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他人を踏みつける人に対しても、愛徳の名のもと、細やかさと理解をもって接する、と人々は言う。
その細やかさと理解が、世間体を気にし、楽をしたいという心のカモフラージュ(隠れ蓑)となり、人が罪を犯すのを認めるような結果にならぬよう、神にお願いしたい。万一そんなことになれば、せっかくの細やかさと理解も神侮辱の共犯となってしまうからである。
この点を別の言語で
…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/surco/965/ (2025/11/22)