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<イエスは​いちじくの​木に​近づかれる>。​人々の​救いに​飢え渇く​イエスは、​あなたに、​そして​私に​近寄って​来られます。​主は​十字架上で、​「渇く」30と​叫ばれました。​私たちと​私たちの​愛に​飢えておられます。​不死と​天の​栄光に​つながる道である​十字架を​通って​神のもと​へ​導いてあげるべき​人々の​霊魂と​私たちの​霊魂に、​飢えと​渇きを​覚えておいでなのです。

​ いちじくの​木の​ところへ​行かれたが、​「葉の​ほかは​何も​なかった」31。​悲しい​場面です。​私たちも​この​いちじくと​同じなのではないでしょうか。​残念ながら、​信仰は​弱く、​躍動する​謙遜も​ない。​信仰は​犠牲や​行いにも​現れない。​なぜでしょう。​見た​目だけの​役立たずの​信者なのではないでしょうか。​恐ろしい​ことですが、​「今から​後いつまでも、​お前には​実が​ならないように」と​イエスが​お命じに​なると、​「いちじくの​木は​たちまち枯れてしまった」32。​この​聖福音書の​言葉を​耳に​すると​悲しさに​襲われます。​しかし​同時に、​信仰を​燃え​上がらせ、​その​信仰と​一致した​生活を​営むことに​よって、​常に​<利益>を​主に​献上しようと​いう​勇気も​湧き​上がってきます。

​ 自らを​歎くような​ことの​ないように​したい​ものです。​主が​頼りになさるのは​大人が​建てる​建物では​ありません。​主の​最大の​お望みは​子供の​遊びです。​心を、そして​愛を、​要求しておられます。​命ある​限り​思い切り働かねばなりません。​ところで、​日常の​仕事は​聖化されるべきものですから、​<よく​>働く​ことが​大切です。​神の​ために​働いている​ことを​決して​忘れては​なりません。​高慢心に​負けて​自らの​ために​のみ​働くなら、​生い​茂るのは​葉だけに​なります。​神も、​そして​人々も、​葉しかつけない​木からは、​わずかの​甘美も​得る​ことができないでしょう。

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