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すべての人に、あなたがたのキリスト教的な質素な生活と犠牲の模範を示しなさい。主は言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て(なさい)」94。主は、ぶどうのように桶の中で足で踏まれ、潰されることの豊かさを、私たちに教えてくださいました。それはキリストのぶどう酒になるためでした。
どんな時でも落ち着きを失わないように。決して暴力的や攻撃的になったり、激高したりしないように。その落ち着きは枢要徳の実践の結果です。神の子であることを自覚するなら、その落ち着きを得ることができるでしょう。なぜならこの私たちの精神の典型的な特徴は、オプス・デイと共に生まれ、1931年に形をとったからです95。それは、人間的には困難極まる時でした。しかし不可能なこと(今はそれが実現したことを見ていますが)を前に、それができるという安心感がありました。主が、なにか強制的な力をもって、私の心と口に「Abba! Pater!(アッバ!パーテル!おとうさん!)」という柔和な呼びかけが生じるよう働かれていることを感じました。私は街の中、市電に乗っていました。街は、私たちの神との観想的対話を妨げません。世間の喧騒は、私たちにとって祈りの場です。私はおそらく、声に出してあの祈りをしていました。周りにいた人は、私を気が狂った人だと思ったに違いありません。「Abba! Pater!」。すべてをご存じで、何でもおできになる御父の子どもであると感じることは、なんという信頼、なんという安らぎ、なんという楽観をあなたがたに与えてくれることでしょう。
私の子たちよ、「なおいっそう励むように勧めます。そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう。キリストの平和があなたがたの心を支配するように」96。
あなたがたのパドレより心から祝福を送ります。
ローマ、1959年1月9日
…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/carta-29/60/ (2025/11/15)