手紙29番
私の
主は、
私の
キリストに基づく楽観主義
あなたがたは、
文化と
人間を神化するパン種
人を
オプス・デイが
何年もの間、
聖ガブリエル職:社会全体にキリスト教的な意味を与える
キリストの
私の
この世界のすべての活動をキリスト教精神で浸す
オプス・デイへの
私の
聖なる全教会の関心事と責任
こういう
私の
しかし、
平和と愛の種蒔き
それゆえ、
キリストの
この
個人と
初代キリスト教徒の行動の仕方
初代の
私の
私の
豊富な善で悪を封じ、真理を守る
私の
理想主義に
あらゆる人間的活動の頂点にキリストを置く
仕事や
市民としての義務を生きるキリスト者の自覚
しかしながら、
時々、
それゆえ、
スーパーヌメラリの形成
スーパーヌメラリである
オプス・デイは、
旅人よ、己が道を歩め
オプス・デイが
自由
私の
ある
私の
市民としての権利と義務を遂行することにおける使徒職
私の
折に
娘たち、
このように
協力者たちと
私たちの
間断なく真理を告げ知らせる
あなたがたの
父母の
あらゆる誠実な仕事は、キリスト教精神と使徒職によって方向づけることができる
このような
ときに、
奉仕の精神
政治の
結婚は地上における神への道
スーパーヌメラリである
神から
子どもを
寛大に
明るく喜びに満ちた家庭
また
使命を果たすための大胆さ
すべての
聖ホセマリアは、知識人たちの社会に及ぼす影響が大きいので、彼らの間にキリスト教的な影響を与えることをオプス・デイ特有の目的の一つに数えていたが(ホセ・ルイス・ゴンザレス・グジョン、ジョン・F・カバデル『オプス・デイの歴史』〈José Luis González Gullón — John F. Coverdale, Historia del Opus Dei, Madrid, Rialp, 2021, p. 56, nota〉参照)、創立当初から、「私たちは大勢の人のためであり、決して大衆に背を向けて生きることはない」(ホセマリア・エスクリバーからフランシスコ・モランへの手紙〈Carta de Josemaría Escrivá a Francisco Morán, Burgos 4 de abril de 1938, en Camino, ed. crítico-histórica, op. cit., p. 250〉)と強調していた。保存されている最も古い文書から、労働者、芸術家、看護士等、あらゆる職業と社会的地位の人に近づこうとする聖ホセマリアの熱意が伝わってくる。エスクリバー神父は、彼らの中からオプス・デイへの所属を望む人が出て来ることを予見していた。例えば、『内的考察』373番(1931年11月3日)には、次の言葉が記されている。「神の助けと聴罪司祭の承諾で、早い時期に選り抜きの労働者の小さなグループができるよう努めよう」(ルイス・カノ「初期のオプス・デイのスーパーヌメラリ(1930-1950)」〈Luis Cano, “Los primeros supernumerarios del Opus Dei (1930–1950)”, en Santiago Martínez Sánchez e Fernando Crovetto (ed.), El Opus Dei. Metodología, mujeres y relatos, Thomsom Reuters Aranzadi, Pamplona, 2021, p. 379〉より引用)。(編者注)
一コリント7・20-24。
「専門化あるいは特定化された目的」:長年、世俗的な領域の使徒職において、信徒を様々な小教区の活動への協力へと導くカトリック・アクションの伝統的な中央集権的モデルに倣うことが良いのか、それとも社会問題のある領域にカトリック活動家を組み入れる「専門化された」モデルが良いのかが議論されていた。創立者によると、オプス・デイにとってすべての誠実な仕事や活動が使徒職の道具である。それゆえ、オプス・デイには人間生活に固有な「あらゆる『専門』がある」。(編者注)
著者は、世界におけるオプス・デイの信徒の使徒職は、彼らの「教会における自らの使命」であり、それは「世俗的な職業における召し出し」を通して体を成すことを指摘する。即ち、それは世界において修道者が献身的に推進している使徒職に入り込むことでも、それらの使徒職に対して優劣を問うものでもなく、単に種類の異なる使徒職であるという指摘である。なぜならオプス・デイの信徒の使徒職は奉献生活への召し出しから生じるものではなく、神がすべての人を宣教するキリストの弟子に招く洗礼から生じるものだからである。(編者注)
実際には、社会的・使徒職的観点から見ると、諸々の運動との相違は僅かである。聖ホセマリアがここで指摘する相違は、オプス・デイの司牧現象と交わり、そしてその内部の位階制が全世界的であるという点にある。しかしこの指摘は、世界における聖性・福音宣教・教会への奉仕・交わりと兄弟愛のおける絆という熱意を同じく共有する人々と距離を取ることを意味するものではない。(編者注)
フィリィピ4 ・22。
フィレモン8-12、エフェソ6・5〜、コロサイ3・22-25、一テモテ6・1-2、一ペトロ2・18~参照。
テルトゥリアヌス『護教論』(Tertuliano, Apologeticum, 37,4〈Fontes Christiani 62, ed. de Tobias Georges, Freiburg-Basel-Wien, Herder, 2015, p. 230〉)。
「敵からの助言」:スペインの俗諺で、敵に対しては賢慮深くあるようにという意味。特に敵が私たちの善を探しているかのように振る舞う時のことを指す。この場合、聖ホセマリアはマルクス主義に不信感を抱くよう私たちに勧める。興味深いことに、エスクリバー師はこの手紙の35番で再度この諺を使い、「ときに敵の言葉は、有用な真理を教えてくれる」という別の意味を持たせている。(編者注)
ローマ 13・11。
マタイ 10・34。
「教会としての任務ではありません」:エスクリバー師にとって使徒職は個々人の任務であって、組織のものではない。組織としてのオプス・デイは、属している人やオプス・デイに近づく人たちに、司牧的なオリエンテーションと世話をするだけである。使徒職的活動は、常に、オプス・デイが提供するオリエンテーションと霊的援助を受けるメンバーや協力者、友人たちの責任であり、彼らのイニシアティブの実りである。(編者注)
「宗教団体的な色合いを持つものではない」:世界におけるキリストの弟子としての使命は、洗礼によってもたらされ、各人が繰り広げる人間関係の中で展開される。それゆえ、公にはカトリック的(宗教団体的)な色合いを持たないことが可能である。それは個人の信仰生活から生まれるもので、自らの職業や世俗的な活動において表されるものだからである。(編者注)
二ペトロ1・10。聖ホセマリアがここで引用しているブルガタ訳の箇所は、ネオ・ブルガタ訳において「per bona opera」の部分が省かれている。新共同訳では「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」となっている。(編者注)
「教理を与える」:聖ホセマリアは度々この表現を「様々な状況において色々な形でキリスト教真理、信仰の遺産を伝える」という意味で用いた。言い換えるならば、それは「福音のメッセージを個人的活動そして職業的活動を通して伝え広める」という意味である。(編者注)
ローマ10・14。
二テモテ4・2。
「Quidquid recipitur ad modum recipients recipitur(器の受けとめ方によって受けられるものが決まる)」:スコラ学特有の哲学的格言。聖トマス・アクイナスもこの格言を用いている(『神学大全』〈Summa Theologiae, I, q. 75, a. 5; Scriptum super Sententiis, lib. 4, d. 49, q. 2〉参照)。(編者注)
ヨハネ18・37。
エフェソ4・25。
大聖グレゴリオ『福音に関する説教』(S. Gregorio Magno, Homiliae in Evangelia, XXIV, en Corpus Christianorum〈Series Latina〉CXLI, p. 197)参照。
英国外国聖書協会は1804年に設立された。The Bible Societyとも呼ばれる。世界中に聖書を普及させることを目的とする聖書協会世界連盟(United Bible Societies)に加盟している。救世軍は1865年に設立されたプロテスタント運動、慈善団体。(編者注)
エスクリバー師は、教会当局がそれを禁じる場合を除いて、各自が自分の職業的召命を続けることを提案する。オプス・デイに関して、フランコ体制に協力したという批判がよく知られている。この批判は1957年フランコの政府に二人のメンバーが入閣し、その後、他の数人が入閣したことによる。しかしながら、スペインのカトリック教会当局は、信者がフランコの政府に協力することを禁じるどころか、むしろ励ましていた。なぜなら、この政府は、政治的自由を認めなかったにしても、社会的生活における福音の現存を保証するように見えたからであった(ゴンザレス・グジョン、カバデル『オプス・デイの歴史』〈González Gullón, Coverdale, Historia del Opus Dei, pp. 221-225〉参照)。(編者注)
エフェソ5・32参照。
マタイ19・11〜、1コリント7・25-40参照。10番第4段落脚注参照。(編者注)
「人間の愛を称え神への愛を表現する歌」:十字架の聖ヨハネ(1542~1591)の詩へのリファレンスを暗示している。この聖人が書いた不朽の詩のいくつかは、ルネサンス時代の著作家の男女愛の詩とよく似ているが、それは、神への愛を表現して、つまり霊的な意味合いを込めて書かれたものであった。(編者注)
「勧めるのはキリスト教的ではない」:聖ホセマリアは1960年代の西欧社会に広がっていた、生ぬるくなる一方の風潮の中で、結婚の召命についての非常に高い理想を提示している。人々が、定期的禁欲を「カトリック的」避妊方法であると理解し、その選択に伴う医学的・人間的・霊的影響を考慮に入れずに、手段として用いることをエスクリバ―師は望ましいと考えない。次の段落で、具体的なケースでは「そうすることはできますし、そうしないといけないこともあるでしょう」と言っているが、医師と司祭に相談するよう勧める。聖ホセマリアは、結婚をキリスト教的に聖なる形で生きたいと望むと同時に、妊娠に間をあける必要性を持つ人を助けたいと望む。一般的に言えば、師の言葉は、1959年(手紙の日付)から1966年(手紙を印刷した年)の間に有効であったカトリックの司牧方針と倫理実践に沿っている。それは、聖ホセマリアの個人的図書室にあった、いくつかの当時の倫理神学の書物に見ることができる。この教えは、後に聖パウロ六世の回勅『フマーネ・ヴィテ』(1968年)によって、より正確にされ、改善された。『フマーネ・ヴィテ』はもし妊娠に間をあけることを望み、そのためにこの手段を取る場合に条件となる正当な理由について触れる(16番参照)。それと同時に、この手段は、「良心的産児」(responsible parenthood)と貞潔の徳と切り離すことはできないと説明する。聖ホセマリアのこの手紙が出た頃は、この問題についての神学上の議論があり、教導職は、1965年の第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(50-51番)ですでに示された方向性に沿った教えを、正確に表現しようと努めていたところであった。現行の『カトリック教会のカテキズム』(2369~2370番)は、『フマーネ・ヴィテ』の定式を取っており、それに聖ヨハネ・パウロ二世の教えが加えられることにより、説明がさらに豊かになっている。(編者注)
「非常にきつい言葉」:聖ホセマリアはこの手紙を、自身の話し方、つまり率直でごまかしのない話し方を、知っている人たちに向けて書いていることを思い出さねばならない。それと同時に、師が説教や文書において、ある教えを強調したい時、誇張表現を使う事が稀でなかったことを思い起こす必要がある。例えば、百人の公証人が同じことを言ったとしても、自分の霊的な子どもたちの言うことの方を信じると言う時(『主との対話』〈En diálogo con el Señor, op. cit., p. 282〉)、あるいは陰口を言うくらいなら、歯で舌をかみ切って吐き出すと言う時(『ロマーナ』〈 «Romana» 42 [2006], p. 84〉)、この他多くの例を引くことができるが、どれも印象に強く残る表現である。これらは拡張表現で、言うまでもなく文字通りとるように意図したわけではない。エスクリバー師の両親への愛、また人をゆるす能力、そしてこの手紙をはじめ師の書物に明白に現れている人間の弱さへの理解などを知っている者は、師がここで言っていることを決して実行する気はないことを、推し量ることができるだろう。しかし、「非常にきつい言葉」を使うのは、読者に、自分が両親から望まれて生まれたのではないことを知った子どもたちの、悲劇にもっと敏感になって欲しいからである。聖ホセマリアがこの手紙を書いたのは、いわゆる「性の革命」が始まる直前であった。それ以降、避妊と堕胎の実践は幅広く普及し、その結果、社会に深刻な実存的・心理的問題がのしかかっている。既婚者に提示する聖性のモデルは、夫婦間の「清い愛」と子どもへの大きな愛を含むこと、重大な理由がある場合を除いて、神が送ろうと望む子どもを恐れないことを含むことを、聖ホセマリアははっきりさせたいのである。(編者注)
「この世界には黒人とカトリック信者以外いなくなるだろう」:この言葉は、この手紙が書かれた20世紀の50〜60年代における、アメリカ合衆国での公民権運動の高まりという歴史的コンテクストを考慮に入れて理解せねばならない。その頃、アメリカにおいて産児制限の手段が広まっていたが、アフリカ系アメリカ人活動家はその背後に人種差別的な意図が隠されていると考えた。カトリック信者もそれに反対したが、それは倫理的理由からであった。エスクリバー師が引用するオプス・デイのメンバーの皮肉的表現は、アフリカ系アメリカ人とカトリック信者の出生率の高さを嘆く人種差別主義者と反教皇主義者の偏見を嘲笑する意図がある。聖ホセマリアは、この機会を利用して、人種差別主義とあらゆる人種や宗教に対する差別の愚かさを示す。(編者注)
…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/carta-29/shu-zhi-29-pan/ (2025/01/05)