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私の​子たちよ、​私たちの​使徒職には​「専門化あるいは​特定化された​目的」​32が​ない​ことを、​良く​知っているでしょう。​私たちの​使徒職的活動には、​あらゆる​「専門」が​存在します。​それは​使徒職が、​人間の​生活自体が​提供する​多様な​専門分野に​根付いているからです。​社会の​歯車の​中で、​人々が​互いに​提供し合う​奉仕を​超自然の​レベルに​高め、​真の​霊的な​仕事に​していくのです。

​ここ数世紀の​間、​活動修道会が​(常に​外から)​世に​近づこうと​使徒職を​「専門化」し、​人間的な​特定の​仕事、​教育や​福祉活動などに、​キリスト教の​精神を​根づかせようと​してきました。​それは​称賛に​値する​ことです。​とは​いえ、​しばしば​それは、​どちらかと​言うと、​修道士・修道女の​固有の​召し出しを​具現化する​ためと​いう​よりは、​カトリックの​市民の​自主性の​不足を​補う​ための​ものでした。​この​自主性の​不足は、​彼らの​キリスト教的形成の​怠り、​または​彼らが​社会を​キリスト教化すると​いう​責任感を​感じなかった​ところから​来る​ものだったかもしれません。

​しかし、​修道者は​「専門性」を​求めるに​あたって​(それは​彼らの​召し出しに​固有な​ものではなく、​あくまで​補足的な​ものです)​限界に​突き当たりました。​人間社会の​多くの​領域は、​気高く​清い​ものであっても、​世からの​聖なる​隔離に​よって​奉献生活の​証しを​世に​示すと​いう​修道者の​主たる​使命とは、​決して​両立できない​ものだからです。​さらに、​最近の​世俗主義は​(多くの​国に​おいて、​それが​いわゆる​カトリックの​国であっても)​教育や​福祉活動から​修道者を​追い出し、​あるいは​(少なくとも)​彼らが​宗教的とは​厳密には​言えない​活動に​携わるのを​制限しています。

​オプス・​デイの​使徒職に​おいて、​信徒たちは、​不足を​補う​ためではなく​33、​教会に​おける​自らの​使命を​果たす場と​して​神が​指し示した​特定の​領域を、​明確な​自覚と​責任感を​もって、​自分の​ものとします。​その​使徒職が​どのように​「専門化」されるかを​予測する​ことは​できません。​と​いうのは、​その​使徒職は​仕事と​その​社会的な​役割と​一体に​なっており、​それゆえ​様々な​可能性に​対して​開かれているからです。​また、​その​使徒職は、​不動の​ものではなく、​時間の​経過と​共に​起こりうる、​社会構造の​変化に​対して​開かれているからです。

​ここで、​修道者が、​「普通の​世俗的な​職業に​おける​召し出し」を​感じる​ことは、​非常に​難しいと​いう​ことを​考慮せざるを​得ません。​その​召し出しが​あれば、​修道者には​ならなかった​ことでしょう。​彼らを​職業的な​仕事の​ために​形成する​ことは​難しく、​高く​つき、​後付で​不自然な​ものと​いえます。​このような​条件下で、​中級の​仕事の​レベルに​達する​ことができるのは、​ごく​少数の​人に​限られると​思われます。

備考
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​「専門化あるいは​特定化された​目的」​:長年、​世俗的な​領域の​使徒職に​おいて、​信徒を​様々な​小教区の​活動への​協力へと​導く​カトリック・アクションの​伝統的な​中央集権的モデルに​倣うことが​良いのか、​それとも​社会問題の​ある​領域に​カトリック活動家を​組み入れる​「専門化された」​モデルが​良いのかが​議論されていた。​創立者に​よると、​オプス・​デイに​とって​すべての​誠実な​仕事や​活動が​使徒職の​道具である。​それゆえ、​オプス・​デイには​人間生活に​固有な​「あらゆる​『専門』が​ある」。​(編者注)

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著者は、​世界に​おける​オプス・​デイの​信徒の​使徒職は、​彼らの​「教会に​おける​自らの​使命」であり、​それは​「世俗的な​職業に​おける​召し出し」を​通して​体を​成す​ことを​指摘する。​即ち、​それは​世界に​おいて​修道者が​献身的に​推進している​使徒職に​入り込むことでも、​それらの​使徒職に​対して​優劣を​問う​ものでもなく、​単に​種類の​異なる​使徒職であると​いう​指摘である。​なぜなら​オプス・​デイの​信徒の​使徒職は​奉献生活への​召し出しから​生じる​ものではなく、​神が​すべての​人を​宣教する​キリストの​弟子に​招く​洗礼から​生じる​ものだからである。​(編者注)

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