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信仰と​謙遜

今度は​聖マタイが​感動的な​場面を​示してくれます。​「そこへ​十二年間も​患って​出血が​続いている​女が​近寄って​来て、​後ろから​イエスの​服の​房に​触れた」19。​バルティマイのように、​大きな​信仰の​心から、​大声で​自らの​状態を​告白する​病人は​どこにもいます。​ところで、​キリストの​道を​歩む​人々の​間には​二人と​して​同じ​人は​いません。​この​女性の​信仰は​立派です。​彼女は​叫び声を​上げません。​誰にも​気づかれぬうちに​近寄ります。​癒されると​確信していました​20から、​イエスの​衣に​少し​触れさえすれば​よかったのです。​衣に​触れるか​触れぬかの​うちに、​主は​振り返って​ごらんに​なります。​女の​心の​中で​起こった​ことを、すでに​ご存じでした。​そして、​その​信仰を​お知らせに​なります、​「娘よ、​元気に​なりなさい。​あなたの​信仰が​あなたを​救った」​21と。

​ 「上衣の​裾回しに​そっと​触れた。​信仰を​もって​近づき信じた。​そして、​癒された​ことを​知ったのだ。​…​救われたいなら、​我々も​信じて、​キリストの​衣に​触れなければならない」22。​ これで、​あなたの​信仰の​あるべき姿が​明らかに​なったのではないでしょうか。​キリストが​私たちを​招いてくださる​なんて、​いったい​私たちは​何者なのでしょう。​キリストの​こんなにも​近くに​いる​ことができる​私たちは、​そも​そも​何者なのでしょうか。​群衆の​中の​あの​女性に​対するように、​主は​私たちにも​機会を​与えてくださいました。​それも、​衣服や​上衣の​裾回しだけでなく、​ご自分を​所有させてくださったのです。​キリストは、​御体と​御血、​霊魂、​神性とも​ども、​自らを​食物と​して​毎日​お与えに​なる。​その​おかげで​私たちは、​父親に​対するように​安心して、​また愛する​人と​話すように​親しく、​主と​語り合うことができる。​これは​嘘でも​想像の​所産でもありません。

聖書への参照
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