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寛大になり、子沢山の家庭の喜びと堅固さを感じてください。子供を望まない夫婦を、私は恥ずかしく思います。子供を望まないなら、禁欲しなさい。夫婦に対し、妊娠の可能性がある時期における夫婦行為を控えるよう勧めるのは、キリスト教的ではないと思いますし、正直にそう言います89。
確かにある具体的な事例において、常に医者と司祭と相談の上、そうすることはできますし、そうしないといけないこともあるでしょう。しかし、このやり方を、一般的な規則として勧めることはできません。非常にきつい言葉になりますが、もし自分が、両親の清い愛の実りではなく、親の意志に反して生まれてきたと知ったならば、少なくない人たちが、親の墓につばを吐きかけに行くことでしょう90。神のおかげで、私たちは、一般的に、キリスト教的家族の中に生まれました。このことを主に感謝すべきです。私たちは、大方、この家族に召し出しを負っています。
出産制限の考えが幅広く広まっている国で働いていたある私の息子が、この問題について質問した人に対して、冗談でこう答えたことを覚えています。「このようにして、そう遠くない未来、この世界には黒人とカトリック信者以外いなくなるだろう」91と。しかし、このことをカトリックが少数派である国々に暮らすカトリック信者は理解しません。なぜならキリスト教的結婚が、通常の摂理において主が定められた、神の民が成長するための手段であるという事実(深い神学的基盤のある事実)について深く考えないからです。
それに反して(もっと賢い)キリストの敵たちは、もっと常識的です。共産主義国家では、生命の法則と人間の生む力の重要性を日に日に理解するようになっています。そして、それらを決定的な要素としてイデオロギーと政治の計画の中に組み込んでいます。
「勧めるのはキリスト教的ではない」:聖ホセマリアは1960年代の西欧社会に広がっていた、生ぬるくなる一方の風潮の中で、結婚の召命についての非常に高い理想を提示している。人々が、定期的禁欲を「カトリック的」避妊方法であると理解し、その選択に伴う医学的・人間的・霊的影響を考慮に入れずに、手段として用いることをエスクリバ―師は望ましいと考えない。次の段落で、具体的なケースでは「そうすることはできますし、そうしないといけないこともあるでしょう」と言っているが、医師と司祭に相談するよう勧める。聖ホセマリアは、結婚をキリスト教的に聖なる形で生きたいと望むと同時に、妊娠に間をあける必要性を持つ人を助けたいと望む。一般的に言えば、師の言葉は、1959年(手紙の日付)から1966年(手紙を印刷した年)の間に有効であったカトリックの司牧方針と倫理実践に沿っている。それは、聖ホセマリアの個人的図書室にあった、いくつかの当時の倫理神学の書物に見ることができる。この教えは、後に聖パウロ六世の回勅『フマーネ・ヴィテ』(1968年)によって、より正確にされ、改善された。『フマーネ・ヴィテ』はもし妊娠に間をあけることを望み、そのためにこの手段を取る場合に条件となる正当な理由について触れる(16番参照)。それと同時に、この手段は、「良心的産児」(responsible parenthood)と貞潔の徳と切り離すことはできないと説明する。聖ホセマリアのこの手紙が出た頃は、この問題についての神学上の議論があり、教導職は、1965年の第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(50-51番)ですでに示された方向性に沿った教えを、正確に表現しようと努めていたところであった。現行の『カトリック教会のカテキズム』(2369~2370番)は、『フマーネ・ヴィテ』の定式を取っており、それに聖ヨハネ・パウロ二世の教えが加えられることにより、説明がさらに豊かになっている。(編者注)
「非常にきつい言葉」:聖ホセマリアはこの手紙を、自身の話し方、つまり率直でごまかしのない話し方を、知っている人たちに向けて書いていることを思い出さねばならない。それと同時に、師が説教や文書において、ある教えを強調したい時、誇張表現を使う事が稀でなかったことを思い起こす必要がある。例えば、百人の公証人が同じことを言ったとしても、自分の霊的な子どもたちの言うことの方を信じると言う時(『主との対話』〈En diálogo con el Señor, op. cit., p. 282〉)、あるいは陰口を言うくらいなら、歯で舌をかみ切って吐き出すと言う時(『ロマーナ』〈 «Romana» 42 [2006], p. 84〉)、この他多くの例を引くことができるが、どれも印象に強く残る表現である。これらは拡張表現で、言うまでもなく文字通りとるように意図したわけではない。エスクリバー師の両親への愛、また人をゆるす能力、そしてこの手紙をはじめ師の書物に明白に現れている人間の弱さへの理解などを知っている者は、師がここで言っていることを決して実行する気はないことを、推し量ることができるだろう。しかし、「非常にきつい言葉」を使うのは、読者に、自分が両親から望まれて生まれたのではないことを知った子どもたちの、悲劇にもっと敏感になって欲しいからである。聖ホセマリアがこの手紙を書いたのは、いわゆる「性の革命」が始まる直前であった。それ以降、避妊と堕胎の実践は幅広く普及し、その結果、社会に深刻な実存的・心理的問題がのしかかっている。既婚者に提示する聖性のモデルは、夫婦間の「清い愛」と子どもへの大きな愛を含むこと、重大な理由がある場合を除いて、神が送ろうと望む子どもを恐れないことを含むことを、聖ホセマリアははっきりさせたいのである。(編者注)
「この世界には黒人とカトリック信者以外いなくなるだろう」:この言葉は、この手紙が書かれた20世紀の50〜60年代における、アメリカ合衆国での公民権運動の高まりという歴史的コンテクストを考慮に入れて理解せねばならない。その頃、アメリカにおいて産児制限の手段が広まっていたが、アフリカ系アメリカ人活動家はその背後に人種差別的な意図が隠されていると考えた。カトリック信者もそれに反対したが、それは倫理的理由からであった。エスクリバー師が引用するオプス・デイのメンバーの皮肉的表現は、アフリカ系アメリカ人とカトリック信者の出生率の高さを嘆く人種差別主義者と反教皇主義者の偏見を嘲笑する意図がある。聖ホセマリアは、この機会を利用して、人種差別主義とあらゆる人種や宗教に対する差別の愚かさを示す。(編者注)
…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/carta-29/56/ (2025/11/20)