230

愛は​普遍

大聖レオは​次のように​述べています。​「私たちに​とって、​隣人と​いう​言葉には、​友情や​血縁関係に​よって​結ばれている​人々だけではなく、​同じ​一つの​本性を​もった​すべての​人間が​含まれている。​唯一の​創造主が​我々を​お造りに​なり、​魂を​お与えに​なった。​すべての​人間が​同じ​空を​いただき、​同じ​空気を​吸い、​同じ昼と​夜を​過ごす。​善人と​悪人、​義人と​不義の​人の​違いが​あると​しても、​神は​すべての​人間に​等しく​寛大で​あり善を​施される」19。

​ ​私たち神の​子が、​自ら切磋琢磨して​新しい​掟を​実行し、​教会の​中では​「仕えられる​者ではなく​仕える​者」​20と​なり、​全人​類を​新しい​仕方で​愛するよう努力するなら、​人々は​それが​キリストの​恩寵の​おかげである​ことに​気づくでしょう。​単なる​仲間​意識や​感傷と​綯い​交ぜに​するわけには​ゆきません。​言うまでもなく、​優越感を​味わう​ために​他人を​助けると​いう、​不純な​野心とも​異なります。​愛とは、​周りの​人々と​手を​取り合って​生きる​こと、​人々の​うちに​ある​神の​像を​尊重する​こと、​さらには、​人々が​自らの​中に​ある​神の​像を​見つめて​キリストに​近づく​ことができるよう、​助けてあげる​ことだからです。

​ ​それゆえ、​愛の​普遍性は​使徒職の​普遍性に​ほかなりません。​「すべての​人々が​救われて真理を​知るようになる​ことを​望んで​おられる」21神の​大きな​熱意を、​私たちが​実際の​行いで​表す​ことなのです。

​ 敵を​も愛すべきであるなら、​(私は​誰に​対しても、​何に​対しても、​私の​敵だとは​思っていないので、​私の​ことを​敵だと​考えている​人が​いると​すれば、として​申しますが)、​ただ遠く​離れていると​いうだけの​人、​多少とも​肌の​合わない​人、​あるいは​言葉や​文化、​教育の​相違の​ために​あなたや​私に​対立しているかのように​見えるだけの​人たちを​愛するのは、​なおさら​道理にかなっていると​言わなければなりません。

この点を別の言語で