愛の力

1967年4月6日


大勢の​群衆の​中に​律法学者たちも​混じっていました。​そのうちの​一人が​主に​質問します。​すでに​彼らは、​良心の​問題を​複雑に​してしまい、​どれが​モーゼに​示された​教えであるのか​判らなくなった​ほどでした。​イエスは​聖なる​口を​開き、​一言ずつはっきりとお答えに​なりますが、​その​口調は​豊かな​経験に​裏打ちされた​人の​確信に​満ちていました。​「『心を​尽くし、​精神を​尽くし、​思いを​尽くして、​あなたの神である​主を​愛しなさい』。​これが​最も​重要な​第一の​掟である。​第二も、​これと​同じように​重要である。​『隣人を​自分のように​愛しなさい』。​律法全体と​預言者は、​この​二つの​掟に​基づいている」1。

​ さて​今度は、​高間に​集う​弟子たちとの​親密な​雰囲気の​中の​主を​眺めましょう。​受難を​目前に​して、​愛する​者たちに​囲まれた​キリストの​聖心は​熱い焔と​化しています。​「あなたが​たに​新しい​掟を​与える。​互いに​愛し合いなさい。​わたしが​あなたが​たを​愛したように、​あなたが​たも​互いに​愛し合いなさい。​互いに​愛し合うならば、​それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」2。

​ 聖なる​福音書の​中の​主に​近づきたい​人は、​登場人物の​一人と​なって​福音書の​場面に​入り込みなさい。​私は​いつも​このように​勧めています。​そう​すれば、​すでに​これを​実行している​大勢の​人々と​同じく、​皆さんも、​イエスの​言葉を​一言も​聞きもらすまいと​耳を​傾ける​マリアと​心を​ひとつにし、​どんなに​小さな​ことであろうと​心配事は​すべて​主に​お話しする​マルタのようになるでしょう3。

主よ、​なぜ​この​掟を​<新しい​掟>とお呼びに​なるのですか。​ほんの​今しが​た​読んだように​旧約聖書も​隣人を​愛せよと​命じていました。​公生活を​始めたばかりの​とき、​イエスも​隣人愛の​義務に​超自然の​寛大さを​付け加え、​意味を​拡大された​ことを​思い出す​ことでしょう。​「『隣人を​愛し、​敵を​憎め』と​命じられている。​しかし、​わたしは​言っておく。​敵を​愛し、​自分を​迫害する​者の​ために​祈りなさい」4。

​ 主よ、​繰り返しお尋ねする​ことを​お許しください。​どうして​今に​なっても​この​掟を​新しいと​言われるのですか。​あの​晩、​十字架上で​<いけに​え>と​なる​少し前、​私たちと​同じように、​弱く​惨めな​弟子たちは、​エルサレムまであなたに​付き従いました。​弟子たちと​交わされた​親しい​語り合いの​中で、​あなたは​愛徳の​規準を​お教えに​なったのです。​それは​思いも​よら​ぬ規準でした。​「わたしが​あなたが​たを​愛したように」。​使徒たちは​主の​計り​知れない​愛の​生き証人でしたから、​この​言葉を​本当に​深く​理解したに​違い​ありません。

​ 主の​教えと​規範は​明快その​もの、​間違う​余地は​ありません。​主は​行いに​よって​教えを​一層は​っきりとお示しに​なりました。​それにも​かかわらず、​二十世紀が​経った​今も​この​掟は​<新しい​掟>であると、​私は​いつも​考えます。​掟を​実行する​人は​あまりにも​わずか、​大部分の​人々は​相変わらず​この​掟に​ついて​何も​知りたくないようです。​山と​積もった​利己主義に​負けてしまい、​なぜわざわざこれ以上、​生活を​複雑に​する​必要が​あるのか、​自分の​心配事で​精一杯、​それだけでも​大変だ、とでも​言わんばかりです。

​ このような​態度は​キリスト者には​許されません。​カトリックの​信仰を​告白するのなら、​キリストが​地上に​お残しに​なった​明白な​足跡を​踏んで​歩みたいと​心から​望むなら、​自分が​望まぬ悪を​人々にも​避けてやるだけで​満足するわけには​いかないのです。​悪を​避けてやるだけでも​立派な​ことには​違いないが、​イエスの​行いが​愛の​規準である​ことを​考えれば、​それだけでは​あまりにも​小さな​心だと​言わなければなりません。​しかも、​この​規準は​人生の​戦いを​終えた​ときに​達すると​いう​遠い​目的では​ありません。​具体的な​決心を​立てて欲しいので​繰り返します。​この​規準こそ​出発点です。​と​いう​より、​出発点でなくてはならないのです。​主は、​「それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」と​言って、​この​掟が​前提である​ことを​お示しに​なったのです。

主イエス・キリストは​肉体と​なり、​あらゆる​徳の​模範を​全人類に​示してくださいました。​「わたしは​柔和で​謙遜な​者だから、​(…)​わたしに​学びなさい」5とお招きになる。

​ 少し​あとで、​キリスト者であるか​否かを​示す印に​ついて​使徒たちに​説明されますが、​「あなたたちが​謙遜であるから…」とは、​おっしゃいませんでした。​主は​純潔その​もの、​汚れなき小羊で、​何者と​言えど主の​「一点の​汚れも​ない」6完全な​聖性を​否定する​ことは​できなかった。​それにも​かかわらず、​「貞潔で​清い者であるから、​人は​あなたたちがわたしの​弟子である​ことを​みとめるだろう」とは、​言われなかったのです。

​ この​世では​地上の​富から​全く​離脱して​過ごし、​全宇宙の​創造主・主宰者で​ありながら、​「枕する​ところも​なかった」7。​けれども、​「富から​離脱しているから、​人々は​あなたたちがわたしの​ものだと​知るだろう」とは、​言われませんでした。​福音宣教を​始める​前に、​厳格な​断食を​守って​四十日四十夜を​砂漢で​お過ごしに​なった8。​それなのに、​「大食漢、​大酒飲みでないから、​人々は​あなたたちが神に​仕える​ものであると​考えるだろう」とも、​おっしゃらなかったのです。

​ あらゆる​時代の​使徒たち、​真の​キリスト者達の​特徴は、​すでに​ご存じのように、​次の​点に​あるとお教えに​なります。​「互いに​愛し合うならば、​それに​よって」、​正に​そのことに​よって、​「あなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」9。

​ 主の​再三の​教えを​耳に​して、​神の​子らが、​今の​私たちと​同じように、​心を​強く​動かされたのは​当然と​言えましょう。​「聖霊に​おいて​そうする​ための​力が​与えられていたとは​言え、​主は​人目を​引くような​こと、​耳に​したこともない​奇跡を​するか​否かが、​弟子が​忠実であるか​否かの​決め手に​なるとは​仰せに​ならなかった。​それでは、​何を​お教えに​なったのか。​次の​通りである。​『互いに​愛し合うならば、​それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる』」10。

神の​教育法

敵を​僧んではいけない、​悪に​悪を​返してならない、​復讐を​捨てなさい、​恨みなしで​赦しなさい、​―この​教えは​当時も​今も、​異常で​英雄的かつ度を​越した​行為であると​考えられています。​人間は​これほど​<けちな​>考え方を​するようになっていると​言わねばなりません。​全人​類を​救う​ために​この​世に​生まれ、​信者を​自らの​贖いの​わざに​協力させようと​望まれた​イエス・キリストは、​ご自分の​弟子たち―あなたと​私―に​大きな愛、​誠実、​高潔で​勇気溢れる​愛の​必要を​教えたいとお望みです。​キリストが​一人​ひとりを​愛してくださるように、​私たちは​互いに​愛し合わなければなりません。​このように​して​のみ、​つまり​粗野な​私たちでは​あるが、​神の​愛し方を​真似る​ことに​よって​のみ、​すべての​人々に​心を​開き、​新たな心で​深く​愛する​ことができるからです。

​ 初代の​キリスト者たちは、​この​燃えるが​ごとき​愛徳を​見事に​実行していました。​単なる​相互扶助や​温和な​性格を​はるかに​超える​愛を​実行していたのです。​キリストの​聖心で​互いに​優しく​強く​愛し合っていました。​二世紀の​著作家テルトゥリアヌスは​異教徒の​間に​広まっていた​噂を​伝えています。​当時の​信者は​超自然的にも​人間的にも​魅力に​溢れていましたが、​その​信者たちの​振舞いを​みて、​驚嘆した​異教徒が​繰り返し口に​した​言葉です。​「本当に、​見事に​愛し合っている!」​11と。

​ 日々、​そして​今、​あなたが​行っている​ことを​顧みて、​このような​賞賛には​値しない、あるいは、​神の​お望みに​応えていないと​思うなら、​行いを​正す時が​訪れた​証拠です。​聖パウロの​招きに​応じましょう。​「すべての​人に​対して、​特に​信仰に​よって​家族に​なった​人々に​対して、​善を​行いましょう」12。

キリスト者が​この​世で​実行すべき第一の​使徒職、​言い​換えれば、​最も​効果的な​信仰の​証しは、​真実の​愛が​教会を​支配するよう手を​貸す​ことです。​互いに​心から​愛し合わなければ、​そして、​攻撃、​中傷、​諍いを​なくさなければ、​「福音」を​告げる​ために​どれほど​苦労を​重ねても、​人々を​惹きつける​ことなどできるはずが​ありません。

​ 信者・未信者の​区別なく、​全人​類を​愛さねばならない。​こう口先だけで​言うのは​簡単です。​たい​へん​流行している​ことでも​あります。​しかし、​そのように​言っている​人が​同じ​信仰を​もつ​兄弟を​冷たく​あしらうならば、​その​人の​行為は​偽善者の​無駄口と​大して​変わらないと​考えざるを​えません。​「同じ父の​子供であり、​同じ​信仰に​結ばれ、​同じ​希望を​受け継いで​いる」13人々を、​キリストの​聖心で​愛するから​こそ、​心が​広くなり、​すべての​人を​主に​近づけたいと​いう​熱意が​燃え​上がるのでは​ありませんか。

​ 今、​愛徳を​実行すべきであると​申し上げていますが、​正に、​私が​口に​したばかりの​言葉に​愛徳が​欠けている、と​考える​人が​いるかもしれません。​しかし、​そうではない。​私は​聖なる​誇りを​もって、​また​誤れる​エキュメニズムに​陥る​ことなく​断言します。​全人​類を​救いたいと​いう​熱い​望みが、​飢えのように​私を​食い​尽くしていると。​唯一の​道である​イエスから​離れている​人々に、​神の​真理を​伝えなければならないと、​第ニバチカン公会議が​以前にも​増して​力強く​主張した​とき、​私は​本当に​うれしく​思いました。

あの​ときの​喜びは、​それは​大きな​ものでした。​オプス・​デイが​好んで​力を​入れる​使徒職、​<人々を​信仰に​導く​使徒職>が、​新たに​確認される​ことになったからです。​一人と​して​拒むことなく、​未信者、​無神論者、​異教徒にも、​できる​限り​私たちの​霊的善を​分かち合える​よう、​門戸を​開いています。​はっきりと​申しましょう、​遠くの​人々に​できるだけ親切を​示そうと​主張しながら、​同じ​信仰に​ある​人々を​踏みつけ、​軽く​見るなら、​その​人の​熱意は​偽善的な​偽りである、と。​同じように、​家族の​者の​喜びや​苦しみ、​不愉快な​ことには​関心を​示さず​平気で​家族を​苦しめているなら、​あるいは、​欠点とは​いえ、​罪ではない​ことを​理解しようとも​せず、​忍んで​やろうとも​思わないなら、​たとえ道端の​物乞いに​親切を​示したとしても、​そのような​人の​愛徳はとうてい​信じる​ことができません。

すでに​年老いていた​使徒ヨハネは、​書簡の​大部分を​費やして、​神が​お示しに​なる​愛徳の​教えに​従って​生きなさい、と​励ましていました。​心を​打たれずには​おれません。​キリスト者同志の​愛は、​真の​愛である​神から​生まれます。​「愛する​者たち、​互いに​愛し合いましょう。​愛は​神から​出る​もので、​愛する​者は​皆、​神から​生まれ、​神を​知っているからです。​愛する​ことの​ない​者は​神を​知りません。​神は​愛だからです」14。​キリストの​おかげで​私たちは​神の​子と​なったのですから、​兄弟愛に​ついて​このように​細かく​考えるのは​当然でしょう。​「考えなさい。​それは、​わたしたちが神の​子と​呼ばれる​ほどで、​事実また、​そのとおりです」15。

​ 使徒聖ヨハネは、​良心に​強く​訴え、​神の​恩寵に​もっと​敏感に​反応するよう励ましながら、​御父が​確かに​素晴らしい​愛を​注いでくださっている​証拠を​示しました。​「神は、​独り子を​世に​お遣わしに​なりました。​その方に​よって、​わたしたちが​生きるようになる​ためです。​ここに、​神の​愛が​わたしたちの​内に​示されました」16。​主が​イニシャティブを​とられる。​主が​先に、​私たちに​会いに​来られました。​望む​ところ​あって​模範を​お示しに​なりました。​私たちが主と​共に​隣人への​奉仕に​駆けつけるように、​また、​私の​大好きな​言葉で​言えば、​寛大に​自分の​心を​<敷物>に​して​人々が​その上を​気持ちよく​歩けるように、​さらに、​人々の​内的戦いを​楽にしてあげる​ために​努力するよう、​主は​お望みだからです。​そのとおり実行しなければなりません。​私たちを、​独り子を​躊躇せず​与える​御父の​子、​つまり​キリストの​御父の​子に​してくださったのですから。

愛徳とは、​自分の​努力で​獲得できる​ものではなく、​神が​恩寵と​共に​注ぎ込んでくださる​徳です。​「わたしたちが神を​愛したのではなく、​神が​わたしたちを​愛して」17くださった。​この​真理を​しっかりと​心に​刻みつけておいてください。​「神を​愛する​ことができるのは、​神が​先に​愛してくださったからである」18。​あなたも​私も、​神の​愛の​おかげで​信仰を​得る​ことが​できたのですから、​周囲の​人々にも​愛を​注が​なければなりません。​この​超自然の​宝である​愛徳を​くださる​よう、​大胆に​お願いしましょう。​愛徳を​細やかに​実行できるよう、​主に​お願いしてください。

​ ​私たち信者は、​この​恩寵に​たびたび応えなかったのではないでしょうか。​ある​時は、​愛徳を​低く​見積もって​心の​こもら​ぬ​冷たい​施しに​すり​替え、​また​ある​時は、​愛徳を​多かれ少なかれ形だけの​慈善に​限ってしまいました。​このような​思い違いは、​病床に​伏すある​婦人の​諦めにも​似た​不平を​聞けば、​よく​分かります。​「ここでは​愛徳を​込めて​世話を​してくださいますが、​母は​愛情を​注いでくれた​ものです」。​キリストの​聖心から​生まれる​愛が​あるなら、​愛徳と​愛情の​区別などできないはずでは​ありませんか。

​ 心に​刻み込んでいただきたいので、​私は​何度も​この​真理を​説いてきました。​神を​愛し、​人間を​愛する​ために、​私たちは​二つの​心が​あるわけではない。​肉体を​持つ​人間の​哀れな​心は、​人間的な​愛情を​注いで​愛するのだが、​その​人間的な​愛も、​キリストの​愛と​結ばれると​超自然の​愛と​なる、​その​愛こそは、​ほか​でもない​心の​中に​養うべき愛、​隣人の​中に​主の​姿を​見つける​愛なのだ、と。

愛は​普遍

大聖レオは​次のように​述べています。​「私たちに​とって、​隣人と​いう​言葉には、​友情や​血縁関係に​よって​結ばれている​人々だけではなく、​同じ​一つの​本性を​もった​すべての​人間が​含まれている。​唯一の​創造主が​我々を​お造りに​なり、​魂を​お与えに​なった。​すべての​人間が​同じ​空を​いただき、​同じ​空気を​吸い、​同じ昼と​夜を​過ごす。​善人と​悪人、​義人と​不義の​人の​違いが​あると​しても、​神は​すべての​人間に​等しく​寛大で​あり善を​施される」19。

​ ​私たち神の​子が、​自ら切磋琢磨して​新しい​掟を​実行し、​教会の​中では​「仕えられる​者ではなく​仕える​者」​20と​なり、​全人​類を​新しい​仕方で​愛するよう努力するなら、​人々は​それが​キリストの​恩寵の​おかげである​ことに​気づくでしょう。​単なる​仲間​意識や​感傷と​綯い​交ぜに​するわけには​ゆきません。​言うまでもなく、​優越感を​味わう​ために​他人を​助けると​いう、​不純な​野心とも​異なります。​愛とは、​周りの​人々と​手を​取り合って​生きる​こと、​人々の​うちに​ある​神の​像を​尊重する​こと、​さらには、​人々が​自らの​中に​ある​神の​像を​見つめて​キリストに​近づく​ことができるよう、​助けてあげる​ことだからです。

​ ​それゆえ、​愛の​普遍性は​使徒職の​普遍性に​ほかなりません。​「すべての​人々が​救われて真理を​知るようになる​ことを​望んで​おられる」21神の​大きな​熱意を、​私たちが​実際の​行いで​表す​ことなのです。

​ 敵を​も愛すべきであるなら、​(私は​誰に​対しても、​何に​対しても、​私の​敵だとは​思っていないので、​私の​ことを​敵だと​考えている​人が​いると​すれば、として​申しますが)、​ただ遠く​離れていると​いうだけの​人、​多少とも​肌の​合わない​人、​あるいは​言葉や​文化、​教育の​相違の​ために​あなたや​私に​対立しているかのように​見えるだけの​人たちを​愛するのは、​なおさら​道理にかなっていると​言わなければなりません。

ここで​言う​愛とは、​どのような​愛の​ことでしょうか。​聖書では、​単なる​感覚的愛情とはっきり区別する​ため​「ディレクツィオ」​(愛)と​いう​言葉を​使っていますが、​この​語は​言うならば、​意志の​固い​決意を​表します。​「ディレクツィオ」は​「エレクツィオ」​(選ぶ)に​由来し、​さらに​付け加えるなら、​キリスト者の​愛とは、​「愛したいと​望むこと」だと​言えるでしょう。​キリストに​おいて​決意を​固め、​いかなる​差別もなく​万人の​善を​図る、​ひいては​最善の​ものを​与える​こと、​つまり、​人々が​キリストを​知り、​キリストの​愛に​夢中に​なるよう努力する​ことです。​主は​私たちを​急き立てておいでになる。​「敵を​愛し、​自分を​迫害する​者の​ために​祈りなさい」22。​私たちを​受け入れない​人に、​あまり心を​惹かれないのは​当然です。​しかし、​イエスは​言われました。​悪に​悪を​返してはならない、と。​辛いかもしれませんが、​心を​込めて​仕える​機会を​無駄に​する​ことの​ないよう​努力しましょう。​忘れずに、​絶えず、​祈ってあげてください。

​ この​「ディレクツィオ」​(愛)は、​信仰に​おける​兄弟、​とりわけ神の​摂理に​よって​私たちに​もっとも​近しい​人々、​父母、​夫または​妻、​子供、​兄弟、​同僚、​隣人を​対象と​する​とき、​一層深く​愛情の​色合いを​増していきます。​万一、​神に​基を​置き、​神に​秩序づけられている、​高貴で​清らかな​人間的な​愛情が​伴っていないと​すれば、​本当の​愛徳であるとは​言えないでしょう。

愛の​表明

聖霊が​預言者イザヤの​口を​借りて​伝えている​言葉を​取り上げてみましょう。​「善を​行う​ことを​学べ」​23。​私は​よく​この​勧めを​内的生活の​色々な​面に​当てはめて​考える​ことに​しています。​毎日の​実質的な​努力が​あって​はじめて​徳の​進歩が​見られる​以上、​キリスト教的な​生活に、​もう​ここまでで​充分だと​言える​ことは​決してありませんから。

​ 社会で​様々な​仕事に​携わるに​あたり、​多くを​学ぶためには​どう​すれば​よいのだろう。​第一に、​目指す目的と​目的達成に​必要な​手段を​調べる。​続いて、​しっかりと​根を​おろした​習慣が​身に​つくまで、​その​手段を​飽かず​繰り返す。​何かを​学んだと​思った​瞬間に​まだ​知らない​ことが​あったのに​気づき、​今度は​それが​刺激と​なって​仕事を​続ける。​もう​充分だと​いうような​言葉を​口に​しないようにしましょう。

​ 隣人愛とは​神の​愛の​あらわれですから、​この​徳に​進歩しようとする​人が​限度を​設ける​ことは​許されません。​神に​対して​唯一可能な​尺度とは、​尺度なしと​いう​こと、​つまり​限りなく​愛する​ことです。​なぜ?​理由の​一つは、​神が​私たちに​してくださったことに​ついて​正当に​感謝する​ことなどできないから。​もう​一つは、​人間に​向けられた​神の​愛が、​行き過ぎと​言える​ほどの​愛、​無制限の​愛であるからです。

​ 聞く​耳を​もっている​私たち全員に、​イエスは​山上の​垂訓の​中で​愛の​掟を​お教えに​なりました。​その​結びは​次の​通りです。​「あなたがたは​敵を​愛しなさい。​人に​善い​ことを​し、​何も​当てにしないで​貸しなさい。​そう​すれば、​たくさんの​報いが​あり、​いと​高き方の​子となる。​いと​高き方は、​恩を​知らない​者にも​悪人にも、​情け深いからである。​あなたが​たの父が​憐れみ深いように、​あなたが​たも​憐れみ深い者と​なりなさい」24。

​ 心の​こもらない​同情には​憐れみの​かけらも​見られない。​憐れみとは、​溢れんばかりの​愛の​ことで、​当然ながら​正義にかなう。​憐れみとは、​心を​繊細に​保ち、​犠牲を​いとわぬ寛大な​愛で​人間的にも​神的にも​心の​痛みを​感じうる​ことです。​聖パウロは​賛歌の​中で​この​徳を​説明しています。​「愛は​忍耐強い。​愛は​情け深い。​ねたまない。​愛は​自慢せず、​高ぶらない。​礼を​失せず、​自分の​利益を​求めず、​いらだたず、​恨みを​抱かない。​不義を​喜ばず、​真実を​喜ぶ。​すべてを​忍び、​すべてを​信じ、​すべてを​望み、​すべてに​耐える」25。

愛徳が​あれば、​まず謙遜の​道を​歩み始めます。​心から​自らの​無を​悟った​とき、​神の​助けが​なければ​自分より​弱く​脆い​人に​さえ​劣る​ことが​分かった​とき、​さらに、​どのような​恐ろしい​過ちを​犯すかもしれない​ことや、​多くの​不忠実を​避ける​ためどれほ必死に​なって​戦おうとも、​罪人である​ことに​変わりの​ない​自分に​気づいた​とき、​そのような​ときに、​どうして​他人を​悪く​思う​ことができるでしょう。

​ 謙遜で​あれば、​今​述べたような​接し方、​つまり、​隣人との​最も​望ましい​付き合い方が​できるようになります。​すべての​人を​理解し、​すべての​人と​共に​生き、​すべての​人を​赦す、​また、​人を​区別したり​隔たりを​置いたりせず、​いつも​人々の​一致に​役立つように​働くようになるのです。​人は​心の​奥で、​平和や​同僚との​一致、​個人の​権利の​相互尊重などに​強く​憧れていますが、​これは​空虚な​憧れではない。​こういう​考え方は​兄弟愛へと​育つべきなのです。​人間である​ことの​最も​貴い​証拠は​そこに​現れます。​私たちは​みな神の​子です。​兄弟愛を​一つの​お題目に​したり、​夢のような​理想と​考えたりしないようにしましょう。​難しい​目標には​違いないが、​充分に​実行できる​目標ですから。

​ ​私たちキリスト者は、​皮肉屋、​懐疑主義者、​冷血漢など、​自分の​臆病を​土台に​して​ものを​考える​人たちを​向こうに​まわして、​この​愛情が​実行可能である​ことを​示さなければなりません。​それには、​おそらく​色々と​難しい​こともあるでしょう。​人間は​自由な​存在と​して​創造されましたから、​無益とは​言え、​神に​刃向かうことも​できるからです。​しかし、とにかく、​今​お話ししている​愛は​必ず​実行できます。​神の​愛と​神への​愛が​あれば、​必ず愛にかなった​生き方が​できます。​私たちが​そのように​望みさえ​すれば​よいのです。​イエス・キリストもまた​そう​お望みに​なっています。​苦しみと​犠牲、​自己を​忘れた​献身が、​人々と​共に​歩む​日々の​生活の​中で、​どれほど​深く、​また​豊かな​意味を​もつかが​理解できる​ことでしょう。

愛徳の​実行

キリスト者の​義務である​愛徳の​実行は​容易だなどと、​単純に​考える​わけには​ゆきません。​人間社会の​日々の​営みの​中で、​また、​悲しい​限りですが​教会内に​おいても、​現実は​かなり​異なっています。​愛ゆえに​沈黙する​義務が​なければ、​誰もが​分裂や​攻撃、​不正や​中傷、​策略などに​関する​話を、​いつまでも​際限なく​続けるに​違い​ありません。​素直に​実状を​認めましょう。​人を​傷つけたり​冷たく​扱ったりしないために、​悲しませずに​正してあげる​ことができる​ためにも、​一所​懸命に​努力しなければならないのです。

​ このような​悲しい​状態は​今に​始まった​ことでは​ありません。​キリストの​昇天から​何年も​経たない頃、​多くの​使徒たちが​世界の​あちらこちらに​足を​運んだ​結果、​信仰と​希望の​燃えるような​熱意は​すでに​広く​ゆきわたっていましたが、​それでも​大勢の​者は​道を​踏み外して、​主の​愛徳の​実行に​力を​尽くさなくなっていました。

​ 聖パウロは​コリントの​人々に​書き送っています。​「お互いの​間に​ねたみや​争いが​絶えない以上、​あなたがたは​肉の​人であり、​ただの​人と​して​歩んでいる、と​いう​ことに​なりはしませんか。​ある​人が​『わたしは​パウロに​つく』と​言い、​他の​人が​『わたしは​アポロに』などと​言っていると​すれば、​あなたがたは、​ただの​人に​過ぎないでは​ありませんか」​26。​キリストが​これらの​分裂を​克服する​ために​来られた​ことを​理解できていないではないか。​「アポロとは​何者か。​また、​パウロとは​何者か。​この​二人は、​あなたが​たを​信仰に​導く​ために​それぞれ主が​お与えに​なった​分に​応じて​仕えた者です」​27と。

​ 使徒は、​人間の​多様性、​一人​ひとりの​違いを​否定しません。​各々は​神から​独自の​恩寵を​受けており、​それぞれが​異なる​存在だ28、​と​言っています。​むしろ、​そういった​違いを​教会の​善に​役立てるべきです。​いま私は​主に​向かって、​教会の​中に​愛の​不足に​よる​分裂が​生じる​ことの​ないよう強く​お願い​したいと​思っています。​よろしければ​皆さん方も​私の​祈りに​意向を​合わせてください。​愛徳は、​キリスト者の​使徒職に​あって​塩の​役目を​果たします。​万一、​その​塩が​味を​失うような​ことに​でもなれば、​「ここに​キリストが​おられる」と、​堂々と​胸を​張って​人々に​告げる​ことは​できなくなるでしょう。

聖パウロと​共に​繰り返します。​「たとえ、​人々の​異言、​天使たちの​異言を​語ろうとも、​愛が​なければ、​わたしは​騒が​しい​どら、​やかましい​シンバル。​たとえ、​預言する​賜物を​持ち、​あらゆる​神秘と​あらゆる​知識に​通じていようとも、​たとえ、​山を​動かすほどの​完全な​信仰を​持っていようとも、​愛が​なければ、​無に​等しい。​全財産を​貧しい​人々の​ために​使い尽く​そうとも、​誇ろうと​してわが​身を​死に​引き渡そうとも、​愛が​なければ、​わたしに​何の​益も​ない」29と。

​ 異邦人の​使徒、​聖パウロの​言葉を​聞いて、​ある​人々は、​イエスが​その御体と​御血の​秘跡を​お告げに​なった​とき​「実に​ひどい​話だ。​だれが、​こんな​話を​聞いていられようか」​30と​言った、​あの​キリストの​弟子たちと​同じ​反応を​示しました。​確かに、​このような​愛徳の​実行は​容易な​ことでは​ありません。​使徒の​説く​愛徳は、​慈善事業や​博愛主義、​あるいは​他人の​苦しみを​見て​抱く​同情のような、​ちっぼけな​ものには​限られていないからです。​使徒の​言う​愛徳を​実行するには、​神への​愛と、​神ゆえの​隣人愛と​いう、​対神徳を​実行しなければなりません。​だから​こそ、​「愛は​決して​滅びない。​預言は​廃れ、​異言は​やみ、​知識は​廃れよう。​ ​(…)​信仰と、​希望と、​愛、​この​三つは、​いつまでも​残る。​その​中で​最も​大いなる​ものは、​愛である」31と​言う​ことができるのです。

唯一の​道

キリスト教的生活の​基本と​なる徳で​ありながら、​時と​して​漫画のように​描かれてきた​愛徳は、​本当の​愛徳ではないことが​よく​分かりました。​それでも、​絶えず​この​徳に​ついて​説かなければならないのは​なぜでしょうか。​必須の​テーマで​ありながら、​具体的な​行いに​表される​ことが​あまりにも​少ないのは​なぜでしょうか。

​ 周りを​見渡してみれば、​愛徳は​虚しい​徳だと​考えざるを​得ない、とおっしゃるのですか。​けれども、​信仰の​目で​物事を​見るなら、​このように​実の​ない​状態に​陥った​原因が​分かるのではないでしょうか。​主イエス・キリストとの​絶え間の​ない​親しい​交わりの​不足、​霊魂内で​続く​聖霊の​働きを​知らない​こと、​これが​原因です。​実は​聖霊の​働きの​最初の​実りは​愛徳なのです。

​ ​「互いに​重荷を​担いなさい。​そのように​してこそ、​キリストの​律法を​全う​する​ことに​なるのです」32。​この​使徒の​勧告を​黙想して、​教父の​一人は​次のように​付け加えています。​「キリストを​愛するなら、​他人の​欠点も​容易に​忍ぶことができる。​善い​行いを​しないのでまだ​私たちが愛する​ところまで​ゆか​ないような​人、​そのような​人々の​欠点も​忍び易くなるだろう」33。

​ この​あたりから​愛徳を​深める​道が​始まります。​博愛的な​活動や​救済事業が​第一で、​これに​力を​注が​なければ​主を​愛したことには​ならないと​考えるなら、​それは​大間違いです。​「病床の​隣人を​心配する​あまり、​キリストを​ないが​しろに​してはならない。​キリストの​ために​病人を​愛すべきなのですから」34。

​ 絶えずイエスを​見つめてください。​イエスは​神である​ことを​止める​ことなく、​私たちに​仕える​ために​遜り、​奴隷の​姿35を​とってくださいました。​全力を​尽くして​イエスを​見倣う​必要が​あります。​愛は​一致を​求め、​愛する​人と​ひとつに​なります。​キリストと​一致するなら、​測り​知れない​ほどの​愛と​献身、​死に​至るまでの​犠牲を​厭わない​主の​生涯を​見て​胸を​打たれ、​たとえわず​かなりとも​後押ししたいと​いう​望みが​湧いてきます。​主は​二者択一を​お求めに​なります。​自分の​ことだけを​考える​利己的な​生き方か、​それとも、​全力を​傾けて​人々に​仕える​生き方か。

最後に、​主との​この​語り合いを​終えるに​あたり、​聖パウロの​次の​言葉を​繰り返すことができるよう​お願いしましょう。​「わたしたちは、​わたしたちを​愛してくださる​方に​よって​輝かしい​勝利を​収めています。​わたしは​確信しています。​死も、​命も、​天使も、​支配する​ものも、​現在の​ものも、​未来の​ものも、​力ある​ものも、​高い​所に​いる​ものも、​低い​所に​いる​ものも、​他の​どんな​被造物も、​わたしたちの​主キリスト・イエスに​よって​示された​神の​愛から、​わたしたちを​引き離す​ことは​できないのです」36。

​ この​愛に​ついて、​聖書は​また、​燃えるような​言葉で​歌っています。​「大水も​愛を​消すことは​できない。​洪水も​それを​押し流すことは​できない」37。​聖母マリアの​心は、​常に​この​愛に​満ち溢れていました。​だから​こそ、​全人​類の​優しい​母と​なってくださったのです。​聖母の​神への​愛は、​私たち子供への​配慮と​ひとつに​溶け合っています。​ブドウ酒が​ありません38。​マリアは​甘美なみ心で、​誰も​気づかないような​小さな​ところにまで​気を​配っていました。​ところで、​イエスの​受難と​死刑の​際には、​怒り​狂った​兵士たちと​群衆の​残忍な​行為を​目前に​して、​張り裂けんばかりの​苦痛を​耐え​忍んだに​違い​ありません。​それでも、​マリアは​黙っておられる。​御子と​同じように、​愛し、​黙し、​赦す。​これこそ、​愛の​力なのです。

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