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愛の​表明

聖霊が​預言者イザヤの​口を​借りて​伝えている​言葉を​取り上げてみましょう。​「善を​行う​ことを​学べ」​23。​私は​よく​この​勧めを​内的生活の​色々な​面に​当てはめて​考える​ことに​しています。​毎日の​実質的な​努力が​あって​はじめて​徳の​進歩が​見られる​以上、​キリスト教的な​生活に、​もう​ここまでで​充分だと​言える​ことは​決してありませんから。

​ 社会で​様々な​仕事に​携わるに​あたり、​多くを​学ぶためには​どう​すれば​よいのだろう。​第一に、​目指す目的と​目的達成に​必要な​手段を​調べる。​続いて、​しっかりと​根を​おろした​習慣が​身に​つくまで、​その​手段を​飽かず​繰り返す。​何かを​学んだと​思った​瞬間に​まだ​知らない​ことが​あったのに​気づき、​今度は​それが​刺激と​なって​仕事を​続ける。​もう​充分だと​いうような​言葉を​口に​しないようにしましょう。

​ 隣人愛とは​神の​愛の​あらわれですから、​この​徳に​進歩しようとする​人が​限度を​設ける​ことは​許されません。​神に​対して​唯一可能な​尺度とは、​尺度なしと​いう​こと、​つまり​限りなく​愛する​ことです。​なぜ?​理由の​一つは、​神が​私たちに​してくださったことに​ついて​正当に​感謝する​ことなどできないから。​もう​一つは、​人間に​向けられた​神の​愛が、​行き過ぎと​言える​ほどの​愛、​無制限の​愛であるからです。

​ 聞く​耳を​もっている​私たち全員に、​イエスは​山上の​垂訓の​中で​愛の​掟を​お教えに​なりました。​その​結びは​次の​通りです。​「あなたがたは​敵を​愛しなさい。​人に​善い​ことを​し、​何も​当てにしないで​貸しなさい。​そう​すれば、​たくさんの​報いが​あり、​いと​高き方の​子となる。​いと​高き方は、​恩を​知らない​者にも​悪人にも、​情け深いからである。​あなたが​たの父が​憐れみ深いように、​あなたが​たも​憐れみ深い者と​なりなさい」24。

​ 心の​こもらない​同情には​憐れみの​かけらも​見られない。​憐れみとは、​溢れんばかりの​愛の​ことで、​当然ながら​正義にかなう。​憐れみとは、​心を​繊細に​保ち、​犠牲を​いとわぬ寛大な​愛で​人間的にも​神的にも​心の​痛みを​感じうる​ことです。​聖パウロは​賛歌の​中で​この​徳を​説明しています。​「愛は​忍耐強い。​愛は​情け深い。​ねたまない。​愛は​自慢せず、​高ぶらない。​礼を​失せず、​自分の​利益を​求めず、​いらだたず、​恨みを​抱かない。​不義を​喜ばず、​真実を​喜ぶ。​すべてを​忍び、​すべてを​信じ、​すべてを​望み、​すべてに​耐える」25。

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