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結婚は​地上に​おける​神への​道

スーパーヌメラリである​私の​子たちよ、​今、​結婚と​いう​「偉大な​秘跡​(sacramentum magnum)」​84から​生まれた​あなたが​たの家族・家庭に​ついて​考えています。​前世紀に​行われた、​家族を​破壊する​運動が​いまだに​続いている​現今、​私たちオプス・​デイは、​社会の​キリスト教的細胞​(家族)に​聖性への​熱意を​与える​ために​来たのです。

​あなたが​たの​第一の​使徒職は​家庭に​あります。​オプス・​デイが​与える​形成に​よって、​あなたがたは​家族の​素晴らしさ・​美しさを​認識し、​家庭を​築く​ことが​超​自然的な​仕事である​こと、​夫婦の​義務が​聖性の​源泉である​ことを​見出します。​結婚の​召し出し​(そう、​これは​召し出しです)の​偉大さを​自覚しながらも、​使徒的独身の​召し出しに​対して​特別の​尊敬の​念と​深い​愛情を​感じるでしょう。​あなたがたは​使徒的独身の​召し出しが、​結婚の​それより​優れている​ことを​知っています85。​それゆえに、​あなたが​たの子どもの​誰かが、​神の​恩恵に​助けられて別の​道を​選んだなら、​心の​底から​喜ぶでしょう。​それは​あなたが​たに​とって​「犠牲」ではなく、​善き神が​なさった​選び、​聖なる​誇りの​理由、​イエス・キリストへの​愛に​よって​喜んですべての​人に​仕える​ことです。

​普通、​学校に​おいて、​たとえそれが​修道会が​経営する​ものであっても、​若者たちが​結婚の​尊厳と​清さを​理解するように​教えられる​ことは​ありません。​あなたが​たも​知っているでしょうが、​高校の​最終学年の​生徒たちに​行われる​黙想会では、​結婚よりも​修道士・修道女への​召し出しの​可能性に​ついて​考える​ことに​重点が​置かれことが​よく​あります。​また​結婚​生活を​軽視する​人もいます。​その​結果、​若者たちが​結婚を、​教会が​単に​許容しているだけの​ものと、​誤解する​危険も​あります。

​オプス・​デイでは、​いつも​これとは​異なる​教え方を​してきました。​神の​国の​ための​独身が、​結婚よりも​優れている​ことを​はっきり示した上で、​結婚も​この​地上での​聖なる道であると​教えてきました。​この​方​針を​とる​ことは、​悪い​結果を​生み出しませんでした。​なぜなら、​真理は​人を​自由に​するからです。​若者は​非常に​寛大な​心を​もっており、​自由に​神への​愛を​選ぶに​あたり、​肉を​超えて​高く​飛ぶことができるからです。

​私たちは​男女の​愛を​恐れません。​私たちの​両親の​聖なる​愛、​神は​それを​使って​私たちに​命を​お与えに​なりました。​私は​この​愛を​両手で​祝福します。​私の​子が、​聖なる​結婚の​秘跡への​大きな​愛を​持たない​ことは​許されません。​それゆえ、​男女の​清い愛の​歌を​憚る​ことなく​称えます。​それは、​「人間の​愛を​称え神への​愛を​表現する​歌」​86でもあります。​神への​愛の​ために、​この​世で​その愛を​放棄した​私たちは、​独り者では​ありません。​愛する​心を​持つ人です。

備考
84

エフェソ5・32参照。

85

マタイ19・11〜、​1コリント7・25-40参照。​10番第4段落脚注参照。​(編者注)

86

​「人間の​愛を​称え神への​愛を​表現する​歌」​:十字架の​聖ヨハネ​(1542~1591)の​詩への​リファレンスを​暗示している。​この​聖人が​書いた​不朽の​詩の​いく​つかは、​ルネサンス時代の​著作家の​男女愛の​詩と​よく​似ているが、​それは、​神への​愛を​表現して、​つまり​霊的な​意味合いを​込めて​書かれた​ものであった。​(編者注)

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