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主イエス・キリストは​肉体と​なり、​あらゆる​徳の​模範を​全人類に​示してくださいました。​「わたしは​柔和で​謙遜な​者だから、​(…)​わたしに​学びなさい」5とお招きになる。

​ 少し​あとで、​キリスト者であるか​否かを​示す印に​ついて​使徒たちに​説明されますが、​「あなたたちが​謙遜であるから…」とは、​おっしゃいませんでした。​主は​純潔その​もの、​汚れなき小羊で、​何者と​言えど主の​「一点の​汚れも​ない」6完全な​聖性を​否定する​ことは​できなかった。​それにも​かかわらず、​「貞潔で​清い者であるから、​人は​あなたたちがわたしの​弟子である​ことを​みとめるだろう」とは、​言われなかったのです。

​ この​世では​地上の​富から​全く​離脱して​過ごし、​全宇宙の​創造主・主宰者で​ありながら、​「枕する​ところも​なかった」7。​けれども、​「富から​離脱しているから、​人々は​あなたたちがわたしの​ものだと​知るだろう」とは、​言われませんでした。​福音宣教を​始める​前に、​厳格な​断食を​守って​四十日四十夜を​砂漢で​お過ごしに​なった8。​それなのに、​「大食漢、​大酒飲みでないから、​人々は​あなたたちが神に​仕える​ものであると​考えるだろう」とも、​おっしゃらなかったのです。

​ あらゆる​時代の​使徒たち、​真の​キリスト者達の​特徴は、​すでに​ご存じのように、​次の​点に​あるとお教えに​なります。​「互いに​愛し合うならば、​それに​よって」、​正に​そのことに​よって、​「あなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる」9。

​ 主の​再三の​教えを​耳に​して、​神の​子らが、​今の​私たちと​同じように、​心を​強く​動かされたのは​当然と​言えましょう。​「聖霊に​おいて​そうする​ための​力が​与えられていたとは​言え、​主は​人目を​引くような​こと、​耳に​したこともない​奇跡を​するか​否かが、​弟子が​忠実であるか​否かの​決め手に​なるとは​仰せに​ならなかった。​それでは、​何を​お教えに​なったのか。​次の​通りである。​『互いに​愛し合うならば、​それに​よってあなたが​たが​わたしの​弟子である​ことを、​皆が​知るようになる』」10。

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