​考えなさい。​聖人とは、​変わった​ことを​する​人の​ことではない。​聖人とは​内的生活で​戦う​人、​義務を​英雄的に​最後まで​完全に​果た​すため戦う​人の​ことである。

 聖性とは​偉大な​仕事を​やり遂げる​ことではない。​聖性とは、​超自然的な​生活の​火が​消えてしまわないよう戦う​ことである。​聖性とは、​地位の​高い​・​低いを​問わず、​神が​お与えに​なった​ところで​神に​仕えつつ、​と​ことんまで​自らを​燃焼させる​ことである。

 主は​「あなたたちを​愛している」と​仰せに​なるに​留まらず、​ご自分の​業と​全生涯を​かけて​その​愛を​示してくださった。​ところで、​あなたは​どう​する​つもりなのか。

 主を​愛しているなら、​人々を​主のもと​へ​導くと​いう​幸いな​責任の​重さを​感じて​〈当然〉である。

 神の​愛に​よって​生きようと​望む人に​とって、​中庸とは、​ほんの​わずか、​けち、​卑しむべき打算の​ことである。

 あなたが​キリスト者と​して​歩むための​処方​箋、​それは​愛を​込めて​義務を​果た​しつつ、​祈り、​償い、​休みなく​働く​ことである。

 ​私の​神よ、​愛し方を​教えてください。​神よ、​祈り方を​お教えください。

 信仰と​希望と​愛を​神に​願わなければならないが、​この​願いには​謙遜と​辛抱強い​祈り、​正直で​誠実な​振る​舞いと、​清い​生き方が​伴っていなければならない。

 ​「聖なる​熱意を​溢れんばかりに​心に​注いでくださったことに​対して、​どう​お礼を​言って​いいか​分かりません」と、​あなたは​言った。

​ 私は​慌(あわ)てて、​「あなたを​動かす​その​熱意を​与えたのは​私ではなく、​聖霊ですよ」と​答えた。

​ 聖霊を​愛し、​聖霊と​付き合いなさい。​そう​すれば、​聖霊を​もっと、​いっそう​よく​愛するようになり、​あなたが​内的生活を​営むよう心に​住まわれるのは​聖霊であるのを​知って、​感謝する​ことだろう。

 祭壇上の​聖なる​犠牲が​あなたの​内的生活の​中心と​なり源と​なり、​一日​全体が​礼拝の​行為と​なるよう​戦いなさい。​すなわち丸一日が​与った​ミサ聖祭の​延長、​及び次の​ミサの​準備と​なり、​それが​射祷や聖体訪問、​専門職と​家族生活の​奉献と​なって​溢れ出るように。

 ​私たちの​貴婦人、​清き処女、​汚れなき御方、​主を​この​世にも​たらした​聖母を​称える​歌を​歌って、​ご聖体の​イエスに​感謝するよう​努めなさい。

​ そして、​子供のように​思い切って​大胆に、​「私の​麗しい​愛よ、​あなたを​世にも​たらした​御母は​祝せられますように」と、​イエスに​申し上げなさい。

​ 確かに​主を​お喜ばせする​ことに​なるから、​きっと​心に​もっと​大きな​愛を​注いでくださるだろう。

 福音史家聖ルカに​よると、​イエスは​祈っておられた。​イエスは​どのような​祈りを​なさったのだろうか。

​ 次の​場面を​じっくりと​眺めなさい。​弟子たちがイエスと​親しく​接している。​主は​弟子たちに、​会話を​通して、​また​行いに​よって、​祈り方と​神の​驚くべき慈しみの​真理を​お教えに​なる。​私たちは​神の​子であり、​子が​御父に​向かって​話しかけるように​神とお話しする​ことができる、​とお教えに​なるのである。

 毎日、​キリストの​傍らで​仕事を​始め、​キリストを​探し求める​大勢の​人々の​世話を​するに​あたり、​確信しておくべきことがある。​それは、​主に​頼る​以外に​道は​ないと​いう​ことである。

​ 祈りに​おいて、​祈りに​よって​のみ、​人々に​仕える​ことを​知るのである。

 祈りとは、​美辞麗句を​連ねた​演説を​したり、​雄弁を​ふるったり、​慰めに​なる​言葉を​並べたりする​ことではない。​これを​忘れてはならない。

​ 祈りとは、​ある​時には​主や​その​御母の​ご絵や​ご像に​視線を​向け、​また​時には​祈願の​言葉を​述べ、​また​ある​時には​良い​行いや​忠実の​実りを​捧げる​ことである。

​ 私たちは、​見張りに​立つ兵士のように、​主なる​神の​〈お住い​〉の​入口に​居なければならない。​これこそ​祈りである。​あるいは、​主人の​足元に​身を​置く​子犬のように​する​ことである。

​ 次のように​申し上げたら​良いだろう。​「主よ、​あなたの​忠実な​犬のように、​いやもっと​良いのは、​自分を​かわいがってくれる​人を​蹴ったりしない​子ロバのように、​私は​ここに​おります」と。

 ​私たちは​皆〈キリスト自身〉に​ならなければならない。​聖パウロは​「主イエス・キリストを​着よ」と、​神の​御名(みな​)に​おいて​命じている。

​ 私たちの​一人​ひとりが、​そしてあなたが、​使徒の​言う​衣服を​どう​すれば​身に​着ける​ことができるかを​考えなければならない。​一人​ひとりが​主と​個人的に​休みなく​話し合うべきなのである。

 あなたの​祈りが​言葉だけに​留まってはならない。​実際に​現実と​結果に​現れる​祈りでなければならない。

 祈る​ことこそ、​私たちを​苦しめる​すべての​悪を​食い​止める道である。

 ​一つ​勧めたいことがある。​飽きずに​幾度でも​人々に​繰り返したい​勧めである。​私たちの​母で​あり神の​御母である​御方を​無我夢中に​なって​愛しなさい。

 英雄的な​行為や​聖性、​大胆さは、​霊的に​絶えず​準備を​していなければ​実現できない。​人々に​与える​ことのできるのは、​自分が​持っている​ものだけである。​そして​人々に​神を​与える​つもりなら、​あなた​自身が​神と​付き合い、​神の​生命を​生き、​神に​仕えていなければならない。

 しっかり頭と​心に​刻みつける​ことのできるよう、​重ねて​言っておこう。​信心、​信心、​信心が​大切だ、と。​万一、​愛徳に​背く​行いが​あると​すれば、​それは​性格が​悪いからではなく、​内的生活の​不足が​原因なのである。

 あなたが​神の​良い子であるなら、​幼子が​起きあがる​ときや​眠りに​つく​とき​母親が​傍(そば)に​いなければならないのと​同じように、​毎日の​最初と​最後の​思いを​神に​捧げる​ことだろう。

 信心の​業を​するに​際して、​たとえ疲れていても​無味乾燥と​思えても、​堅固な​態度を​保ち、​自らに​強く​要求しなければならない。​堅忍しなさい。​信心業の​一つ​ひとつは、​雪が​積もっても​常に​安全な​道を​示すしるし、​山道に​立ててある​赤く​塗った​棒のような​ものである。

 各瞬間毎に​神の​要求に​応える​努力を​しなさい。​神への​愛を​行いに​表す意欲を​持ちなさい。​小さな​行いで​いい。​しかし、​たった​一つであっても、​無視してはならない。

 内的生活は、​信心の​業や​行為を、​愛を​込めて​果た​すための​戦いを​続ける​ことに​よって​強くなる。​しかし、​果たすと​いうより​〈生きる​〉のでなければならない。​神の​子である​私たちは​愛の​道を​歩んでいるからである。

 あなたの​清く​純粋な​心の​奥に​おいでになる神、​忠実で​あれば​霊魂の​奥に​居てくださる​神を​探し求めなさい。​そして​神との​その​親しさを​決して​失わないようにしなさい。

​ 万一、​いつか、​どのように​話しかけ、​何を​申し上げて​よいのか分から​なくなった​ときや、​あなたの内に​おいでになる​イエスを​捜す勇気が​なくなった​ときは、​〈すべてが​美しく​〉、​まったく​清く、​素晴らしい​マリアに​助けを​求め、​「婦人よ、​私たちの​御母よ、​主は​あなたが​手ずから​神を​お世話するよう望まれました。​どうか​私に、​そして​すべての​人に、​どのように​して​御子と​接すれば​いいのか​お教えください」と、​心を​打ち明けなさい。

 ​日々の​小さな​ことを​完全に​果たすと​いう​英雄的行いの​大切さを、​人々に​説き、​勧めなさい。​そのような​行為の​一つ​ひとつに​世の​救いが​かかっている​つもりで​果たしなさい、と。

 信心生活を​しているなら、​神の​子と​して、​キリスト者と​しての​身分に​ふさわしい​徳が​実行できるようになるだろう。

​それらの​徳と​同時に、​些細な​ことのように​見えるが​実は​優れた​一連の​霊的価値を​身に​つけるだろう。​それは​道を​歩みつつ拾い​集め、​人々の​役に​立てる​ため神の​玉座に​捧げる​宝石類の​こと、​すなわち、​単純さ、​喜び、​忠誠、​平和、​小さな​放棄、​誰にも​気づかれない​奉仕、​義務の​忠実な​遂行、​親切などの​ことである。

 神に​栄光を​帰し、​神を​愛し、​神の​使徒職を​する​以外の​義務を​作り出さないようにしなさい。

 主は​この​世の​直(ただ)中(なか)で​生きる​キリスト者と​しての​道を​はっきり見せてくださった。​しかし​あなたは、​正直言えば​楽を​したいからだと​認めながらも、​見知らぬ人と​なり誰にも​知られず、​どこかの​隅っこで​仕事を​する、​つまり神と​あなただけの​幸せな​生き方を​する。​それを​思うと​羨ましい​限りだ、​と​私に​言っていた。

​今は​日本での​宣教以外に、​苦しみの​多い​隠れた​生活の​ことも​考えている。​ところで、​他の​聖なる​自然の​義務から​解放されて​自分の​召し出しでもないのに​どこかの​修道院に​〈身を​隠して​〉みても、​幸せに​なれる​わけは​ないだろう。​神のみ​旨でなく​あなた​自身の​意志を​果たすわけだから、​平安を​得る​ことは​できないだろう。

​そうして、​あなたの​召し出しは​違った​名を​持つことになる。​すなわち遺棄である。​神の​霊感に​よらず、​近づいて​来る​戦いを​人間的に​考えて​恐れた​結果なのである。​だが、​それでは​駄目だ。

 清い​生活を​し、​聖なる​純潔を​実行するのが​大変むずかしくなっているが、​私たち全員が​この​危険に​晒(さら​)されている。​霊的生活や​仕事が​ブルジョアのようになる​危険、​すなわち婚期を​過ぎた​独り者のように​感じて、​自己本位な​人間・愛なき人間に​なる​危険である。​ただし、​これらは​結婚​生活への​召し出しを​受けた​人たちに​通じる​危険でもある。

​このような​危険に​対しては、​一切譲歩せず、​徹底的に​戦いなさい。

 ​私たちは​常に​この​ロバ、​すなわち体を​背負っているから、​官能に​打ち勝とうと​すれば​毎日、​寛大に​小さな​犠牲を、​時には​大きな​犠牲を​実行し、​決して​目を​離さずに​あなたを​見つめて​おいでになる​神の​現存を​保たなければならない。

 貞潔で​いる​ためには、​罪や​罪の​機会を​避けるだけではいけない。​貞潔とは​決して​冷たく​数学的な​否定ではないのである。

​ 貞潔とは​徳であるから、​当然の​こと、​成長させ、​完成させるべきである。

​ したがって、​自分の​身分に​合った​禁欲​(節制)を​実行するだけでなく、​英雄的に​貞潔の​徳を​実行しなければならない。

 〈キリストの​良き香り〉とは​私たちの​清い​生活の​香りでも​あり、​繰り返すが​それぞれの​身分に​合った​貞潔の​香り、​喜びに​満ちた​肯定と​しての​聖なる​純潔の​香りである。​すなわち、​妥協を​認めない​頑固さと​繊細な​細やかさを​兼ね備えた​態度、​神に​喜ばれないような​不適切な​ことは​口に​さえしない​態度の​ことである。

 守護の​天使には、​助けを​受ける​前から​感謝する​習慣を​つけなさい。​もっと​助けてくれる​よう​強いるのである。

 キリスト教の​初代に​使われていた​〈神の​運び手〉と​いう​呼び名が、​すべての​キリスト者の​呼び名に​なるべきである。

​ この​素晴らしい​言葉が​〈掛け値なしに​〉当てはまるように​振る​舞わなければならない。

 万一、​私たちキリスト者が​キリスト者らしい​生き方を​したくなくなったと​すれば、​どうなるか?​ これを​考えて、​行いを​正しなさい。

 ​一つ​ひとつの​出来事、​一つ​ひとつの​状況の​後ろに​おられる​主を​眺めなさい。​そう​すれば​あらゆる​出来事から、​神への​もっと​大きな​愛と、​応えようと​いう​もっと​大きな​望みを​引き出すことができるだろう。​なぜなら神は​たえず​私たちを​待っておいでになり、​〈あなたに​お仕えします〉と​いう​決心を​常に​果たすことのできるよう、​助けてくださっているからである。

 自らを​無にし、​自らを​否定し、​自らを​忘れ去り、​〈考え方を​改め〉、​つまり​新たな​生き方を​し、​私の​この​惨めさを、​神の​隠れては​いるが​永遠の​偉大さに​変えたい。​これを​実行に​移す望みを​日々​新たに​しなさい。

 主よ、​たとえ真に​聖なりと​言える​愛情であっても、​あなたの​傷ついた​聖心を​通る​ことなく​私の​心に​入り込むことの​ない​ほどに、​私を​あなたのものと​してください。

 濃やかな​心を​持った​礼儀正しい​人で​ありなさい。​粗野な​人間であってはいけない。

​ 常に​濃やかな​心を​保ちなさい、と​言っても、​気取れと​いうのではない。

愛が​あれば​すべてが​可能であるが、​愛が​ないと​何も​できない。

​愛、​これこそあなたの​生き方の​秘訣である。​愛しなさい。​喜んで​苦しみなさい。​心を​強くしなさい。​意志を​雄々しくしなさい。​あなたの​献身を​確実に​神の​お望みに​合わせなさい。​そう​すれば、​効果的な​働きが​できるだろう。

 子供のように​単純で​信心深い人、​統率者のように​逞しく​強い​人に​なりなさい。

 喜びを​伴う​平和、​それは​世界の​与え得ない​ものである。

​ 人間は​いつも​和平を​結び、​いつも​戦争で​いが​み合っている。​神が​勝利を​得られる​よう内的な​戦いを​続け、​神の​助けを​お願いしなさいと​いう​勧めが​忘れられたからである。​この​勧めを​実行すれば、​心の​平和、​家庭の​平和、​社会の​平和、​世界の​平和を​得る​ことができると​いうのに。

​ このように​すれば、​あなたも​私も​喜びを​持つことができる。​喜びとは​勝利を​得た​人の​ものだから。​そして​謙遜で​あれば、​決して​負戦(まけいくさ)を​なさらない​神の​恩恵を​得て、​勝利者に​なるのである。

 あなたの​生活や​労働が​否定的であってはならない、​決して​〈反対の​態度〉であってはならないのである。​あなたの​生活や​労働は、​肯定、​楽観、​若さ、​喜び、​平和である。​また、​そうでなければならない。

 国民の​生活に​おいて​二つの​重要な​ことがある。​すなわち、​結婚に​関する​法律と​教育に​関する​法律。​これらの​点に​ついて、​神の​子らは​すべての​人々を​愛する​心から、​しっかり足を​踏ん​張って、​高潔で​巧妙(こうみょう​)な​戦いを​しなければならない。

 喜びは​キリスト教の​善であり、​戦えば​手に​入る。​喜びとは​平和の​結果であるからだ。​平和とは、​戦いで​勝利を​得た​結果であり、​地上に​おける​人間の​一生は、​聖書に​よると、​戦いである。

 ​私たちの​神的な​戦いは、​素晴らしい​平和の​種蒔きである。

 戦いを​やめる​人は、​教会に、​超自然の​事業(使徒職)に、​兄弟たちと​人々に、​害を​与える​ことになる。

​ 糾明してみなさい。​あなたの​霊的な​戦いに、​もっと​生き​生きとした​神への​愛を​込める​ことは​できないだろうか。​私は​あなたの​ため、​そして​すべての​人の​ため、​祈っている。​あなたも​そうしなさい。

 イエスよ、​万一私に​あなたを​不愉快に​させる​ことが​あれば​おっしゃってください。​捨て​去ってしまいますから。

 内的生活に​とって、​小さくて​馬鹿だが、​すこぶる​効果的な​働きを​する​敵が、​残念な​ことに​いる。​それは、​良心の​糾明に​あまり​努力しない​こと。

 キリスト教の​修徳に​とって​良心の​糾明とは、​愛の​要請・細やかな​感受性に​応える​ことである。

 万一、​神の​精神に​合っていない​ことが​あれば、​直ちに​捨てなさい。

​ 使徒たちの​ことを​考えてみよう。​自分では​何も​できなかったが、​主の​御名(みな​)に​おいて​奇跡を​行う。​たぶん奇跡も​起こしただろうに​ユダだけが、​自分の​意志で​キリストを​離れ、​道から​逸れた。​神の​精神と​一致しない​ことを、​少々​手荒な​手段を​使って​でも、​勇気を​出して​捨てなかったからである。

 神よ、​私は、​いつに​なったら​改心するのでしょう。

 歳を​とってから​聖人に​なろうなどと​考えてはいけない。​そのような​考えは​大変な​間違いである。

​ 今すぐに​始めなさい。​真剣に、​楽しく、​喜んで、​あなたの​義務や​仕事や​日常生活を​通して…。

​ 歳を​とってから​聖人に​なろうなんて​考えてはいけない。​重ねて​言う。​そのような​考えが​大変な​間違いであるのは​勿論だが、​それよりも​あなたが​長寿を​全う​するか​どうか、​分からないではないか。

 小罪が​どれほどの​悪であるかを​知る​ため、​必要な​感受性を​主に​願いなさい。​小罪を​霊魂に​とっての​根本的な​敵・不倶(ふぐ​)​載天(たいてん)の​敵と​見做(みな​)し、​神の​恩恵を​得て​それを​避ける​ためである。

 小心に​陥る​ことなく、​落ち着いて、​生き方を​振り返らなければならない。​赦しを​乞い、​また、​あれや​これや、​つまり​小さな​ことだが​なかなか​上手く​いかない​点や、​どう​すべきか​分かっているのだが​いつも​上手く​できない​点を​改善する​ため、​具体的でしっかり​特定された​固い​決心を​立てる​ためである。

 良い​望みを​たくさん​持ちなさい。​そうするのは​立派な​ことだし、​神も​褒めてくださる。​しかし、​望みだけでは​何の​役にも​立たない。​地に​足を​つけた​実際的な​人間でなければならない。​良い​望みを​実行に​移すには、​分かり易くて​具体的な​決心を​立てる​必要が​あるのだ。

​ そして、​わが​子よ、​その後で、​神の​助けを​受けて​それらを​実行に​移すため戦うのである。

 どう​すれば​主を​愛し続け、​また​その愛を​増すことができるだろうか、と​あなたは​燃える​心で​尋ねた。

​ 子よ、​古い​人を​脱ぎ捨てるのだ。​同時に、​それ自体は​良い​ことでも、​自我を​捨てる​邪魔に​なる​ものを、​物惜しみせずに​捧げるのだ。​それは、​「私は​ここに​おります。​あなたの​お望みを​果た​すために」と、​絶えず主に​申し上げる​ことであり、​それを​実行する​ことである。

 聖人。​仮に​そのような​ことができると​すれば、の​話だが、​神の​子なら​度を​過ごした​と​言える​ほど、​徳を​実行しなければならない。​なぜかと​言うと、​人々は​鏡を​見るのと​同じように​神の​子の​中に​自分を​見るからであり、​高い​ところを​狙っておいて​始めて、​彼らは​中ぐらいの​ところに​到達する​ことができるからである。

 心の​中に​〈罪の​火口〉、​つまり​悪への​傾きを​見つけても​恥ずかしがる​必要は​ない。​それは​生きている​間ずっと​付いて​来る​ものであり、​その​重荷を​免除されている​人は​いないのである。

​ 恥ずかしがらなくても​よい。​全能に​して​慈しみ深い主は、​このような​傾きに​打ち​勝つために​必要な​手段を​すべて​与えてくださったのだから。​すなわち秘跡、​信心生活、​聖化された​仕事である。

​ 辛抱強く、​またがっかりしないで​何度も​やり直す覚悟を​決めて、​それらの​手段を​使いなさい。

 主よ、​私を​私自身から​解放してくださいますように。

 常に​きちんと​決めた​とおりに​祈りを​しない​使徒なら、​必ず​生温くなる。​使徒でなくなるのである。

 主よ、​私が​今から​別の​私に​なりますように。​〈今の​私〉ではなく、​〈あなたが​お望みの​私〉に​なれますように。

​ あなたが​要求なさる​ことは​何一つ​拒むことがありませんように。​祈り、​苦しむことを​知る​人間でありますように。​あなたに​栄光を​帰する​こと​以外は​何事にも​心配しませんように。​あなたの​現存を​絶えず​感じる​ことのできますように。

​ 父なる​神を​お愛しできますように。​私の​イエスよ、​絶え間の​ない​一致​(交わり)の​うちに​あなたを​望むことができますように。​聖霊が​私を​燃え​上がらせてくださいますように。

 ​「あなたは​わたしの​もの」と、​主は​仰せに​なる。​美その​もの、​英知​その​もの、​偉大さその​もの、​善その​ものの​神が、​あなたを​ご自分の​ものだと​仰せに​なる。​それなのに、​主に​お応えしないなんて。

 生きている​間あなたが、​聖パウロの​言う​あの​重荷を​背負っているからと​いって、​驚いてはならない。​「わたしの​五体には​もう​一つの​法則が​あって​心の​法則と​戦」う。

​ そんな​時には​自分が​キリストの​ものである​ことを​思い出し、​あなたの母でも​ある​神の​御母のもと​へ​行きなさい。​聖母が​あなたを​お見捨てになる​ことは​ないだろう。

 霊的指導に​おいて​受ける​勧めを、​イエス・キリストご自身からの​勧めと​して​受け入れなさい。

 ​日々の​戦いに​勝つための​勧めが​欲しいと​頼んだので、​私は​次のように​答えた。​「心を​開いて​話すとき、​一番​知られたくない​ことを、​最初に​言いなさい。​そう​すれば、​常に​悪魔を​打ち負か​すことができる」。

​心の​隅々にまで​神愛の​光が​入り込むよう、​率直に、​心を​いっぱいに​開きなさい。

 福音書の​述べる​唖に​する​悪魔が​心の​中に​入り込むと、​すべてが​駄目になる。​しかし、​すぐに​追い出すなら、​何もかも​上手く​いく。​幸せな​気持ちで​歩みを​進め、​すべてが​上手く​いくのである。

​そこで​確(かく​)たる​決心を​ひとつ。​霊的指導を​受ける​ときは、​濃やかさと​礼を​失しない​限り、​〈野蛮な​ほど​誠実〉になろう。​しかも​この​誠実さは、​直ちに​実行しなければならない。

 あなたの​霊魂の​導き手の​助けを​愛し、​また​求めなさい。​霊的指導を​受ける​ときは、​心を​隈(く​ま)なくさらけ出しなさい。​腐っていたら​腐ったまま​何もかもを、​誠実に、​治りたいと​いう​望みを​込めて。​そうしないと、​その​腐った​ところは、​いつに​なっても​治らないだろう。

​ 傷の​上辺(う​わべ)しか癒すことのできない​人に​助けを​求めるのは、​臆病者である。​結局は​自分が​苦しむことに​なるのに、​本当の​姿を​隠しているからである。

 恐れずに​真実を​語りなさい。​ただし、​隣人への​愛徳を​考え、​時には​沈黙した​ほうが​良い​ときの​ある​ことも​忘れないように。​いずれに​しても、​怠惰や​安楽や​臆病心に​負けて​沈黙する​ことの​ないように​して​ほしい。

 真理は​二千年も​前に​人間のもとに​来たのに、​世界は​嘘で​動いている。

​真実を​語る​こと。​神の​子なら、​これを​目指さなければならない。​人々が​真理を​はっきりと​語り、​また​真理を​聞く​ことに​慣れてくれば、​この​世界は​もっと​理解し合う​ことだろう。

 信仰に​関する​事柄で​譲歩するのは、​偽りの​愛徳、​悪魔的で​嘘に​満ちた​愛徳である。​「信仰を​固めよ」と​聖ペトロが​要求するように、​確たる​信仰、​強い​信仰を​保たなければならない。

​ それは​狂信ではなく、​単純に​信仰を​生きる​ことであって、​人々に​冷淡な​態度を​示す​ことではないからである。​どうでも​よい​ことなら​譲歩するが、​信仰に​関する​ことで​譲歩する​余地は​ない。​自分の​ランプの​油を​他人に​譲る​ことは​できないのである。​そんな​ことを​すれば、​後で​花婿なる​キリストが​おいでになった​とき、​ランプの​火が​消えている​ことになる。

 謙遜と​従順こそ、​正しい​教えを​受け入れる​ために​欠く​ことのできない​条件である。

 教皇の​言葉は、​心から​受け入れて​それを​実行に​移す態度で、​すなわち恭順と​謙遜を​もって​受け入れなさい。​そして​それを​人々に​伝えなさい。

 日毎に​いっそう​深い​愛を​込めて、​ローマ教皇を​愛し、​敬い、​教皇の​ために​犠牲を​捧げなさい。​教皇は​教会の​礎石(そせき)であって、​幾世紀にも​わたって​世の​終わりまで​人々の​間で、​イエスが​ペトロに​任せられた​聖化と​統治の​仕事を​続けているのである。

 あなたは​もっと​大きな愛、​もっと​深い​敬い、​さらなる​敬愛、​徹底的な​従順、​今以上に​深い愛を、​この​世に​おける​キリストの​代理者、​すなわち教皇にも​示さなければならない。

​ 私たちカトリック信者は、​愛と​権威の​段階に​おいて、​神と​私たちの​母なる​処女マリアに​次ぐ​位置を​占めるのが​教皇である​ことを​忘れてはならない。

 教皇と​司教が​日々担う​重荷の​ことを​考えれば、​彼らを​敬い、​心から​愛し、​祈りで​助けるべきことが​痛切に​理解できるだろう。

 聖母に​対する​愛を​もっと​生き​生きとさせ、​もっと​超​自然的な​愛にしなさい。

​ お願い​する​目的だけで​聖母マリアに​近づく​ことの​ないようにしよう。​何かを​差し上げる​ためにも​近づこうではないか。​愛情を​示し、​神なる​御子の​ため愛を​捧げ、​人々も​マリアの​子であるから、​彼らに​接する​とき奉仕の​行いで​聖母への​愛を​示すため、​聖母のもと​へ​行こう。

 イエスは​模範である。​イエスを​真似よう。​聖なる​教会と​すべての​人々に​仕えると​いうかたちで、​イエスを​真似よう。

 託身​(受肉)の​場面を​眺めて、​心の​中で、​言動に​おいて​謙遜に​なる​決意を​固めよう。​神は​自らを​低くして、​哀れな​人間性を​取られたのである。

​ だから​毎日、​主が​お送りに​なる​屈辱を、​神の​恩恵の​助けを​得て​直ちに、​喜んで​受け入れるようにしなさい。

 キリスト教的な​生活を​自然に​営みなさい。​繰り返し言うが、​まともな鏡が​姿を​歪めたり​変形したりせずに​正常な​像を​映すように、​あなたの​行いで​キリストを​人々に​知らせなさい。​あなたが​まともなら、​まともな鏡のように​キリストの​生き方を​映し出し、​それを​人々に​見せる​ことができるだろう。

 万一、​あなたが​自惚れ屋なら、​あるいは​自分​ひとりの​ことだけしか​心配しないようなら、​自分を​人々や​世界の​中心に​考えるのなら、​自らを​キリスト者と​呼んだり、​キリストの​弟子と​見な​したりする​権利は​ない。​キリストは​「命」​その​もの、​その​全生涯を​一人​ひとりに​与えるに​際して、​どこまで​私たちに​要求する​おつもりか、​その​限度を​お定めに​なったからである。

 ​〈知性の​謙遜〉こそ、​あなたの​生き方の​原則であるよう​努力しなさい。

​ ゆっくりと​考えなさい。​そう​すれば​〈知性の​高慢〉など​あり得ない​ことが​よく​分かるだろう。​あの​聖なる​教会博士は​この​点を​見事に​説明してくれている。​「幼子となられた​神を​見ながら、​人間が​地上で​偉大な​存在である​振(ふ)りを​し続けるなど、​まことに​唾棄(だき)すべき​不秩序である」と。

 誰かが​傍らに​居る​ときは、​それが​誰であっても、​変わった​ことを​せず、​神の​子である​ことの、​また神の​子と​して​生きる​ことの​喜びを​その​人に​伝える​方​法を​探しなさい。

 神なる​師が​お任せに​なった​使命、​仕えると​いう​使命は​偉大で​美しい。​だから​こそ、​この​良い​精神 ― 堂々とした​態度 ― は、​キリスト者の​働きに​染み込んでいるはずの​自由を​愛する​心と、​完全に​両立するのである。

 誰と​接するにしても、​慈しみの​心を​欠いてはならない。​万一、​ある​人が​慈しみに​値しないと​思えた​ときは、​あなたも​何ら値打ちの​ない​存在である​ことを​思い出しなさい。

​造って​もらう​値打ちは​なかったし、​キリスト者にも​神の​子にもなる​値打ちは​なく、​現在の​あなたの​家族の​一員に​なる​値打ちも​ないのである。

 超​自然的な​愛徳の​明らかなしるし、​すなわち、​兄弟的説諭の​実行を​疎(おろそ)かに​してはならない。​なかなか​実行し難い​ことで、​遠慮する​ほうが​楽(らく​)で​いい。​確かに​その方が​ずっと​楽では​あるが、​超自然的な​態度ではない。

​ そして​説諭を​怠ったのなら、​そのことに​ついては、​神に​申し開きを​しなければならないだろう。

 必要な​ときは、​内容や​やり方に​ついて​優しく​心細やかな​ ― 愛の​こもった​ ― 兄弟的説諭を​しなければならない。​その​時あなたは​神の​道具なの​だから。

 人々を​愛し、​すべての​人の​間に​愛を​ ― 礼儀正しく​濃やかな​キリストの​愛を​広めるなら、​互いに​支え合うことになる。​そして​倒れかけていた​人も、​神への​忠実を​保てと​勧める​兄弟の​力に​支えられて ― 励まされて ― いると​感じる​ことだろう。

 愛徳に​かかわる​小さな​事柄を​実行して、​犠牲の​精神を​育てなさい。​この​世に​おける​聖性への​道を​愛すべきものに​すると​いう​熱意を​もって​そうしなさい。​時と​して、​一度の​微笑​(ほほえ​)みが​最高の​償いの​行為で​あり得るのだから。

 ​人々に​仕え、​人々の​生活を​快く​する​ため、​毎日​惜しみない​心を​もって、​嫌な​ことを​喜んで、​人に​気取られずに​受け入れなさい。

​ こう​いうやり方こそ、​本当に​イエス・キリストの​愛である。

 内的生活の​実りである​その​〈朗らかさ〉、​その​喜びを​どこに​居ても​保つよう​懸命に​努力しなさい。

 たい​へん魅力の​ある​犠牲だから、​是非ともあなたに​実行して​ほしい。​あなたが​話すとき、​自分を​話題の​中心に​しないと​いう​犠牲である。

 良心の​糾明を​良く​する​方法。

​ 今日、​神が​お送りに​なった​困難を​償いと​して​受け入れただろうか。​仲間の​人たちとの​性格の​不一致から​生じる​困難や​自分​自身の​惨めさを、どのように​受けとめただろうか。

​ これほど​頻繁に​神を​侮辱したことに​対して​感じる​悲しみを、​償いと​して​主に​捧げただろうか。​徳の​道に​こんなに​わずかしか​進歩しない​自分を​思って、​心の​中で​赤面するような​恥ずかしさと​屈辱を​主に​お捧げしただろうか。

 習憤と​して​実行している​〈いつもの​〉犠牲は​大切であるが、​それしか​考えない​偏執狂(へんしゅうきょう​)に​なってはいけない。

​ 必ずしも​同じ​ことだけを​犠牲に​する​必要は​ない。​惰性に​陥らず、​絶えず​休みなく​続ける​こと、​良い​意味の​習慣に​なった​こと、​それが​犠牲の​精神であるから。

 キリストの​足跡を​歩みたい、​主を​〈着たい〉、​主を​身に​つけたい、​キリストと​ひとつに​なりたい、と​あなたは​考えている。​それなら、​行いに​現れる​信仰、​犠牲に​裏打ちされた​信仰、​役に​立つ行いを​生む信仰、​邪魔に​なる​ものを​捨て​去る​ことのできる​信仰を​持っていなければならない。

 聖性は、​しなやかな​筋肉のように​柔軟でなければならない。​聖人に​なりたいと​考えている​人なら、​どう​いう​ふうに​すれば​よいかを​知っている​ものである。​つまり、​犠牲と​して​何かを​捧げる​とき、​神を​侮辱する​ことにならない​限り、​同じように​犠牲を​要する​他の​ことを​敢えてしない。​そして、​その​おかげで​楽に​なった​ことを​神に​感謝するのである。​キリスト者が​他の​やり方を​すると、​ボロで​作った​人形のように​固くて​命の​ない​人間に​なる​危険が​ある。

​ 聖性とは、​厚紙のように​固い​ものではなく、​微笑み、​譲歩し、​待つことを​知っている。​聖性とは​生命、​つまり​超​自然の​生命なのである。

 お母様、​私を​見放さないでください。​御子を​求め、​御子に​出会い、​私の​全存在を​あげて​愛する​ことができるよう、​お助けください。​どうか​私の​ことを​思い出してください。​聖母よ、​私の​ことを​忘れないでください。

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