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主よ、​なぜ​この​掟を​<新しい​掟>とお呼びに​なるのですか。​ほんの​今しが​た​読んだように​旧約聖書も​隣人を​愛せよと​命じていました。​公生活を​始めたばかりの​とき、​イエスも​隣人愛の​義務に​超自然の​寛大さを​付け加え、​意味を​拡大された​ことを​思い出す​ことでしょう。​「『隣人を​愛し、​敵を​憎め』と​命じられている。​しかし、​わたしは​言っておく。​敵を​愛し、​自分を​迫害する​者の​ために​祈りなさい」4。

​ 主よ、​繰り返しお尋ねする​ことを​お許しください。​どうして​今に​なっても​この​掟を​新しいと​言われるのですか。​あの​晩、​十字架上で​<いけに​え>と​なる​少し前、​私たちと​同じように、​弱く​惨めな​弟子たちは、​エルサレムまであなたに​付き従いました。​弟子たちと​交わされた​親しい​語り合いの​中で、​あなたは​愛徳の​規準を​お教えに​なったのです。​それは​思いも​よら​ぬ規準でした。​「わたしが​あなたが​たを​愛したように」。​使徒たちは​主の​計り​知れない​愛の​生き証人でしたから、​この​言葉を​本当に​深く​理解したに​違い​ありません。

​ 主の​教えと​規範は​明快その​もの、​間違う​余地は​ありません。​主は​行いに​よって​教えを​一層は​っきりとお示しに​なりました。​それにも​かかわらず、​二十世紀が​経った​今も​この​掟は​<新しい​掟>であると、​私は​いつも​考えます。​掟を​実行する​人は​あまりにも​わずか、​大部分の​人々は​相変わらず​この​掟に​ついて​何も​知りたくないようです。​山と​積もった​利己主義に​負けてしまい、​なぜわざわざこれ以上、​生活を​複雑に​する​必要が​あるのか、​自分の​心配事で​精一杯、​それだけでも​大変だ、とでも​言わんばかりです。

​ このような​態度は​キリスト者には​許されません。​カトリックの​信仰を​告白するのなら、​キリストが​地上に​お残しに​なった​明白な​足跡を​踏んで​歩みたいと​心から​望むなら、​自分が​望まぬ悪を​人々にも​避けてやるだけで​満足するわけには​いかないのです。​悪を​避けてやるだけでも​立派な​ことには​違いないが、​イエスの​行いが​愛の​規準である​ことを​考えれば、​それだけでは​あまりにも​小さな​心だと​言わなければなりません。​しかも、​この​規準は​人生の​戦いを​終えた​ときに​達すると​いう​遠い​目的では​ありません。​具体的な​決心を​立てて欲しいので​繰り返します。​この​規準こそ​出発点です。​と​いう​より、​出発点でなくてはならないのです。​主は、​「それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」と​言って、​この​掟が​前提である​ことを​お示しに​なったのです。

聖書への参照
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