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聖パウロと​共に​繰り返します。​「たとえ、​人々の​異言、​天使たちの​異言を​語ろうとも、​愛が​なければ、​わたしは​騒が​しい​どら、​やかましい​シンバル。​たとえ、​預言する​賜物を​持ち、​あらゆる​神秘と​あらゆる​知識に​通じていようとも、​たとえ、​山を​動かすほどの​完全な​信仰を​持っていようとも、​愛が​なければ、​無に​等しい。​全財産を​貧しい​人々の​ために​使い尽く​そうとも、​誇ろうと​してわが​身を​死に​引き渡そうとも、​愛が​なければ、​わたしに​何の​益も​ない」29と。

​ 異邦人の​使徒、​聖パウロの​言葉を​聞いて、​ある​人々は、​イエスが​その御体と​御血の​秘跡を​お告げに​なった​とき​「実に​ひどい​話だ。​だれが、​こんな​話を​聞いていられようか」​30と​言った、​あの​キリストの​弟子たちと​同じ​反応を​示しました。​確かに、​このような​愛徳の​実行は​容易な​ことでは​ありません。​使徒の​説く​愛徳は、​慈善事業や​博愛主義、​あるいは​他人の​苦しみを​見て​抱く​同情のような、​ちっぼけな​ものには​限られていないからです。​使徒の​言う​愛徳を​実行するには、​神への​愛と、​神ゆえの​隣人愛と​いう、​対神徳を​実行しなければなりません。​だから​こそ、​「愛は​決して​滅びない。​預言は​廃れ、​異言は​やみ、​知識は​廃れよう。​ ​(…)​信仰と、​希望と、​愛、​この​三つは、​いつまでも​残る。​その​中で​最も​大いなる​ものは、​愛である」31と​言う​ことができるのです。

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