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ここで​言う​愛とは、​どのような​愛の​ことでしょうか。​聖書では、​単なる​感覚的愛情とはっきり区別する​ため​「ディレクツィオ」​(愛)と​いう​言葉を​使っていますが、​この​語は​言うならば、​意志の​固い​決意を​表します。​「ディレクツィオ」は​「エレクツィオ」​(選ぶ)に​由来し、​さらに​付け加えるなら、​キリスト者の​愛とは、​「愛したいと​望むこと」だと​言えるでしょう。​キリストに​おいて​決意を​固め、​いかなる​差別もなく​万人の​善を​図る、​ひいては​最善の​ものを​与える​こと、​つまり、​人々が​キリストを​知り、​キリストの​愛に​夢中に​なるよう努力する​ことです。​主は​私たちを​急き立てておいでになる。​「敵を​愛し、​自分を​迫害する​者の​ために​祈りなさい」22。​私たちを​受け入れない​人に、​あまり心を​惹かれないのは​当然です。​しかし、​イエスは​言われました。​悪に​悪を​返してはならない、と。​辛いかもしれませんが、​心を​込めて​仕える​機会を​無駄に​する​ことの​ないよう​努力しましょう。​忘れずに、​絶えず、​祈ってあげてください。

​ この​「ディレクツィオ」​(愛)は、​信仰に​おける​兄弟、​とりわけ神の​摂理に​よって​私たちに​もっとも​近しい​人々、​父母、​夫または​妻、​子供、​兄弟、​同僚、​隣人を​対象と​する​とき、​一層深く​愛情の​色合いを​増していきます。​万一、​神に​基を​置き、​神に​秩序づけられている、​高貴で​清らかな​人間的な​愛情が​伴っていないと​すれば、​本当の​愛徳であるとは​言えないでしょう。

聖書への参照
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