229

愛徳とは、​自分の​努力で​獲得できる​ものではなく、​神が​恩寵と​共に​注ぎ込んでくださる​徳です。​「わたしたちが神を​愛したのではなく、​神が​わたしたちを​愛して」17くださった。​この​真理を​しっかりと​心に​刻みつけておいてください。​「神を​愛する​ことができるのは、​神が​先に​愛してくださったからである」18。​あなたも​私も、​神の​愛の​おかげで​信仰を​得る​ことが​できたのですから、​周囲の​人々にも​愛を​注が​なければなりません。​この​超自然の​宝である​愛徳を​くださる​よう、​大胆に​お願いしましょう。​愛徳を​細やかに​実行できるよう、​主に​お願いしてください。

​ ​私たち信者は、​この​恩寵に​たびたび応えなかったのではないでしょうか。​ある​時は、​愛徳を​低く​見積もって​心の​こもら​ぬ​冷たい​施しに​すり​替え、​また​ある​時は、​愛徳を​多かれ少なかれ形だけの​慈善に​限ってしまいました。​このような​思い違いは、​病床に​伏すある​婦人の​諦めにも​似た​不平を​聞けば、​よく​分かります。​「ここでは​愛徳を​込めて​世話を​してくださいますが、​母は​愛情を​注いでくれた​ものです」。​キリストの​聖心から​生まれる​愛が​あるなら、​愛徳と​愛情の​区別などできないはずでは​ありませんか。

​ 心に​刻み込んでいただきたいので、​私は​何度も​この​真理を​説いてきました。​神を​愛し、​人間を​愛する​ために、​私たちは​二つの​心が​あるわけではない。​肉体を​持つ​人間の​哀れな​心は、​人間的な​愛情を​注いで​愛するのだが、​その​人間的な​愛も、​キリストの​愛と​結ばれると​超自然の​愛と​なる、​その​愛こそは、​ほか​でもない​心の​中に​養うべき愛、​隣人の​中に​主の​姿を​見つける​愛なのだ、と。

聖書への参照
この点を別の言語で