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子どもを生む能力は、神の創造の業に参加するようなものです。ちょうど人間の知性が神の知性の閃光のようなものであるように。命の泉を枯らさないでください。恐れないでください。偽の経済的、社会的、または科学的な理由で、出産制限の必要性を正当化しようとする理論は、キリスト教的でも人間的でもなく、犯罪的です。それらの理論は、真面目に分析すれば、すぐに崩壊します。それらは臆病のなせるわざです、私の子たちよ。それらは、臆病と、正当化できないものを正当化しようとする試みです。
これらのアイデアが、しばしば、司祭や修道者から来ることは残念なことです。彼らは、呼ばれていないのに無分別に問題に首を突っ込んでいます。それは、ときに病的な好奇心の表れであり、教会への愛が欠如していることの証です。というのは、主は結婚の秘跡を、キリストの神秘体の成長と拡大のための手段として、定められたからです。
信者の家庭の子どもの数が減ると、司祭や、イエス・キリストへの奉仕のために人生を捧げようとする人の数も、減ることになると確信してください。私は、神から一人の子どもしか授からなかったにもかかわらず、その一人の子どもを寛大に神に捧げた夫婦を少なからず知っています。しかし、そのようにする人は多くはありません。子沢山の家族の場合、神の召し出しの偉大さを理解するのはより易しく、その子どもたちの中から、あらゆる身分と道を選ぶ者が出てきます。
…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/carta-29/55/ (2025/11/18)