手紙29番

【聖ガブリエル職について、すなわち、スーパーヌメラリの召し出しと、この世界と結婚生活と家庭を聖化するという彼らの使命についての手紙。1959年1月9日付でDei amore(神の愛によって)という題名で書かれ、1966年1月初めて印刷に付された。】

私の​愛する​子たちよ、​私たちは​神の​愛に​よって​選ばれました。​それは、​常に​若く​新しい​オプス・​デイの​道を​生きる​ためです。​この​人間的かつ超​自然的冒険は、​地上に​愛熱の​火を​燃え​上がらせようと​切望された​主に、​キリストの​共同の​贖い​者と​して​緊密に​同伴する​ことです1

​主は、​十字架に​よって​死に​打ち勝ち、​人間に​課された​滅びの​宣告を​破棄し2、​その​御血と​いう​広大無限の​代価ですべての​人を​贖ってくださいました。​Empti enim estis pretio magno​「あなたがたは​(高い)​代価を​払って​買い​取られた」3。​私たちは​多大な​代価で​贖われたのです。​例外なく​すべての​人に、​新しい​命の​可能性、​霊に​おける​再生の​可能性、​勝利者と​して​生きる​可能性が​開かれました。​その​結果、​次のように​叫ぶことができるようになったのです。​「もし神が​わたしたちの​味方である​ならば、​誰が​わたしたちに​敵対できますか。​わたしたちすべての​ために、​その​御子を​さえ惜しまず死に​渡された​方は、​御子と​一緒に​すべての​ものを​わたしたちに​賜らないはずが​ありましょうか。​(…)​わたしは​確信しています。​死も、​命も、​天使も、​支配する​ものも、​現在の​ものも、​未来の​ものも、​力ある​ものも、​高い​所に​いる​ものも、​低い​所に​いる​ものも、​他の​どんな​被造物も、​わたしたちの​主キリスト・イエスに​よって​示しめされた​神の​愛から、​わたしたちを​引き離す​ことは​できないのです」4。​これは、​泥で​できた​人間が​まったく​夢見る​ことさえできなかった、​確実さと​充満と​人間の​神化を​高らかに​歌い​上げた​賛歌です。

主は、​国や​民族、​言語、​個人の​置かれた​状況などの​区別なく、​すべての​人に​救いを​提供なさいますが​5、​受け入れるようにと​強要は​なさいません。​人間の​自由に​お任せに​なりますが、​人間は​ときに​それを​望みません。​盛大な​晩餐に​優しく​お招きになる​イエスに、​habe me excusatum​「どうか​失礼させてください」6と​答えて、​つまらない​利己的な​言い訳を​認めさせようとするのです。

​悲しい​ことでは​ありますが、​20世紀経った​今も​この​世界に​いる​キリスト信者は​僅かで、​しかも​その中で​イエス・キリストの​真の​教えを​知っているのは​ごく​少数の​人だけです。​何回か​話したことがありますが、​信仰を​もっていない​人が​世界地図を​見ながら​悪意なく​言いました。​「ご覧ください、​東西南北を」。​「何を​見て​ほしいのですか」と​尋ねました。​すると​答えが​返ってきました。​「キリストの​失敗を​見てください。​何世紀にも​わたって​教えを​人々の​心に​染み込ませる​努力を​してきたにも​関わらず、​結果は​どうですか?​キリスト者と​言える​人は​いないのです」。

​最初は​悲しみに​襲われました。​しかし​すぐに​愛と​感謝の​念に​満たされました。​主は、​私たちを​贖いのみ​業の​自由な​協力者にしようと​望まれたのです。​キリストが​失敗されたのでは​ありません。​その​教えと​み業は​世の​中を​豊かにし続けています。​その​贖いは​十分で​有り余る​ほどです。​しかし​私たちを​知性ある​自由な​存在と​して​扱われます。​そして​神秘的な​形で、​私たちが身を​もって​(私たちの​生活に​おいて)、​「キリストの​体である​教会の​ために」7 ご自分の​苦しみの​欠けた​ところを​満たすように​と​定められました。

​贖いのみ​業は​今も​進行中です。​そして、​あなたが​たと​私は​キリストの​贖いの​協力者なのです。​全生涯を​かける​価値が​あります。​神の​ご計画の​実現を​前進させる​ために、​愛する​心で​苦しむ値打ちが​あります。​贖いの​協力者と​して、​世の​贖いに​手を​貸す値打ちが​あるのです。​このような​思いを​抱いて、​あなたが​たと​私は​神を​称える​賛美の​声を​上げましょう。​Laudationem Domini loquetur os meum, et benedicat omnis caro nomini sancto eius​「わたしの​口は​主を​賛美します。​すべて​肉なる​ものは​世々限りなく​聖なる​御名を​たたえます」8

私の​子たちよ、​主が​ご自分の​国は​この​世の​ものではない9と​言われた​ことを​忘れては​なりません。​人間が​自由を​乱用するのを​許され、​収穫の​時までは、​良い麦と​一緒に​悪い麦も​育つことを​忍ばれたのです10。​悪は​なんと​繁栄している​ことでしょう。​教会の​揺籃期から、​十二使徒の​存命中で​さえ、​異端や​分裂が​ありました。​初代の​キリスト教共同体に​対する​異教徒からの​迫害、​そして​イスラム主義、​プロテスタント主義、​そして​今日の​共産主義が​あります。​キリストの​遺産である​神が​地上に​造られた​畑には、​毒麦が​生い​茂っているのです。​毒麦、​何と​多くの​毒麦が​ある​ことでしょう。

​聖なる都、​新しい​エルサレム​(新しい​天と​新しい​地)が​天から​下るまで​11、​「主の​主、​王の​王、​(…)​小羊と​共に​いる​者、​召された​者、​選ばれた​者、​忠実な​者たち」​12 と、​獣と​滅びの​子に​服従する​ものとの​間の​戦いは​終わらないでしょう。​彼らは​「すべて​神と​呼ばれたり拝まれたりする​ものに​反抗して、​傲慢に​振る​舞い、​ついには​神殿に​座り込み、​自分こそは​神であると​宣言する」​13のです。

キリストに​基づく​楽観主義

​私たちの​楽観主義は、​愚かで​高慢な​ものでなく、​現実に​即した​ものです。​それゆえ、​世に​ある​悪を​無視する​ことは​できませんし、​キリストに​よって​急を​要する​この​戦いに​召された、​つまり​主と​共に​愛と​平和の​麗しい​戦いを​戦い​抜くように​招かれたと​いう​責任を​放棄する​ことも​できないのです。

​随分前の​ことになりますが、​あなたが​たの​兄弟たちに​黙想会を​指導していた​時、​当時の​世界の​状況に​注目するよう​勧めました。​その​状況は​今も​あまり​変わっていません。​地上を​素早く​覆っていく​赤い​染み​(つまり​共産主義)に​目を​向けるよう​彼らを​促しました。​それは​あらゆる​ことに​染み込んでいき、​ほんの​僅かな​超​自然的な​感覚さえも​壊滅させようと​しています。​そして​もう​一つの​波、​官能と​いう​愚かさの​大きな​波が​まかり​通っています。​多くの​人が、​獣のような​生き方に​傾いているのです。

​続いて、​別の​色の​波に​注目するよう​勧めました。​特に​ラテン諸国に​浸透する​様子が​顕著な​別の​色の​波です。​他の​諸国に​おいてはより​隠れた​偽善的な形で​浸透しています。​それは、​神と​教会を​個人の​良心の​奥深くに​閉じ込めようとする​反聖職者主義​(悪い​反聖職者主義)の​雰囲気の​ことです。​あるいは​より​明確な​言い方を​すれば、​公的な​生活に​おいて​信仰が​表明される​ことがないよう、​神と​教会を​個人の​私的な​生活内のみに​追いやろうと​する​波の​ことです。​大げさではなく、​この​三つの​波で​表された​危険は​絶えず​見られ、​荒々しく​勢力を​伸ばしています。

あなたがたは、​この​現実に​目を​閉じては​なりません。​目を​閉じる​ことは、​ゆる​し難い​怠慢だと​言えるでしょう。​こう​言うのは、​あなたが​たを​無気力で​不活発な​悲観主義に​陥らせる​ためではなく、​キリストの​聖なる​焦燥感を​持つようにと​鼓舞する​ためです。​主は、​最期の​旅と​なる​エルサレムへ​向かって​速足で​使徒たちの​先頭を​進まれます。​Praecedebat illos Iesus​「イエスは​先頭に​立って​進んで​行かれた」14。​それは、​主の​霊が​絶えず​急き立てていた​あの​「受けねばならない​洗礼」​15を​受ける​ためでした。

​「この​わたしが​飲む杯を​飲み、​この​わたしが​受ける​洗礼を​受ける​ことができるか」​16と​いう​主の​招きを​感じたら、​必ずpossumus!「できます!」​17と、​断固と​して​若々しく​大胆な​決意が​あなたが​たの唇と​心に​ある​ことを​願っています。

​オプス・​デイに​おける​神の​子は、​いつも​神との​親子関係に​基づいて​心の​平安を​保っていますが、​キリスト教的でなく、ましてや​人間的でもない​世界に​対して、​無関心を​かこつことは​できません。​と​いうのも​多くの​人が、​この​世に​おいて、​自らの​霊的な​成長を​望むような​状態には​達しておらず、​手で​触れる​ことができないような​こと​すべてに​あまりにも​鈍感に​なっているからです。​彼らの​状態には​「この​世の​命のままに​生き、​霊を​持たない者」​18と​いう​聖書の​言葉が​当てはまります。​そのような​可哀そうな​人たちに​おいて、​聖パウロの​嘆きが​現実と​なっています。​Animalis autem homo non percipit ea quae sunt Spiritus Dei​「自然の​人は​神の​霊に​属する​ことを​受け入れません」​19。​この​可哀そうな​人たちは​霊的な​光が​見えず、​神の​霊からくる​ものを​識別できないのです。

文化と​物質的進歩が​信じられない​ほど​発展した​国々に​目を​向けましょう。​技術革命に​より、​物的な​生活の​レベルは​目を​見張る​ほど​高くなっています。​科学研究は​(神は​なんと​人間の​知性を​お助けに​なる​ことでしょう)​人間を​神に​近づけるはずでした。​なぜなら、​研究は​真理で​あり善である​程度に​応じて、​神に​由来し、​神へと​導く​ものだからです。

​しかしながら、​現実は​そうでは​ありません。​進歩にも​関わらず、​人間は​人間と​してより​成長していません。​と​いうのも、​神の​次元が​欠けていれば、​人間の​生は、​いかに​物質的に​進歩したとしても、​動物のような​生き方に​なるからです。​ただ​神的な​次元に​対して​心を​開いて​生きる​時のみ​人間は、​動物と​異なる​生き方を​する​ことができます。​ある​点から​見れば、​宗教とは​獣に​なりたくない​人間の​最大の​反逆と​言えます。

​私の​子たちよ、​宗教的な​レベルに​おいては、​進歩は​なく、​前進する​可能性も​ありません。​すでに​進歩は​頂点に​達しています。​頂点は​アルファでありオメガ、​初めで​あり​終わりである​キリストです20。​したがって、​霊的生活に​おいて​何も​発明する​ことは​ないのです。​キリストに​一致し、​もう​一人の​キリスト​(ipse Christus)に​なるように​戦う​こと​以外に​あり得ません。​昨日も​今日も、​そして​永遠に​同じ​キリストを​心から​慕い、​キリストに​よって​生きる​ことです。​Iesus Christus heri et hodie, ipse et in sæcula​「イエス・キリストは、​きのうも​今日も、​また​永遠に​変わる​ことの​ない方です」21。​個人的な​聖性以外に​〈処方​箋〉は​ないと、​あなたが​たに​再三繰り返す理由が​分かりますか。​これ以外に​ないのです。​私の​子たちよ、​これ以外には​ないのです。

人間を​神化する​パン種

人を​神化する​パン種が​必要です。​人を​神的に​すると​同時に、​真に​人間的に​する​パン種が​必要です。​イエスの​弟子であると​呼ばれる​人の​多くにも、​表向きに​信心深い​様子を​見せている​人々にも、​パン種が​必要です。​パン種は​小麦粉の​生地に​働きかけて​それを​軟らかく、​軽い​スポンジのように​食に​適した​ものにします。​パン種なしで​小麦粉と​水だけでは、​固く​消化不良を​起こす​不適切な​食物しかできないのです。

​私たちの​主である​神は、​多くの​人が​逃げ去ってしまう中、​パン種のように​生地を​活性化する​ことができる​忠実な​人を​常に​取っておかれました。​「残りの​者が​帰って​来る。​ヤコブの​残りの​者が、​力ある​神に​帰ってくる。​まことに、​イスラエルよ、​お前が​海の​砂のようであっても、​ただ​残りの​者だけが​帰って​来る」22。​預言者は​オリーブの​樹を​ゆすった​後、​落ちずに​残る​実に​ついて​語りました​23。​聖パウロは​ローマ書で​こう​言っています。​「現に​今も、​恵みに​よって​選ばれた​者が​残っています」24。​イエスは​僅かな​人を​パン種と​して​召されました。​あの​聖なる​男女の​グループは​最初の​使徒たちに​協力しましたが、​彼らの​心には​素晴らしい​種まきが​主に​よって​行われたのです。

オプス・​デイが​始まった​頃、​私は​あなたが​たの​兄弟に、​人数が​少ない​ことを​指摘していました。​そして​確信を​持って​彼らに​言っていました。​「それで​よい。​向こうには​大勢の​人が​いると​言うのですか。​しかし​私たちは​愛の​うちに​一致しています。​ところが、​彼らは​一致しているように​見えても、​実の​ところばらばらに​生きています。​なぜなら、​彼らを​一つに​したのは​憎しみだからです。​憎しみは​常に​存在してきました。​憎しみは​利己的な​生き方から、​創造主に​反抗する​者たちの​永遠なる​戦いから​生じます」。​そして、​言い​添えていました。​「もっと​人数を​増や​したいのですか。​それなら、​もっと​良い​人に​私たちがなりましょう」。

​私の​愛する​子たちよ、​パン種の​効果は、​突然、​暴力的に​ある​部分に​おいて​現れるのではなく、​急が​ずじわじわと​現れ、​内側から​生地全体に​働きます。​神の​恩恵に​よって​今日、​大人数と​なった​私たちは、​パン種の​効果を​確認できます。​初期の​僅かな​メンバーは、​神と​この​哀れな​罪人を​信じました。​彼らは、​(今、​世界の​ほとんどの​地域に​いる​あなたが​たと同様に)​超​自然的な​生活、​仕事と​喜んで​捧げる​犠牲の​精神に​よって、​効果的な​パン種に​なりました。

何年もの間、​私は、​この​世を​ご自分の​火で​焼き尽く​すイエスの​情熱を​考えては、​神の​愛に​燃え​上がっていました。​心を​激しく​突き動かすあの​熱意は、​内心に​隠しおおせず、​主と​同じ​言葉での​叫びと​なって​表れました。​Ignem veni mittere in terram, et quid volo nisi ut accendatur?...Ecce ego quia vocasti me​「わたしが​来たのは、​地上に​火を​投ずる​ためである。​その​火が​既に​燃えていたらと​どんなに​願っている​ことか。​…​お呼びに​なったので​参りました」25

​私の​子たちは​皆、​全力を​尽くし、​必要ならば​犠牲を​惜しまないと​いう、​大きな​望みを​持たなければなりません。​それは、​やる​気を​失い​感覚を​麻痺させてしまった​人々の​活力を​蘇らせ神への​奉仕に​立ち戻らせる​ためです。​それには​まず​私た​ちが、​misereor super turbam​「群衆が​かわいそうだ」​26と​叫ばれた​主と​思いを​同じくし、​周りに​いる​大勢の​人々への​愛情を​持つことです。

​オプス・​デイに​おいては​誰も、​動物の​群れのような、​非人格化された​大勢の​人々を​見て、​心を​動かされずに​平気で​生きる​ことは​できません。​一見​無関心に​見える​人々の​うちに、​多くの​高貴な​情熱、​多くの​可能性が​あります。​イエスのように、​すべての​人に​仕える​ことが​必要です。​そして、​singulis manus imponens​「一人​一人に​手を​置いて」27​彼らを​生き返らせ、​癒し、​彼らの​知性を​照らし、​意志を​強めるのです。​それは、​彼らが​役立つものとなる​ためです!​すると、​ただの​群れだった​人々は​戦う​人々に、​高貴な​王の​ために​戦う​親衛隊に​変わる​ことでしょう。

​今、​オプス・​デイは、​祝福された​野原の​香に​満たされています28。​使徒職の​実りを​前に​して、​主が​惜しみなく​祝福された​ことを​感じ取るのに​信仰は​不要です。​何年も​前、​主への​感謝の​うちに​祈りつつ、​私の​故郷の​次の​歌を​口ずさんでいました。​「蕾よ、​つぼみ、​もう​すぐ​バラに​なるのだね。​花開く​時が​近づいたよ。​何かを​告げる​ために」。​私の​子たちよ、​今あなたがたは、​棘が​あるにしても​美しく​素晴らしい​バラを​目前に​しています。​眠り込まずに、​奮い​立ち、​イエス・キリストと​聖なる​教会に​捧げる​ために、​努力を​傾けた​結果を​摘み取る​時です。

聖ガブリエル職:社会全体に​キリスト教的な​意味を​与える

​私たちの​使徒職は​すべて、​人間社会に​キリスト教的な​意味を​直接与えますが、​聖ガブリエル職は​世界の​すべての​活動を​超自然的な​意味合いで​満たし、​(それが​広がるに​つれて)​人間社会の​大きな​問題の​解決に、​効果的に​貢献していく​ことでしょう。

​スーパーヌメラリの​間には、​あらゆる​社会的な​立場や​職業や​役目の​人が​います。​自己の​身分や​社会的な​状況の​中で、​「召し出しを​十全に​生き」、​キリスト者と​しての​〈完成〉を​目指す​私の​子たちに​よって、​あらゆる​環境や​生活状況が​聖化されます。

​召し出しを​十全に​生きると​いうのは、​主が​求められる​すべての​事柄に​対し、​全力を​傾けて​寛大に​応えるべく​努力を​すると​いう​ことです。​責任ある​カトリックの​市民と​して、​教会と​教皇、​そして​すべての​人に​惜しみなく​仕えると​いう​ことです。

​大部分の​スーパーヌメラリは​結婚しています。​彼らに​とって、​夫婦間の​愛と​義務は​神的な​召し出しの​一部​分です。​オプス・​デイは​結婚​生活を​神的な​道、​召し出しに​しました。​結婚が​召し出しである​ことを、​多くの​人の​心に​刻みつける​ことを​始めてから​30年以上も​経ちました。​使徒的独身は​結婚に​優る​ものですが​(これは​私ではなく​教会が​定義した​ことです29)、​結婚は​召し出しと​なる​ほど、​崇高な​ものです。​私が​「結婚は​この​世に​おける​神的な​道です」と​言うのを​聞いて、​自己奉献の​生活と​高貴で​清い愛は​自分の​生活とは​相容れないと​考えていた​男女が、​何と​目を​輝かせた​ことでしょう。​この​点に​関しては、​もっと​後で​話すことにしましょう。

キリストの​弟子には、​当時の​あらゆる​社会階層を​代表する​人た​ちがいました。​影響力の​ある​人たちも、​市井の​人たちも​主に​従っていました。​度々、​私は​あの​二人の​弟子に​あなたが​たが​注目するよう促しました。​律法学者で​名士、​おそらく​最高法院の​メンバーであった​ニコデモと、​裕福で​身分の​高い、​最高法院の​議員であった​アリマタヤの​ヨセフです。​彼らは​物静かで、​公生活では​良心に​従い、​困難な​時には​決然と​勇気を​もって​大胆に​行動したのです。​この​二人が​今日​生きていたら、​オプス・​デイの​スーパーヌメラリの​召し出しを​良く​理解する​ことが​できたでしょう。

​キリストの​最初の​弟子たちと​同じように、​スーパーヌメラリは​現代社会の​あらゆる​所に​存在し、​これからも​存在するでしょう。​知識人や​商人、​専門職、​職人、​経営者や​労働者、​外交官、​田舎の​人、​資産家や​文学者、​新聞記者や​演劇界や​サーカスの​人たち、​スポーツ選手。​若者や​老人、​健康な​人や​病人。​生活​その​もののように、​素晴らしい、​組織化されない​組織です。​真の​「専門化」であり、​本物の​使徒職です。​なぜなら、​あらゆる​(清く、​品位ある)​職業は、​使徒職と​なり、​神的な​ものになり得るからです。

​私たちは、​人間社会と​いう​相互の​奉仕の​絡み合いの​中に​見られる​職業や​任務、​あらゆる​社会条件、​最も​多様な​状況に​いる​人々に​関心が​あります。​これら​すべての​生き​生きとした​相互関係に、​キリストの​パン種が​行き渡っていなければならないからです。

私の​子たちよ、​職業や​社会的地位に​関して、​一切の​差別を​しない​ことに​注目してください​30。​私たちが​(差別や​階級主義的な​メンタリティなしに)​あらゆる​職業や​社会的地位の​中に​探し求める​価値は、​共同体への​奉仕であり、​そのことに​より、​社会的に​あまり​評価されていない​仕事ですら、​それを​引き上げ、​偉大な​ものに​する​ことができるのです。​これらの​すべての​仕事は、​全人​類の​現世的善に​寄与します。​そして、​それらを​完全な​形で、​また​超​自然の​意向で​果たすなら​(霊的な​ものに​するなら)、​主の​贖いのみ​業にも​協力する​ことに​なり、​すべての​人々に​自身が​神の​子の​大家族の​一員であると​感じさせる​ことに​よって、​彼らの​間に​兄弟愛を​育みます。

​私たちは、​誰を​も現在いる​場から​引き​抜きません。​そこ、​主の​招きを​受けた​ところで、​各自が​自分​自身と​その​置かれた​環境、​すなわち自分が​つながっている​社会の​一部で​あり​自己の​存在理由を​与えてくれている​その​環境を​聖化しなければなりません。​この​点に​おいても、​私たちは​初代キリスト信者と​同じ​思いを​持っているのです。

​聖パウロが​コリントの​信者に​書き送った​ことを​思い出してください。​「おの​おの​召された​ときの​身分にとどまっていなさい。​召された​ときに​奴隷であった​人も、​その​ことを​気に​してはいけません。​自由の​身に​なることができると​しても、​むしろ​そのままで​いなさい。​と​いうのは、​主に​よって​召された​奴隷は、​主に​よって​自由の​身に​された​者だからです。​同様に、​主に​よって​召された​自由な​身分の​者は、​キリストの​奴隷なのです。​あなたがたは、​身代金を​払って​買い​取られたのです。​人の​奴隷に​なってはいけません。​兄弟たち、​おの​おの​召された​ときの​身分のまま、​神の​前にとどまっていなさい」31

この​世界の​すべての​活動を​キリスト教精神で​浸す

オプス・デイへの​召し出しを​(神の​恩恵の​助けに​よって)、​社会の​あらゆる​レベルで、​特に​人間社会の​中に​ある​活発な​場、​つまり​密な​社会関係の​出会いや​交わりの​行われる​場で​働いている​人々の​間で​探しなさい。

​国や​国際社会に​おける​指導的な​地位にだけ​言及しているのでは​ありません。​確かに​そのような​立場に​いる​人々は、​仕える​精神を​持つことに​より、​真の​平和と​社会の​本当の​進歩の​保証である​キリストの​要求に​即した​社会を​築く​ために​素晴らしい​善を​なすことができます。

​しかし​それだけでなく、​私は、​国よりも​小さな​組織に​おける、​ポストや​仕事、​任務に​ついても​言及したいのです。​と​いうのは、​それらは、​国や​その​他の​共同体と​同じように、​または​それ以上に、​大切な​ものだからです。​これらの​ポストや​仕事は、​その​性質上大勢の​人と​接触できる​手段であるので、​そこから、​オプス・​デイに​おける​神の​子たちの​特徴であるべき教理を​伝えたいと​いう​絶え​間ない​熱意を​もって、​社会の​中に​キリスト教的な​意見を​形成し、​その​考え方に​影響を​与え、​人々の​良心を​目覚めさせる​ことできるのです。

​それゆえ、​市井の​人々の​生活に​おいて​鍵と​なっている​様々な​職業に​就く​人の​中から​多くの​召し出しが​出る​ことに​関心が​あると​度々​言ってきました。​主ご自身が​関心を​お持ちなのです。​つまり​地方​自治体の​事務方​や​議会議員などの​公務に​携わっている​人々、​教師、​理容師、​行商人、​薬剤師、​助産師、​郵便集配人、​レストランの​ウエイター、​家事手伝いを​する​人、​新聞売り、​店番を​する​人などの​中から、​たくさんの​召し出しが​出る​必要が​あるのです。

​私たちの​使徒職は​世界の​隅々にまで​及ばなければなりません。​私たちを​突き動かす愛と​平和への​熱意は​すべてに​及び、​細部にまで​わたる​私たちの​仕事を​通して、​社会を​形成している​細胞とも​言える​人間活動の​一つ​一つを​キリスト教的な​精神で​生き​生きとさせていくのです。​ある​スーパーヌメラリが​「私たちの​精神」を​輝かせないような​場所が​あっては​なりません。​その​スーパーヌメラリは、​私たちの​伝統的なやり方で、​自己の​聖なる​焦燥感を​すぐに​他者に​移そうと​努めるはずです。​すると​すぐに、​そこに​オプス・​デイに​おける​神の​子の​グループが​出来上がるでしょう。​そして​この​グループが​疲弊する​ことなく、​生き​生きとしながら​活動する​ことができるよう、​相応しい​世話が​(必要ならば訪問する​ための​旅も​厭わずに)​行われるでしょう。

​オプス・​デイの​メンバーの​多様性は​次のように​理解できます。​信仰と​オプス・​デイの​精神に​関する​事柄は​最低限の​「共通分母」です。​それゆえ、​これらの​ことに​ついて​私たちは​自身の​ことを​「私たち」と​呼ぶことができます。​その​他の​こと、​つまり​現世的な​事柄や​神学的に​自由に​意見を​言える​事柄は、​広大で​全く​自由な​領域の​「分子」です。​ですから、​それらに​ついて、​誰ひとりと​して​「私たち」と​言う​ことは​できません。​「私」​「あなた」​「彼」と​言うべきです。

私の​子たちよ、​私たちの​使徒職には​「専門化あるいは​特定化された​目的」​32が​ない​ことを、​良く​知っているでしょう。​私たちの​使徒職的活動には、​あらゆる​「専門」が​存在します。​それは​使徒職が、​人間の​生活自体が​提供する​多様な​専門分野に​根付いているからです。​社会の​歯車の​中で、​人々が​互いに​提供し合う​奉仕を​超自然の​レベルに​高め、​真の​霊的な​仕事に​していくのです。

​ここ数世紀の​間、​活動修道会が​(常に​外から)​世に​近づこうと​使徒職を​「専門化」し、​人間的な​特定の​仕事、​教育や​福祉活動などに、​キリスト教の​精神を​根づかせようと​してきました。​それは​称賛に​値する​ことです。​とは​いえ、​しばしば​それは、​どちらかと​言うと、​修道士・修道女の​固有の​召し出しを​具現化する​ためと​いう​よりは、​カトリックの​市民の​自主性の​不足を​補う​ための​ものでした。​この​自主性の​不足は、​彼らの​キリスト教的形成の​怠り、​または​彼らが​社会を​キリスト教化すると​いう​責任感を​感じなかった​ところから​来る​ものだったかもしれません。

​しかし、​修道者は​「専門性」を​求めるに​あたって​(それは​彼らの​召し出しに​固有な​ものではなく、​あくまで​補足的な​ものです)​限界に​突き当たりました。​人間社会の​多くの​領域は、​気高く​清い​ものであっても、​世からの​聖なる​隔離に​よって​奉献生活の​証しを​世に​示すと​いう​修道者の​主たる​使命とは、​決して​両立できない​ものだからです。​さらに、​最近の​世俗主義は​(多くの​国に​おいて、​それが​いわゆる​カトリックの​国であっても)​教育や​福祉活動から​修道者を​追い出し、​あるいは​(少なくとも)​彼らが​宗教的とは​厳密には​言えない​活動に​携わるのを​制限しています。

​オプス・​デイの​使徒職に​おいて、​信徒たちは、​不足を​補う​ためではなく​33、​教会に​おける​自らの​使命を​果たす場と​して​神が​指し示した​特定の​領域を、​明確な​自覚と​責任感を​もって、​自分の​ものとします。​その​使徒職が​どのように​「専門化」されるかを​予測する​ことは​できません。​と​いうのは、​その​使徒職は​仕事と​その​社会的な​役割と​一体に​なっており、​それゆえ​様々な​可能性に​対して​開かれているからです。​また、​その​使徒職は、​不動の​ものではなく、​時間の​経過と​共に​起こりうる、​社会構造の​変化に​対して​開かれているからです。

​ここで、​修道者が、​「普通の​世俗的な​職業に​おける​召し出し」を​感じる​ことは、​非常に​難しいと​いう​ことを​考慮せざるを​得ません。​その​召し出しが​あれば、​修道者には​ならなかった​ことでしょう。​彼らを​職業的な​仕事の​ために​形成する​ことは​難しく、​高く​つき、​後付で​不自然な​ものと​いえます。​このような​条件下で、​中級の​仕事の​レベルに​達する​ことができるのは、​ごく​少数の​人に​限られると​思われます。

聖なる​全教会の​関心事と​責任

こういう​理由から、​私の​子たちよ、​聖なる​全教会の​関心事と​責任​(sollicitudo totius Sanctae Ecclesiae Dei)は、​私たちの​ものであると​いう​ことができます。​教皇と​教区司教の​公的な​(法的な、​de jure divino)​責任を​支持しながら、​私たちは​法的ではない、​霊的で​修徳的な、​愛から​来る​責任を​持って、​全教会に​仕えます。​これは​職業的な​性格を​持つ市民と​しての​奉仕で、​キリスト者と​しての​模範の​証しを​生きながら、​市民社会の​隅々まで、​主の​教えを​伝えようとする​ものです。

​教会の​一致に​困難が​生じた​時、​修道会などの​全世​界的な​組織が​決定的に​重要な​役割を​果たした​ことは、​歴史が​示しています。​私たちは、​修道者とは​全く​異なる​召し出しを​持つ、​全世​界的な​組織です。​また、​いわゆる​「使徒職的運動」​(apostolic movements)と​呼ばれている​活動との​違いを​明確に​する​34、​全世​界的な​内的位階制を​持っています。​この​ことは、​私たちを​教会と​教皇に​仕える、​結束力の​強い、​効果的な​道具にします。

私の​子たちよ、​役立つために​必要な​ことは、​あなたが​たの​個人的な​聖性です。​それは​匿名の​仮面に​隠れない、​責任ある​仕事と​して​表れます。​善き種まき人、​キリスト・イエスは、​麦のように、​私たちを​傷ついた​手で​握りしめて​御血で​満たし、​洗い​清め、​夢中に​させてくれます。​それから、​寛大に​私たち一人​ひとりを、​オプス・​デイの​子た​ちがいるべき世界の​所々に​蒔き​広めます。​麦は、​袋ごとではなく、​一粒​ひと粒、​蒔く​ものです。

​「あなたがたは、​主に​結ばれて、​光と​なっています。​光の​子と​して​歩みなさい。​光から、​あらゆる​善意と​正義と​真実とが​生じるのです」35。​私の​子の​生活が​使徒職の​実りを​豊かにも​たらさない​ことは、​偽り、​二重生活、​喜劇で、​ありえない​ことです。​繰り返しますが、​そういう​私の​子は​死んだも​同然で​腐っています。​Iam foetet​「もうに​おいます」36。​そして​私は、​(あなたが​たが​よく​知っているとおり)​遺体は​丁寧に​葬ります。

​仕事や​職務の​同僚や​親戚、​友人や​隣人との​個人的な​付き合いに​おいて、​友情と​親しい​語り合いの​使徒職で​彼らの​心を​揺さぶり、​利己的で​ブルジョア化した​生活の​視野を​広げ、​生活を​より​〈複雑〉に​してあげなさい。​彼らが​自分​自身を​忘れて、​周りの​人たちの​問題を​理解できるように​するのです。​そして、​あなたが​たが​経験したように、​彼らの​生活が​〈複雑〉に​なる時、​彼らには、​gaudium cum pace、​喜びと​平和が​も​たらされる​ことを​確信してください。

​この​使徒職​(それは​ディレクターたちの​教理的・​実践的な​導きに​よるので、​無秩序な​ものでは​ありません)を​絶えず​行っているなら、​あなたが​たの​周りに、​落ち着いた​雰囲気が​生まれるでしょう。​そしてあなたが​たの​家庭に​おいて​初代信者の​家庭が​再現されるのです。

​黙想会・講演・サークルなど、​オプス・​デイが​準備している​共同の​霊的・​教理的形成の​手段に、​また​オプス・​デイの​司祭の​霊的指導に、​この​個人的な​使徒職で​付き合っている​人たちを​近づけるよう​努めます。​と​いうのも、​これらの​手段は、​各々が、​仕事・​社会的立場・家族関係を​通して​行う​使徒職​(すべてが​使徒職です)に​よって​示す、​人々への​配慮を​より​完全に​する​ための​効果的な​(必要な)​手段だからです。

しかし、​そこで​留まっては​なりません。​あなたが​たの​親戚や​友人を​黙想会に​参加させたり、​オプス・​デイの​司祭の​指導を​受けるよう促すだけで、​満足するわけには​いきません。​あなたが​たの​使徒職が​そこで​終わるわけではないのです。​あなたが​たが​働き、​活動している​職業や団体​(機関、​組織)に​キリスト的な​方​向づけを​与えるべく​努力するなら、​その​時こそ、​すこぶる​実り​多い​使徒職を​行っている​ことに​なると​いう​ことを、​理解しなければなりません。

​これらの​組織や​機構が、​人の​命に​関する​キリスト教的な​基本概念に​沿う​ものとなるように​する​努力は、​非常に​広範囲に​影響を​与える​使徒職に​なります。​と​いうのも、​正義の​精神を​具現化する​ことに​よって、​人々に​彼らの​尊厳に​相応しく​生きる​ための​手段を​保証し、​また​多くの​人が​より​容易に、​神の​恩恵に​よって、​キリスト者の​召し出しに​個人的に​応える​ことを​可能に​するからです。

​私が​正義に​ついて​話す時、​この​言葉を​狭義にとらないでください。​と​いうのも​(人間が​幸せに​なるには)​一人​ひとりに​必要な​ものを​機械的に​与えると​いう​正義だけでは​不十分だからです。​私は​愛徳に​ついて​話しています。​愛徳は​正義に​基づきますが、​それを​超える​ものです。​キリストの​愛徳は​機械的な​ものではなく、​愛情を​伴う​愛なのです。

平和と​愛の​種蒔き

​それゆえ、​社会で​活動するに​あたり、​人々の​間に​対立を​醸しだすような​言動は​慎まなければなりません。​キリスト者なら​階級意識や​特権階級的な​考えは​しない​ものです。​一方を​立てる​ために​もう​一方を​貶めるような​ことは​すべきでは​ありません。​こういう​言動には​唯物論的な​考えが​潜んでいます。​すべての​人に​人格を​磨く​機会が​与えられ、​仕事に​よって​生活の​向上が​図られる​よう、​努力すべきなのです。​また、​憎しみを​避けるだけで​満足しては​なりません。​平和と​喜びの​種蒔きを​する​ことが​私たちの​「共通分母」であるからです。

​私の​子たちよ、​あなたが​たが​何であれ仕事を​企てる​時には、​神の​現存のもと、​その​企てを​生み出した​精神が、​キリストの​精神に​基づいているか​否かを​検討しなければなりません。​歴史的状況の​変化に​より​(それは​社会の​構成に​変化を​もたらします)、​ある​時期に、​正義に​叶っていた​ことがそうでなくなる​ことを​考慮に​入れましょう。​と​いうわけで、​停滞と​壊滅を​引き起こす惰性を​防ぐ​ため、​あなたが​た​自身が​絶えず​建設的な​批判精神を​持つ必要が​あります。

キリストの​ために、​あらゆる​高貴な​人間的な​価値を、​勝ち取らなければなりません。​「すべて​真実な​こと、​すべて​気高い​こと、​すべて​正しい​こと、​すべて​清い​こと、​すべて​愛すべきこと、​すべて​名誉な​ことを、また、​徳や​称賛に​値する​ことが​あれば、​それを​心に​留めなさい」37。​人間生活に​生じる​あらゆる​現実に​神的な​意味を​見出しつつ、​それを​神へ​導かなければならないのです。​それゆえ、​度々​繰り返してきましたが、​決して​超自然的な​観点を​失わない​ことが​必要です。​「何を​話すに​せよ、​行うに​せよ、​すべてを​主イエスの​名に​よって​行い、​イエスに​よって、​父である​神に​感謝しなさい」38

​いつの​時代も、​その​時代を​生き、​その​時代の​構造と​共に​「ある」ので、​あなたが​たには、​今日​言われているような、​aggiornamento​(アジョルナメント、​現代化)は​必要ありません。​と​いうのも、​あなたがたは​常に、​あらゆる​時代の​世界に​対して​理解と​責任を​伴った​希望を​持っており、​一致と​愛の​心を​常に​持ちながら、​人間の​自由と​尊厳の​価値が​肯定される​よう​要求していくからです。

​主は、​私たちの​召し出しに​よって、​被造物に​対する​肯定的な​見方と​キリスト教固有の​「世界への​愛」を​私たちが​表明する​ことを​望まれました。​あなたが​たの​仕事に​おいて、​また地上の​国を​建設する​ことに​おいて、​決して​夢を​失うべきでは​ありません。​同時に、​「肉を​欲情や​欲望もろとも​十字架に​つけた」​39キリストの​弟子と​して、​すべてを​人間の​進歩と​力に​頼る​「キリストの​十字架に​敵対する」​40人々の​偽りの​楽観に​対して、​罪と​寛大な​償いの​意識を​しっかりと​保つよう​努めなさい。

​このような​人々は​罪を​忘れると​いう​重大な​罪を​犯しています。​この​世には​罪は​存在しないと​考える​人さえいます。​一粒の​麦は​実りを​もたら​すためには​地に​埋められ死ななければならないと​いう​ことが​贖いの​計画の​一部​分を​なしていると​考えないのです41。​「彼らの​行きつく​ところは​滅びです。​彼らは​腹を​神とし、​恥ずべきものを​誇りとし、​この​世の​ことしか​考えていません。​しかし、​私たちの​本国は​天に​あります。​そこから​主イエス・キリストが​救い主と​して​来られるのを、​私たちは​待っています。​キリストは、​万物を​支配下に​置く​ことさえできる​力に​よって、​私たちの​卑しい​体を​御自分の​栄光ある​体と​同じ​形に​変えてくださるのです」42

この​深い​謙遜​(即ち、​強さは​戦車や​馬と​いう​手段にではなく、​私たちの​神の​名に​こそ​あります43)の​うちに​「恐れる​ことなく」人間の​あらゆる​活動や​組織に​参加してください。​キリストが​そこに​「いる」ためです。​私は、​私たちの​働き方に​聖書の、​ubicumque fuerit corpus, illic congregabuntur et aquilae​「死体の​ある​所には、は​げ鷹が​集まる​ものだ」​44と​いう​言葉を​当てはめました。​なぜならば、​万一、​あなたが​た​一人​ひとりが、​自ら​思いのままに、​無精を​決め込んだり、​楽を​求めたりして、​社会の​現在と​未来が​かかっている​仕事や​決定に​加わる​努力を​しないなら、​主なる​神は​私たちに​厳しい​決算報告を​要求なさるからです。

​私たちの​召し出しに​非常に​固有な​点は、​賢明に​(賢明であって​臆病でありません)、​積極的に、​物静かに、​目には​見えなくても​非常に​効果的な​行動を​する天使たちのように、​私的・​公的の​多様な​協会や団体に​参加する​ことです。​それは、​地域的な​ものから​国際的な​ものまで​多岐に​わたります。

​あなたが​たが、​会議や​学会、​展示会、​科学者あるいは​労働者の​集会、​研究会、​科学・文化・芸術・社会・経済・スポーツなどの​あらゆる​種類の​イニシアティブに​参加しないのは​許しが​たい​怠慢です。​ときには、​あなたが​た​自身が​主催する​ことが​あるでしょう。​多くの​場合、​他の​人が​組織した​ものに​参加するでしょう。​いずれに​せよ、​受け身的な​参加ではなく、​責任と​いう​重荷​(愛すべき重荷)を​感じながら、​あなたが​たの名声・イニシアティブ・影響力に​よって​自分が​そこで​必要な​存在と​なるよう​努力します。​それは、​あらゆる​組織に、​相応しい​気品を​与え、​キリスト教的精神を​吹き込むためです。

個人と​して、​グループを​作らずに​(あなたがたは​皆、​一人​ひとり、​現世の​すべての​事柄に​関して​制限なしの​自由を​享受しているのですから、​グループを​作る​ことは​できません)、​公的、​あるいは​私的な​組織の​中で​積極的かつ​効果的に​働いてください。​なぜなら​人間の​現世的な​善と​永遠の​善は​決して​無関係ではないからです。​例を​挙げる​ならば、​猟師協会や​収集家の​グループであっても、​多くの​善あるいは​多くの​悪を​なすために​活用され​得るのです。​すべては、​団体を​指揮する​人や​それに​着想を​与える​人に​かかっているのです。

​この​領域では、​各自が​自由と​責任を​もって​個人的に​働くように​と​勧めましたが、​あなたが​たの​周りに、​自分の​代理あるいは​後継者と​なりうる​兄弟たちを​育てる​時、​神に​奉仕しているのだと​いう​ことを​知っておいてください。​そう​すれば、​あなたが​たのうちの​一人が​欠けても、​〈畑〉の​一部が​放置されるような​ことは​ないでしょう。​もちろん、​兄弟たちを​育て​導くに​あたり、​彼らが​持っている​固有の​傾向を​歪める​ことがないようにします。

初代キリスト教徒の​行動の​仕方

​初代の​キリスト教徒は​上に​述べたように​振る​舞いました。​超自然の​召し出しが​あるからと​いって、​社会的、​あるいは​人間的プログラムを​持っていたわけでは​ありません。​しかし、​一つの​精神に​満たされ、​人生・世界に​関する​一つの​見方を​持っていたので、​彼らが​活動していた​社会に​影響を​及ぼさずには​いられなかったのです。

​私たちと​同じような​個人的な​使徒職で、​改宗者を​出していました。​聖パウロは​牢に​いる間、​諸教会に​「皇帝の​家」​45に​住んでいる​人たちからの​挨拶を​送っています。​使徒が​フィレモンに​送った​あの​手紙に​感動しませんか。​キリストの​パン種が​どのように​して、​愛徳の​影響を​通して、​(直接狙ったわけではないのですが)​主従関係に​新たな​意味を​与えるようになったかを​生き​生きと​証ししています46

​「私たちは​昨日生まれた​ばかりである。​しかるに、​大きな​都市や、​島々、​村々、​自治体、​議会、​兵舎、​民族、​集まり、​宮廷、​元老院、​広場など、​あなたが​たのいる​ところは、​キリスト信者で​いっぱいである。​残されているのは、​あなたが​たの​神殿だけだ」​47と、​1世紀が​過ぎた後、​テルトゥリアヌスが​書いています。

私の​子たちよ、​希望に​満ちて​元気一杯で​いなさい。​休まずに​「平和や​互いの​向上に​役立つことを​追い​求めようでは​ありませんか」​48。​「だれに​対しても​悪に​悪を​返さず、​すべての​人の​前で​善を​行うように​心がけなさい。​できれば、​せめて​あなたがたは、​すべての​人と​平和に​暮らしなさい」49

​Filii huius prudentiores filiis lucis in generatione sua sunt、​「この​世の​子らは、​自分の​仲間に​対して、​光の​子らよりも​賢く​振る​舞っている」50と​いう​主の​嘆きを、​自己を​鼓舞する​ために、​度々、​思い​起こしなさい。​厳しい​言葉ですが、​とても​的確です。​残念ながら​日々​見られる​ことです。

​そう​こうしている​うちに、​神と​教会の​敵たちは、​組織づくりの​ために​動き回っています。​〈模範的な​〉根気強さで​幹部を​育て、​指導者や​扇動者を​育成する​場を​設け、​それを​維持し、​密かに​(しかし、​効果的に)​彼らの​考えを​撒き散らし、​あらゆる​宗教的思想を​破壊する​種を​家庭や​職場に​運んでいます。

​私の​子たちよ、​今、​マルクス主義は、​様々な​形で​活発に​活動しています。​個人的に​叫び声を​上げると​いう​よりは、​体系的に、​絶え間なく​宣伝を​続け、​あらゆる​宗教的な​要素を​批判し、​無神論に​科学的な​根拠を​与えようとし、​地上的な​信仰と​希望を​作り上げ、​それを​真の​信仰と​希望と​入れ替えようと​しています。

​私は、​(教会が​教えと​両立し得ない​考えと​して​それを​幾度も​排斥している)マルクス主義を​歓迎する​カトリック信者を​理解できません。​彼らは、​神の​敵に​手を​貸し、​自分たちと​同じように​考えない​カトリック信者を​敵だと​考えます。​他の​信者を​悪く​扱い、​信者でない​人々に​見せかけの​愛徳で​接する​カトリックは、​大きな​間違いを​犯し、​正義に​反しています。​彼らは​偽の​愛徳で​誤ちを​覆い隠しています。​秩序の​ない​愛は​愛徳では​ありません。

私の​子たちよ、​「敵からの​助言」​51です。​賢く、​思慮深く​あるように。​眠りに​陥らないでください。​Hora est iam nos de somno surgere​「怠惰を​振り捨て、​眠りから​覚めるべき時です」52。​かつて​教会が​栄えていた​地方が、​今は、​キリストの​名さえ​聞く​ことができない​荒れ野に​なっている​ことを​忘れないでください。​このような​状況を、​「歪んだ​行間にも​真っ直ぐな​字を​書くのも​神の​ご計画の​うちであり、​そして​最後には​神が​勝利するのだ」と​考え、​その​失敗を​正当化しようとするのは、​安易な​態度です。​キリストは​常に​勝利者である​ことは​事実です。​しかし、​多くの​場合、​私たちの​過ちにも​関わらず、です。

​好戦的・​攻撃的にならずに、​in hoc pulcherrimo caritatis bello、​この​愛徳の​美しい​戦いに​おいて、​思いやりの​心で​皆を​歓迎し、​(イエス・キリストを​知らない​人や​愛していない​人が​掲げる​間違いに​与する​ことなく)​すべての​善意の​人たちと​協力します。​同時に、​主が​こう仰せに​なった​ことを​忘れないでください。​「わたしが​来たのは​地上に​平和を​もたら​すためだと​思ってはならない。​平和ではなく、​剣を​もたら​すために​来たのだ」​53。​人は​容易に​イエスの​柔和のみに​注目し、​〈生活を​複雑に​する​〉よう​駆り​立てる神の​言葉を​避けようとします。​その​言葉は、​安楽志向や​順応主義の​邪魔に​なるからです。

豊富な善で​悪を​封じ、​真理を​守る

​一般的に、​私たちは、​他者に​真実を​告げ、​真理を​守る​ことが​苦手です。​と​いうのは、​皆から​歓迎されるように、​誰かに​嫌な​思いを​させないように​努める​方が​楽だからです。​私の​子たちよ、​私たちの​振る​舞いは、​理解と​愛情に​満ちた​ものであるべきです。​私たちの​態度は、​誰かへの​反対を​目指すのではなく、ましてや​党派的な​ものでもありません。​あふれんばかりの​善で、​悪を​封じ込める​努力を​する​ことです。​私たちの​務めは​否定的な​ものではなく、​何かに​反対する​ことでも​ありません。​肯定と​若さ、​喜びと​平和です。​ただし、​真理を​犠牲に​してでも、と​いう​わけには​いきません。

​私たちは​各々の​自由な​人格を​育むので、​オプス・​デイに​おける​神の​子は、​自分で​考える​ことができる​人です。​一過性の​熱狂を​生み出す、​流行りの​スローガンやうたい​文句を、​何も​考えずに​受け入れる​わけでは​ありません。​受けた​あらゆる​形成の​お陰で、​私たちは​良い​ものを​選び、​悪い​ものを​捨てる​ことができます。​多くの​場合​(これまで​ほとんど​いつも​そうでした)​流れに​逆らって​新しい​道を​切り​開きつつ歩まなければならないでしょう。​独創的に​なりたいからではなく、​イエス・キリストと​その​教えに​忠実で​ありたいからです。​流れに​任せる​ことは​容易です。​しかし、​そのような​態度は、​しばしば​無責任の​表れです。

​確かに、​あなたが​たは​いつも、​同時代の​人たちの​考え方​や​習慣に​沿って​生きなければなりません。​けれども、​イエス・キリストに​おいて​「あなたが​たの​抱いている​希望に​ついて​説明を​要求する​人には、​いつでも​弁明できるよう​備えて」54 いなければなりません。​あなたが​たが、​イエスの​弟子である​ことが​分からないような​状態は、​受け入れられません。​あなたがたは、​すでに​社会の​中に​いるのですから、​順応する​必要が​ないのです。​順応に​走る​態度には、​なんと​感傷や​恐れ、​臆病に​流される​傾向が​ある​ことでしょう。

私の​子たちよ、​私の​言葉の​裏に、​すべての​人に​対する​大きな愛、​人々の​あらゆる​種類の​不安や​問題に​開かれた​心、​差別や​排他的な​態度を​知らぬ理解に​満ちた​心以外の​ものを、​見ないでください。​私たちを、​ひるまないように、​すでに​成し遂げたことに​対して​常に​満足しないように、​栄冠の​上に​惰眠を​むさぼらないように​駆り立てるのは​(caritas enim Christi urget nos​「キリストの​愛が​わたしたちを​駆り立てている」55)、​恐れではなく​(私たちは​何を​も誰を​も、​私たちの​父である​神を​も恐れません)、​いつか​私たちが、​共同の​贖い​者と​しての​使命に​関して、​主である​神に​報告を​しなければならないと​いう​責任感です。

​「怠らず​励み、​霊に​燃えて」56 時間を​活用しなさい​57。​人生は​短いからです。​「今、​時の​ある​間に、​すべての​人に​対して、​特に​信仰に​よって​家族に​なった​人々に​対して、​善を​行いましょう」58。​この​哀れな​私たちの​世を​愛で​満たしましょう。​私たちの​ものなのですから。​神が​創造し、​遺産と​して​私たちに​与えられたのです。​Dabo tibi gentes hereditatem tuam et possessionem tuam terminos terrae​「わたしは​国々を​お前の​嗣業とし、​地の​果てまで、​お前の​領土と​する」59。​可能な​ことは​誰に​でも​できます。​そして​私たちの​主なる​神は、​不可能だと​思える​ことを​私たちが​行うよう​お望みであると​いう​ことに​留意してください。​神は​それを​実現する​ための​恩恵を​くださいます。

理想主義に​留まらず、​現実主義者で​ありなさい。​偉大な​事柄、​働く​ための​広大な​領域、​多くの​活動と​可能性を​夢見ると、​それらの​ことを​眺めるだけで​満足し、​具体的な​事​(hodie, nunc​「今日、​今」)を​忘れてしまうことも​あり得ます。​これら具体的な​事柄こそ、​いつの​日か夢を​実現させ得る​ものである​ことを​忘れては​なりません。

​この​麗しい​戦いに​おいて、​落ち着きを​保ってください。​不安に​苛まれる​ことは​有害な​ことです。​Corripite inquietos​「怠けている​者たちを​戒めなさい」60と​パウロは​テサロニケの​共同体に​訓戒しています。​「聞く​ところに​よると、​あなたが​たの中には​怠惰な​生活を​し、​少しも​働かず、​余計な​ことを​している​ものが​いると​いう​ことです」61。​そして、​義務を​果たすと​いう​唯一の​手段を​彼らに​与えました。​すべきことを​なし、​している​ことに​集中する​時、​神の​偉大な​ご計画を​実現している​ことに​なるのです。​使徒は​続けて​言います。​「兄弟の​皆さん、​主イエス・キリストの​愛に​結ばれた​者と​して、​そのような​人たちに​命じ、​勧めます。​黙々と​働いて、​自分で​稼いだパンを​食べなさい」62

あらゆる​人間的活動の​頂点に​キリストを​置く

​主は、​あなたが​たの夢と​活気に​あふれた​絶え間ない​仕事に、​どれほど​期待しておられる​ことでしょう。​度々、​感情が​伴わずやる​気が​出ない​ことが​あっても、​あなたがたは、​そのような​仕事に​よって、​この​世の​あらゆる​活動を​キリスト教的な​ものにしようと​頑張っているのです。​つまり、​人間の​諸活動の​頂点に​キリストを​据えようと​しているのです。

​この​仕事は、​特に​私の​スーパーヌメラリである​息子たちと、​キリストの​塩と​光を​自分の​置かれた​場所、​つまり​家庭や​社会生活そして​様々な​職業にもたらすに​あたり、​(ときに​男性以上に​たくましい)​スーパーヌメラリの​娘たちの​ものです。

​旧約聖書の​あの​場面、​ユディトが​敵軍に​街を​明け渡す心積もりの​民と​指導者たちの​思いを​変える​場面を​再読してください。​聖書は​こう​言っています。​「人々が​町の​指導者オジアを​非難した​ことは、​ユディトの​耳にも​入った。​(…)​それで​ユディトは、​(…)​町の​長老の​オジアと​カブリスと​カルミスを​招いた。​彼らが​やって​来ると​ユディトは​言った。​『ベトリアの​住民の​指導者である​方​々、​どうかわたしの​申し上げる​ことを​お聞きください。​今日、​人々の前であなたが​たが​言われた​ことは​間違っています。​(…)。​いったい​あなたがたは​何者ですか。​あなたがたは​今日、​神を​試みたうえに、​神に​代わって​人々の​間に​君臨しようと​しているのです。​ 今、​あなたが​たが​瀬踏みを​している​相手は、​全能の​主です。​いつまで​たっても​何も​分かりは​しないでしょう』」​63。​力に​満ちた​大胆な​この​諌めは、​超自然的で​勇気の​ある​良心に​忠実な​女性が​キリストに​関わる​ことを​守る​時、​社会の​行方に​大きな​影響を​(通常は​静かに、​目立たずに、​でも​非常に​効果的なやり方で)​与える​ことを​示しています。​また​聖マリアと、​あの​聖なる​婦人たちの​強さを​も黙想してください。​彼女たちは、​皆が​臆病風に​吹かれ、​男性たちが逃げ去った​時、​果敢にも​十字架のもとに​踏みと​どまっていたのです。

​私の​子たちよ、​この​良い​精神を​保つなら、​使徒言行録に​ある​イエスの​弟子に​関する​言葉が、​あなたが​たに​当てはまるでしょう。​「使徒たちの​手に​よって、​多くの​しるしと​不思議な​業とが​民衆の​間で​行われた」64。​あなたが​たに​よって、​目立たないけれども、​確かに​本物の​奇跡が​行われる​ことでしょう。

仕事や​社会に​おける​生活、​そして​一般的に、​現世に​関する​すべての​事柄に​おいて、​一人​ひとりは​自由と​責任を​もって​振る​舞い、​素晴らしい​多様性を​保ちつつ、​いつも​良心に​従いながら​各自が​意見を​形成していきます。​その際、​教会や​オプス・​デイを​巻き込まないでください。​それは​できません。​と​いうのも、​あなたがたは​「十全なる​社会人と​しての​考え方」​( fully lay mentality)を​もっており、​それゆえ、​自由の​友だからです。​そして、​その​自由は​イエス・キリストの​教理と​倫理に​よって​定められた​事柄以外の​制限を​受けない​自由です。

​神の​業​(オプス・デイ)の​目的と​手段は​現世的な​ものではなく、​完全に​そして​専ら超​自然的で​霊的な​ものです。​オプス・​デイは、​人間的な​関心事、​政治、​経済などとは​無関係です。​その本質上、​地上の​社会を​超越しており、​それゆえ、​決して​特定の​文化に​錨を​下ろすことも、​具体的な​政治体制に​結びつく​ことも、​歴史上の​ある​特定の​時代に​繋がれる​こともありません。

​ときに、​オプス・​デイは​組織と​して​使徒職的な​事業を​促進する​ことがあります。​それらの​(教育、​キリスト教​広報、​福祉などの)​事業は、​すべての​人に​知られ、​また、​カトリックではない人、​あるいは​キリスト者ではない​人を​も​含め、​すべての​人に​開かれています。​いずれも、​各国の​法律の​定めに​従って​運営されます。​これらの​事業は、​教会の​事業では​ありません。​なぜなら、​それらは​使徒職的な本質と​目的を​持っているとは​いえ、​専ら​市民に​よる​職業的な​活動だからです。

市民と​しての​義務を​生きる​キリスト者の​自覚

しかしながら、​私たちオプス・​デイが、​現世の​社会、​経済あるいは​社会事業、​政治活動などの​関心事と​全く​無縁であると​いう​事実は、​現世の​社会を​動かす精神​(あるいは​その​欠如)に​対して、​関心が​ない​意味では​ありません。​私たちは、​人々が​市民と​しての​義務を​明確に​自覚し、​それを​人と​して、​また​キリスト者と​して​正しく​果た​すことに​関心が​あります。

​子ども​たちがキリスト教要理を​学ぶ際、​これらの​義務に​ついても​問答形式で​触れる​べきだと、​私は​度々​言ってきました。​それは、​幼年時代から、​これらの​事柄は​神の​掟である​ことを​知性に​刻みつけ、​長じて​大人に​なった​時に、​それを​果たす責任を​感じようになる​ためです。

時々、​主が​神の​ものと​皇帝の​ものを​区別された​こと​65に​ついての​誤解が​あります。​キリストは、​教会と​国家と​いう​二つの​法的な​権威の​領域を​区別し、​そのことに​より、​皇帝独裁と​「聖職者主義」と​いう​有害な​影響に​対する​予防を​図りました。​主は、​司祭職に​対する​深い​真実の​愛である​健全な​「反聖職者主義」を​教え​(司祭職の​高貴な​使命が、​この​世の​事柄や​卑しい​事柄と​混ざり合い、​その​品位を​落とすのは​残念な​ことです)、​神の​教会の​自治と、​市民社会が​享受する​統治と​その​構造に​ついての​正当な​自治を​定めました。

​しかし、​キリストが​定められた​区別は、​宗教を​神殿​(香部​屋)に​押し込める​ことでは​全く​ありません。​また​人間的な​事柄は、​神と​キリスト教の​掟と​関わりを​持たない形で​整備されなければならないと​いう​ことでも​ありません。​なぜなら、​それは​キリストの​信仰を​否定する​ことに​なるからです。​信仰は、​全人​格的な​キリストへの​一致を​要求し、​そして​人間は​霊魂と​体からなる​個人であり、​この​個人は​社会の​一員だからです。

​キリストの​メッセージは​個人的な​信心の​実践と​いう​狭い​領域だけでなく、​人間の​生活全体を​初めから​終わりまで​照らします。​世俗主義は​行いに​よる​信仰の​否定です。​信仰に​よって、​この​世の​自治は​相対的な​ものである​こと、​そして​この​世の​すべての​事柄の​究極的な​意味は​神の​栄光と​人々の​救いであると​いう​ことが​分かります。​世俗主義は​その​信仰を​否定するのです。

それゆえ、​教会と​同様に​オプス・​デイは​(オプス・​デイは​教会の​生きた​器官の​一つです)、​人間社会に​関心を​持っています。​社会の​中には​譲渡できない​キリストの​権利が​あり、​それを​守る​必要が​あるからです。​それは​オプス・​デイの​全使​徒職は、​「教理を​与える​こと」に​要約できると​言える​ほどです。​つまり、​メンバー全員と​その​形成に​与っている​人々が、​仕事を​聖化し・仕事に​おいて​自己を​聖化し・仕事に​よって​他者を​聖化しながら、​職業を​通した​使徒職活動を​個人的に、​市民と​して、​行う​ために​教理を​与えると​いう​ことです。

​繰り返し言ってきた​ことですが、​オプス・​デイは、​通常、​外的には​活動しません。​あたかも​存在していないかのようです。​各国の​法律を​尊重し、​その​範囲内で​働くのは​メンバーたちです。​オプス・​デイの​活動は、​主に、​その​メンバーに、​霊的・​教理的・​使徒職的な​深い​形成を​与える​ことです。

​オプス・​デイの​活動は​広大な​カテケージス、​広大な​霊的指導のような​ものです。​たくさんの​人の​良心を​照らし、​導き、​動かし、​刺激し、​励まします。​それに​よって​彼らが​ブルジョア化しないよう、​キリスト信者と​しての​尊厳を​生き​生きと​保つよう、​責任ある​カトリック市民の​諸義務を​果たすように​するのです。

スーパーヌメラリの​形成

スーパーヌメラリである​私の​子たちよ、​オプス・​デイが​あなたが​たに​与える​形成は​柔軟性の​ある​ものです。​手に​なじむ手袋のように、​あなたが​たの​個人的・​社会的状況に​適合します。​あなたがたは​霊的指導に​おいて​話すに​あたり、​仕事や​家庭、​社会的義務の​具体的状況を​はっきり示さなければなりません。​私たちの​精神と​修徳の​手段は​一つしか​ありませんが、​それらを​硬直化させずに​各々の​状況に​合わせて​実現させる​ことができ、​また​実現させなればならないからです。

​出遭う​困難​(​それらは​度々想像上の​ものです)を​前に​して、​あなたが​たの​精神の​自由と​平和が​決して​乱れないよう、​ディレクターに​誠実に​話してください。​必ず解決策が​あります。​私たちが​受ける​霊的形成は、​複雑さや​小心、​内的な​萎縮とは​正反対の​ものである​ことを​考慮してください。​オプス・​デイの​精神は、​心を​自由にし、​生活を​単純にし、​ねじれや​複雑化を​避けるように​してくれます。​自分を​忘れて、​寛大に​他者の​ことを​考えるように​してくれます。

​スーパーヌメラリは、​形成を​受ける​ため、​例外的に​ヌメラリたちが家族生活を​する​センターに​行く​必要が​あります。​主が​あなたが​たを​招かれた​場である​職場や​家や​街中で、​ディレクターや​世話役​(セラドール)と​会うより​慎みが​あります。​グループで​形成を​受ける​ために​共同の​使徒職の​センターに​行く​ことは、​慎みを​欠く​ことには​なりません。​それは、​共同の​使徒職は​あらゆる​人に​対して​完全に​開かれているからです。

オプス・​デイは、​霊的・​修徳的形成と​共に​堅固な​教理的形成を​与えます。​これは、​オプス・​デイに​おける​神の​子たちの​「共通分母」​(家庭的雰囲気)を、​十全に​する​ために​欠かせない​ものです。​あなたが​たが、​多くの​人の​知性に​光を​与え、​ときに​四方​八方から​来る​攻撃から​教会を​守る​ためには、​根本的な​テーマに​ついての​基礎的な​知識・理解を​持っている​必要が​あります。​教義的・​倫理的真理、​キリスト信者の​家庭と​教育に​求められている​事柄、​仕事・休息・​私有財産の​権利、​結社や​表現の​自由などに​ついての​明確な​知識・理解を​持っている​必要が​あります。​このように​して、​veritas liberabit vos​「真理は​あなたたちを​自由に​する」​66と​いう​言葉の​真理を、​喜びを​持って実感する​ことができるでしょう。​真理は​あなたが​たに​喜びと​平和、​実りを​もたらす力を​与えてくれるからです。

​年の​研修会​(それは、​初期の​熱意を​保ち、​宗教的教養を​高め、​使徒職に​備えて​自分を​鍛える​ための​助けと​なります)、​サークル、​講演会、​専門的コースなどに​おいて​継続的な形で​豊富に​教理を​学び、​同時に、​キリスト教的な​観点から、​現代社会の​問題に​ついて​知識を​得ます。​これらの​形成を​あなたがたは​読書で​補います。​いつも​皆さんが​利用できる​移動図書館が​ある​ことでしょう。​それに​登録して​活用し、​メンバーで​ない​人たちも​登録するよう​努めます。

​あなたが​たに​与えられた​教理を、​自分の​ものに​するよう熱心に​励み、​滞らないように​してください。​受けた​形成を​他者に​伝える​必要性と​喜ばしい​義務感を​感じてください。​それが​他者の​心に​おいても、​正しい​意向に​満ちた、​良い​行いと​して​実るように。

​今述べた​理由で、​スーパーヌメラリの​世話を​する​センター委員会は、​その​仕事に​献身する​必要が​あります。​と​いうのも、​誰一人として​彼らが​(誰一人と​して​私の​子が)、​孤独を​感じるような​ことが​決して​あってはならないからです。​休暇の​時期や​孤立状態を​余儀なくされた​時、​どのように​彼らに​形成を​提供するか、​注意を​払って​事前に​考えておかなければなりません。

​兄弟の​統治や​指導の​仕事を​託されている​私の​子たちは、​往々に​して、​個人的な​仕事の​輝きを​放棄する​必要が​あります。​隠れた​切石のように、​より​重要な​仕事の​基礎固めを​する​ためです。​この​統治や​形成の​活動は、​私たちの​共同の​使徒職に​全面的に​献身している​他の​兄弟たちの​活動と​同じように、​常に​プロフェッショナルな​仕事である​ことを​決して​忘れては​なりません。

旅人よ、​己が​道を​歩め

オプス・​デイが​メンバーに​形成を​与えるのは、​各メンバーが​社会に​おいて、​職業の​実践に​おいて、​個人の​自由を​もって、​キリスト者らしく​行動する​ためです。​オプス・​デイの​ディレクターたちは、​この​世の​事柄に​関して、​特定の​意見を​押し付ける​ことは​決してしません。​繰り返します。​あなたが​た​一人​ひとりが、​しっかりと​形成された​良心に​従って、​全く​自由に​行動します。

​内戦が​終わったばかりの​1939年、​バレンシアの​近くで​黙想会の​指導を​しました。​場所は、​戦時中共産党の​兵舎と​して​使われていた、​大学の​私立学生寮でした。​ある​廊下で、​反体制派の​人が​書いた​「旅人よ、​己(おの)が​道を​歩め」と​いう​張り紙を​見つけました。​皆は​それを​取り払いたかったのですが、​私は​止め、​彼らに​言いました。​「そのままに​して​おきなさい。​敵からの​助言67だ。​気に入った」。​その​時から​特に、​何度も​この​言葉を​説教の​テーマと​して​活用しました。​自由に、​各自が、​自分の​道を​歩め。​キリストの​教えが​制限を​示していない​事柄に​ついて、​唯一の​基準を​すべての​人に​強制する​ことは、​不条理で​不当な​ことです。

​現世的な​すべての​事柄に​おいて、​全く​自由です。​世界の​物事を​秩序づける​ために、​キリスト教的な​唯一の​形式などないからです。​社会的・​科学的・​経済的・​政治的問題の​解決策は​たくさん​あります。​そして、​それらは​自然法と​福音の​教えを​含む​最小限の​原理原則を​尊重する​限り、​すべて​キリスト教的な​解決策なのです。

​私の​子たちよ、​現世的な​事柄に​おいて​自由、​そして​教会に​おいても​自由です。​私は​根っからの​(皆さんに​何度も​話してきた​あの​健全な)​反聖職者主義で、​私と​同じ​精神を​持っている​人も​そうです。​(司祭と​しての​良い​精神の​ない)​聖職者主義的な​環境に​おいて、​あまりにも​頻繁に、​一致を​口実に​独占が​行われます。​人々を​小さな​グループに​閉じ込め、​信徒の​良心の​自由を​脅かします​(信徒は​自身の​霊的な​指導や​形成を​探すに​あたり、​自身が​望み、​自身が​最も​適切であると​判断した​ものを​求めるべきです)。​そして​彼らは、​すでに​神と​教会の​掟は​十分あるのに、​否定的で​不必要な​掟を​増やし、​その掟を​科せられた​人に​心理的負荷を​加えます。

自由

​私の​子たちよ、​自由です。​世俗の​事柄に​関して、​オプス・​デイからの​指示を​決して​期待しては​なりません。​オプス・​デイが​霊的な​子たちに​与えている​自由を​脅かそうとする​人は、​私の​精神を​持っていない​人で、​それは、​オプス・​デイに​おける​神の​子一人​ひとりの​個性を​踏みに​じる​ことになります。

​現世的諸問題に​対して​敏感であるべきなのは​皆さんです。​あなたがたは、​受けた​形成に​よって、​自由に、​諸問題を​敏感に​意識できる​人に​なり、​その​結果、​正しい​基準で​正しい​方​向に​導くべく、​人間の​諸問題や​不確かな​社会状況に​対して、​自発的に​反応します。​他の​市民と​共に、​歩む道に​現れる​現世的な​問題に​対して、​良心に​従って、​勇気を​もって​人間的・​キリスト教的な​解決策を​探すと​いう​リスクを​取るのは​皆さんの​役割です。

​オプス・​デイが​あなたが​たに、​すでに​出来上がった​解決策を​与える​ことを​期待しても​無駄です。​かつて​そのような​ことは​なかったし、​これからも​決して​そのような​ことは​起こりません。​私たちの​本質に​反する​ことだからです。​オプス・​デイは​「家父長主義」では​ありません。​この​言葉の​意味は​曖昧ですが、​ここでは​否定的な​意味で​この​言葉を​使っています。​皆さんの​ディレクターたちは、​あなたが​たが​持っている​反応力と​率先力を​信頼しています。​彼らが​あなたが​たの手を​とって​導く​ことは​ありません。​ところで、​霊的な​領域に​おいては、​彼らは​あなたが​たに​対して​父親・母親と​しての​心を​持ち、​良い​意味での​「家父長主義的」な​心を​持っています。

​それゆえ、​オプス・​デイで​享受している​自由ゆえに、​私たちが、​社会の​中に​おいて、​いわゆる​圧力団体を​形成する​ことは​あり得ません。​ディレクターた​ちが、​現世の​問題に​ついて​具体的な​基準を​示すような​ことが​あれば、​別の​考えを​持っている​オプス・​デイの​他の​メンバーた​ちが、​反発する​ことは​至極当然な​ことです。​その​時は、​悲しい​ことですが、​私は​きっぱりと​従う​ことを​拒否する​人たちを、​祝福し、​称賛しなければならない​ことでしょう。​このような​場合には、​早急に​地域委員会の​ディレクター、​あるいは​パドレに​知らせるべきです。​また​私は、​聖なる​憤りを​もって、​ありも​しない​権限を​振りかざそうとする​ディレクターたちを​咎めなければならないでしょう。​また​私の​子の​誰かが​(自らの​自由を​口実に)​現世の​事柄や​自由に​意見できる​事柄に​関して、​個人的な​基準を​押し付けて、​兄弟たちの​正当な​自由を​制限するような​ことが​あれば、​それは​強い​叱責に​値します。

​この​明白な​ことを​見ないように​努め、​なにか隠し事を​しているのだと​言い、​ありも​しない​秘密を​捏造する​人は、​おそらく、​ex abundantia cordis​「心に​あふれている​ことから」​そのように​するのでしょう。​彼らは​そのように​行動しているからです。​隠し事は​これまで​存在したことがありませんし、​今後も​必要と​なる​ことは​決してありません。​彼らは​決して、​私たちのように、​顔を​あげ他の​人の​目を​明る​い光で​見る​ことができないでしょう。​各自が​個人的な​惨めさを​持っていたとしても、​私たちには​隠すものが​ないからです。​その​惨めさとは​各自が​内的生活に​おいて​戦います。

ある​人たちは、​ここ31年の​間、​私たちの​活動を​嫉妬心の​うちに​見ていました。​別の​人たちは、​余り​好意的に​見ませんでした。​それは​教会に​対して、​そして​すべての​人々の​善の​ために​献身している​人たちに​対して、​好意を​持っていないからです。​それに、​幸いにも​少数でしたが、​聖職者主義に​よって、​私の​子たちの​仕事が、​本質的に​世俗的な​ものである​ことを​理解できない​人も​いました。​また、​主に​仕える​人たちには、​主なる​神が​恩恵​(固有の​恩恵)を​与えてくださる​ことを​知らなかったり、​それを​思い出す​ことを​望まない​人も​いました。​彼らは、​オプス・​デイの​使徒職の​熱意と​広がりと​効果を​説明する​ために、​全く​偽りの​人間的な​理由を​捏造しました。​しかし​私たちの​目的は​超自然的な​もので、​用いる​手段も​また​全く​霊的で​超自然的な​もの、​つまり​祈りと​犠牲そして​聖化され聖化する​仕事です。

​他者の​個人的な​自由を​尊重し理解する​ことができない​人が​います。​彼らは、​オプス・​デイの​メンバーは​一つの​全く​霊的な​共通目的を​持っており、​この​目的に​おいて​のみ​一致している​こと、​そして、​世俗の​問題に​関しては​他の​市民と​同じく​自由な​市民であり、​皆と​仲良く​共に​生きるべきである​ことを​理解できないようです。

​先述した​人々の​中には、​香部屋の​閉鎖的な​雰囲気から​来た​人が​います。​彼らは、​修道者が​自分の​意見を​「所属している​修道会の​学派」に​合わせたり、​「上長の​考え方」に​合わせるのに​慣れっこに​なっています。​神の​子たちの​活動に​おいて​私が​誰を​も排斥しなかったが​ゆえに、​彼らは​「この​聖職者主義的な​偏見から」、​オプス・デイあるいは​私個人に、​(フリーメーソンと​言わないまでも)​王党派または​共和派の​レッテルを​貼ろうとしました。

私の​子たちよ、​あなたが​たの​使徒職的活動は、​教会と​しての​任務では​ありません68。​あなたが​たの中の​誰かが​キリスト信者の​会​(associations of the faithful)の​一員であっても、​それ自体と​して​不都合は​ありませんが、​それは​普通では​ありません。​オプス・​デイは、​あなたが​たが​特有の​使徒職​(神が​私たちに​お望みの​使徒職)を​するように​形成を​与えますが、​その​使徒職は​宗教団体的な​色合いを​持つものではないからです69

​私たちは、​慎み深く、​団体と​しての​謙遜を​生きています。​なぜなら​成功や​勝利を​誇示する​ことなく、​静かに​働くので​(しかし​重ねて​言いますが、​謎めいた​ことや​秘密っぽさなしにです。​それは​神に​仕える​ために​不必要です)​他の​カトリック信者から​注目される​ことは​なく​(なぜなら​あなたが​たは​カトリック信者の​中の​一人だからです)、​良い種を​蒔いたからと​いって​拍手を​受ける​こともありません。

​しかし、​特に​農村部など、​信者の​団体​(confraternities)や​小教区の​使徒職的団体に​参加しない​ことが​悪い​印象を​与える​可能性の​ある​地域に​おいては、​そのような​団体に​参加する​ことができます。​その際、​それらを​活気づけ盛り上げるよう​努めますが、​通常は​役職に​就く​ことは​ありません。​ですから、​キリスト信者の​会を、​残念ながら、​独占的な​野心を​持って指導する​人々は、​自らの​排他的独裁が​奪い​取られる​ことを​恐れる​必要は​ありません。​彼らの​活動は​彼らの​ものであり、​私たちは、​彼らと​異なる、​私たちの​固有の​方法で​行動すべきだからです。

​しかし、​あなたがたは​キリスト信者である以上、​状況や​「より​高い​使徒職の​効果」が​別の​行動を​促さない​限り、​社会が​神に​捧げる​義務の​ある​公の​礼拝から​遠ざからないでください。​私は​そのような​礼拝が、​共同体や​家族、​神の​民の​参加なしで​催されているのを​眺めて、​苦しい​思いを​した​事が​何度も​ありました。​私は、​あなたが​たが​忠実である​ならば、​その​公の​礼拝が​本物に​なる​こと、​大げさで​極端な​ものにならずに、​質素で​格調の​ある​ものに​なる​ことを​確信しています。

市民と​しての​権利と​義務を​遂行する​ことに​おける​使徒職

私の​子たちよ、​あなたが​たに​繰り返したいと​思います。​あなたが​たが​実現する​特有の​使徒職は、​福音と​使徒的教えに​即した、​市民と​しての​国への​全面的で​誠実な​忠実さを​もって​行われます70。​その際、​法に​忠実に​従い、​市民と​して​すべての​義務を​守り、​義務の​遂行から​逃れません。​また、​共同体の​善の​中で、​すべての​権利を​軽率に​放棄する​ことなく​行使します。

​この​市民権の​行使に​関する​聖パウロの​生きた​模範が、​使徒言行録に​あります。​全くの​誠実さの​表れである、​臆病な​人には​傲慢とも​思えるような​堅固さで、​使徒は​必要な​時に​自らが​ローマ市民である​ことを​明らかにし、​その​権利を​主張し、​無為に​謙遜を​装う​ことなく、​ローマ市民と​して​扱う​よう​要求します。​「ローマ帝国の​市民権を​持つわた​したちを、​裁判にも​かけずに​公衆の​面前で​鞭打ってから​投獄したのに、​今ひそかに​釈放しようとするのか。​いや、​それは​いけない、​高官た​ちが​自分で​ここへ​来て、​わたしたちを​連れ出すべきだ」​71

​このような​毅然とした​態度で​フィリピの​看守に​話しました。​そして、​エルサレムで​鞭打たれる​寸前に​パウロが​護民官と​交わした​会話は、​人と​しての​気品に​満ちた​素晴らしい​ものです。​「パウロを​鞭で​打つ​ため、​その​両手を​広げて​縛ると、​パウロは​側に​立っていた​百人隊長に​言った。​『ローマ帝国の​市民権を​持つ者を、​裁判に​かけずに​鞭で​打っても​よいのですか』。​これを​聞いた​百人隊長は、​千人隊長の​ところへ​行って​報告した。​『どうなさいますか。​あの​男は​ローマ帝国の​市民です』。​千人隊長は​パウロの​ところへ​来て​言った。​『あなたは​ローマ帝国の​市民なのか。​わたしに​言いなさい』。​と​言うと​パウロは​『そうです』と​言った。​千人隊長が​『わたしは​多額の​金を​出して​この​市民権を​得たのだ』と​言うと​パウロは​『わたしは​生まれながらの​ローマ帝国の​市民です』と​言った」72。​私の​子たちよ、​コメントする​必要は​ないでしょう。​手本に​しなさい。

折に​ふれて​強調しましたが、​私的な​領域への​国家の​介入と​いう​嘆かわしい​現実が​進行しています。​これは​市民を​隷属状態に​陥れ、​彼らの​正当な​自由を​奪います。​国家は​冷たく​思いやりのない​ものですから、​全体​主義は​最も​厳しい​封建主義より​いっそう​悪い​ものに​成り​変わります。

​他の​諸々の​理由は​さて​おき、​このような​ことが​起こるのは、​大方、​市民の​消極性に​よる​もの、​かれらの​聖なる​人権を​守る​ことに​対する​受け身的な​態度に​よる​ものです。​この​行動の​欠如は、​知的怠惰や​活力の​ない​意思に​由来する​もので、​カトリック市民の​中にも​見られます。​彼らは、​第六戒に​反する​罪の​他に​罪が​ある​ことに、​そして​それよりも​重い罪が​ある​ことに、​気づかないのです。

娘たち、​息子たちよ、​神が​私たちに​委ねられた​使命と​全面的に​世俗的な​性格を​持つ​私たちの​召し出しゆえに、​人の​世の​どんな​出来事や​どんな​任務にも​無関心を​かこつことは​できません。​それゆえ、​繰り返しますが、​生活に​おける​人との​関わりから​生じる​社会的な​活動の​中にに​あなたが​たが​「いる」​必要が​あります。​または​そこで​直接あるいは​間接的に​影響力を​持つことが​必要です。​あなたがたは、​職業団体、​保護者会、​大家族会、​労働組合、​新聞社、​芸術・文芸・スポーツの​振興会などに​活気を​与え、​それらに​命を​吹き込むべきです。

​あなたが​たの​一人​ひとりが​自己の​社会的立場に​従って、​そして​個人的な​状況に​最も​相応しい​やり方で、​これらの​公共の​活動に​参加したら​いいでしょう。​もちろん、​個人的に​行動する​場合に​おいても、​協力するに​値すると​考える​市民の​グループと​共に​行動する​場合に​おいても、​あなたがたは​全く​自由に​行動します。

​今、​話している​公的な​生活への​参加とは、​もちろん​厳密な​意味での​政治活動の​ことでは​ありません。​私の​子たちで、​いわば​「プロ」と​して​政治に​携わっているのは、​ごく​僅かです。​私が​話しているのは、​市民と​しての​義務を​認識している​すべての​人々に​当てはまる​活動の​ことです。​あなたがたは、​同胞の​市民を​駆り立てる​あらゆる​高貴な​動機と​同じ​動機に​動かされて、​個人的な​自由と​責任を​もって、​行動するよう​急き立てられている​ことを​自覚しなければなりません。​それに​加えてあなたがたは、​特に、​使徒職の​熱意と、​すべての​人間的活動に​平和と​理解を​もたらす望みに​よって​駆り立てられる​ことしょう。

このように​働き、​同胞の​市民と​一体と​なり、​彼らを​動かし、​人々の​正当な​望みを​表していない​物事が​押し付けられる​ことがないように​世論を​作り上げる​ことに​よって、​あなたがたは​国内の​法を、​特に​結婚・教育・​公共の​倫理・所有権に​関する​ものなど​国民の​生活に​おいて​鍵と​なる​法を、​キリスト教的な​形に​方向づける​ことができるでしょう。

​家族の​尊重が​離婚に​基づくような​法が、​キリスト教的な​法と​呼べるでしょうか。​宗教の​多様性を​誇りに​する​社会が、​一方で​公教育で​生徒の​信仰に​沿った​宗教教育を​受ける​権利を​認めないとは​どんな​理屈でしょうか。

​私的所有権は​(それは​共通善に​よって​制約を​受けます)、​自由を​行使する​ための​手段であり、​人間の​成長と​家庭の​発展の​ための​土台の​一つである​ことに​気づきませんか。​これらの​権利が​尊重されていない​国は、​カトリック的でも​人間的でもない国です。​あなたが​たの前に​広がる​展望が​見えますか。​あなたがたは、​これらの​点や​その​他の​重要な​点に​おいて​しっかり​戦わなければならないのです。

協力者たちと​共に​積極的に​働きなさい。​恐れずに​協力者を​増やしなさい。​数は​多い​ほど​良いのです。​彼らの​世話を​し、​形成を​与えなさい。​協力者た​ちが、​いつも​やるべきことを​持っているようにしましょう。​スポーツの​トレーニングのように、​彼らが​いつも​動いているようにしなさい。​絶えずあなたが​たの​友人の​輪を​ひろげ、​種々の​やり方で、​彼らに​教理と​活力が​届くようにしなさい。​こうして、​弱いように​見えても​効果的な、​神的な​ネットが​張り巡らされるでしょう。​この​良い​使徒職的精神の​熱意を​保つなら、​穏やかで​力強い、​計り​知れない​善が、​全人​類にも​たらされるでしょう。

​協力者と​なっている​修道会​(特に​観想修道会)も​祈りと​隠れた​生活で​私たちを​助けてくれます。​彼らは​世間の​中で​観想的に​生きる​私たちの​精神を​良く​理解しています。​彼らは​世俗から​離れて​生きる​観想者であり、​私たちは​市民社会に​抱かれて、​その​中で​生きる​観想者です。​これは​同じイエス・キリストへの​愛の​二通りの​(それぞれ固有で​異なる​形の)​表れです。

​私たちの​間には、​使徒職活動に​おいて​力を​合わせて​気高い​態度で​働く、​あるいは​私たちが​働けるように​助ける、​多くの​友人や​協力者が​います。​そして​中には​主である​神から​離れていたり、​未だ主に​出会っていない​人もいます。​あの​聖ペトロの​言葉を​黙想してください。​Satagite ut, per bona opera, certam vestram vocationem et electionem faciatis​「(良い​行いを​通して)、​召されている​こと、​選ばれている​ことを​確かな​ものとするように、​いっそう​努めなさい」73。​私たちが​兄弟のように​愛している​この​友人た​ちが、​その​善良な​仕事を​続けるように​励ましなさい。​私たちが、​いつも​個人の​自由を​最大限尊重しつつ、​祈りと​忠実な​友情で​彼らを​助けるなら、​彼らの​多くが​キリスト教徒に​なる​ための​恩恵を​受ける​ことを​確信してください。

私たちの​使徒職の​中核は、​教理を​与える​74ことである​ことを​忘れないでください。​と​言うのも、​何度も​話したように、​無知は​信仰の​最大の​敵だからです。​聖パウロが​ローマ人に​した​ためています。​「ところで、​信じた​ことの​ない方を、​どうして​呼び​求められよう。​聞いた​ことの​ない方を、​どうして​信じられよう。​また、​述べ伝える​人が​なければ、​どうして​聞く​ことができよう」75。​教育活動は​私たちの​職業的活動の​小さな​一部​分ですが、​あなたがたは​この​宣教の​責任を​感じるので、​教職を​(それが​私的であれ公的であれ、​個人の​ものであれ共同の​ものであれ、​初等教育から​高等教育まで)​重要視します。

​同じ​理由から、​世論を​造り上げる​メディアと​なる、​新聞、​ラジオや​テレビ、​映画などに​命を​吹き込むよう​努めなさい。​このような​職場で​働いている​人は、​(サークルとか​講演とかに​よって)​小さな​グループの​人たちだけに​教理を​与えるのではなく、​主のように​「戸外で」​大衆に​向かって​教えを​宣べ伝えているのです。

​宗教上の​ひどい​無知が​あります。​多くは​私たちキリスト教徒の​責任です。​私たちが、​日毎に​技術的に​向上し​大きな​影響を​与えている、​これら​すべての​メディアを​通して、​教義を​伝えないからです。​そして、​それらの​メディアは​多くの​場合、​神に​反旗を​翻す人たちに​よって​コントロールされています。

間断なく​真理を​告げ知らせる

​私の​子たちよ、​世の​中で​最も​悪い​ことは、​ひどい​ことを​している​人が、​そのことに​気づいていない​ことです。​私たちを​信じなかったり、​信じたくなかったりする​人が​いると​しても、​真理を、​opportune, importune​「折が​良くても​悪くても」76、​休まず​宣べ伝え続けなさい。​Quidquid recipitur ad modum recipientis recipitur ​(器の​受けとめ方に​よって​受けられる​ものが​決まる)​77。​それゆえ、​信じないのです。​私たちは​彼らに​カナの​婚礼の​ブドウ酒を​与える​ことができるでしょう。​その​ブドウ酒は​イエスの​最初の​奇跡の​証しであり、​公に​おける​イエスの​神性の​初めての​現れでした。​その​ブドウ酒も、​彼らの​良心に​注がれると​酢に​変わってしまう​ことでしょう。​しかし​真理を​述べつつ良い​ブドウ酒を​与え続けましょう。​私たち一人​ひとりは、​ipuse Chrsitus​(キリスト自身)なのですから、​イエスのように​言えるようになるべきです。​「わたしは​真理に​ついて​証しを​する​ために​生まれ、​その​ために​この​世に​来た」78

​私の​子たちよ、​「偽りを​捨て、​それぞれ隣人に​対して​真実を​語りなさい。​わたしたちは、​互いに​体の​一部なのです」79。​私たちにも​経験が​あります。​ここで​「私たち」と​言うのが​ぴったりです。​悪口、​嘘、​誹謗中傷。​私たち自身の​肉で​その​苦しみを​経験しました。​ときには​そのような​ものが、​司祭も​含めた​カトリック信者に​よって​引き​起こされ、​大波のように​押し寄せてきました。​Omnia in bonum!​(オムニア・イン・ボヌム、​すべては​善の​ために)。​あふれた​ナイル川が​泥に​よって​土地を​肥沃に​したように、​私の​子たちよ、​あの​ごみの​大波は​私たちに​多くの​実りを​もたらしたのです。

あなたが​たの友だちや​同僚たちと​定期的に​小さな​団欒​(特に​興味深いのは​メディアで​働いている​人々との​団欒)を​持つことを​疎かに​しないでください。​団欒に​おいて、​今の​世の​中に​ついての​テーマが​取り上げられる​よう​努め、​会話に​おいて、​その​テーマに​対する​適切な​判断基準を​「言葉の​賜物」に​よって​示すように​してください。​オフィスや​公共の​場に​おいて、​適宜人々との​会話が​生まれるように​してください。

​真理を​伝え良い種を​蒔く​チャンスを​失わずに、​その機会を​増やす​ことです。​「時を​よく​用い、​外部の​人に​対して​賢く​ふる​まいなさい。​いつも、​塩で​味付けされた​快い​言葉で​語りなさい。​そう​すれば、​一人​一人に​どう​答えるべきかが​分かるでしょう」80

​あの​私の​子たちの​ことを​喜びの​うちに​考えます。​すなわち、​新聞や​雑誌の​売店で​働いている​子たち、​新聞の​社説や​記事を​執筆している​子たち、​グラフィックデザインの​会社に​務める​子たち、​そして​他に、​外見上慎ましくても、​自己の​仕事に​よって、​日々、​多くの​人と​出会う​チャンスの​ある​私の​子たちの​ことです。

父母の​皆さん、​健全で​楽しい​娯楽を​奨励してください。​それが​厳格で​つまらない​ものにならないように、​また、​キリスト教倫理に​反する​世俗的な​雰囲気からは​遠く​離れた​ものであるようにしましょう。​このような​集いから、​あなたが​たの子ども​たちの​間で​結ばれる​夫婦が​生まれ​(主は​祝福される​ことでしょう)、​彼らは​あなたが​たの​「明るく​喜びに​満ちた」​家庭で​学んだ​幸福と​平和を​受け継ぐでしょう。

​この​娯楽の​使徒職の​分野に​おいて、​あなたが​たが​市民と​しての​行動に​よって​守らなければならない​大事な​ポイントは、​公共の​興行物の​倫理性である​ことを​忘れないでください。​放縦な​集団的雰囲気の​中で​過ごす若者が、​キリスト教的な​家庭を​築く​ことは​容易では​ありません。

あらゆる​誠実な​仕事は、​キリスト教精神と​使徒職に​よって​方​向づける​ことができる

​経済・金融界は​使徒職活動の​対象には​ならないと​考えるのは​間違いです。​この​考えは、​聖職者主義的な​雰囲気から​来た​人々の​間で​広く​行き​渡っています。​彼らの​中には​矛盾を​抱えている​人も​少なからずいます。​つまり、​この​同じ​人々が、​教会の​庇護のもとで、​彼らが​「カトリック信者である」と​いう​理由で​信頼され、​商売や​企業に​おいて​他人の​多額の​資金を​取り扱っているのです。​このような​人々に​ついて、​ある​人は​悪意からではないに​しても、​「彼らは​天に​目を​向けながら、​手は​どこへでも​伸ばす」と​言いました。​経済活動に​対する​遠慮と​用心は、​キリスト教的では​ありません。​なぜなら、​それは​聖化されるべきもう​一つの​仕事だからです。

​しかし、​この​警戒心は、​カトリック信者の​間に​大きな​影響を​与え続けています。​その​ため、​経済界での​仕事で​善を​行えるにも​かかわらず、​そこに​入る​ことを​ためらった​人が​少なからず​存在します。​あるいは、​良心に​咎めを​感じながら​その​仕事に​携わった​人が​います。​そうでない​場合、​この​分野の​事業は、​教会に​敵対し霊魂に​多大な​害を​与える​者たちの​手中に​落ちました。

​この​考え方が​どれほど​浸透していたかは、​教会に​伝わる​面白い​敬虔な​考察を​読めば​わかります。​もちろん、​当時の​考え方​や​環境を​考慮に​入れれば、​そのように​書かれた​ことも​理解できますが、​いずれに​せよ、​そこには​次のように​書いてあります。​ペトロは​主の​復活の​後、​漁師の​仕事に​戻る​ことが​できた。​それは​漁が​誠実な​仕事だったから。​しかし、​マタイは​以前の​職業に​戻る​ことがゆる​されなかった。​それは、​大罪を​犯す危険なしに、​あるいは​単に​罪を​犯さずには​できない​仕事が​あり、​マタイの​仕事は、​まさに​そういう​ものだったからだと​81

​Contemptus saeculi​(世俗蔑視)を​表明する​人々から​生まれた​この​誤った​考えは、​改めなければなりません。​信徒と​しての​精神​(lay mentality)を​生きる​あなたが​たに​とって、​商売や​金融が​悪い​ことであるなどとは、​全く​考えられない​ことです。​あなたがたは​これらの​仕事を、​他の​人たちと​同様に、​超自然的な​ものに​する​ことができ、​そして、​それらを​キリスト教的精神と​使徒職に​よって​方​向づける​ことができます。

このような​テーマに​ついて​話しているので​付け加えますが、​残念ながら、​経済の​領域に​おける​私たちの​活動に​ついて​人々が​言っている​ことは​真実ではなく、​実の​ところ、​そのような​活動は​ほぼ皆無です。​私たちの​活動は​貧しい​大家族の​生活と​発展の​ための​普通の​ものです。​その​活動が​1000倍あったら​どんなに​良い​ことでしょう。

​形態が​どうであろうと​あらゆる​組織は、​その​目的を​果た​すため、​経済的な​基盤が​必要です。​私たちに​ついての​陰口が​真実であったら​どんなに​良い​ことでしょう。​しかし、​たとえそれが​真実であったとしても、​オプス・​デイは​貧しく、​そしていつも​貧しい​ことでしょう。​と​いうのは、​世界中で​多くの​使徒職的活動を​維持しなければならないからです。​その​ための​資金不足を​補わなければなりません。​オプス・​デイは、​メンバーたちの​形成の​面倒を​生涯に​わたって​見なければならず、​それには​資金が​必要だからです。​また、​病気や​高齢の​メンバーの​面倒も​見なければなりません。​そして、​日毎に​多くなる、​生活維持の​ため経済的助けが​必要な、​高齢または​病気の​メンバーの​親を​援助すると​いう​幸いなる​重荷も​あります。

​いずれに​せよ、​そのような​経済的な​活動が​あるならば​(ないならできるだけ早く​始めるべきです)、​それは​常に​それぞれの​国の​法律を​尊重して​行われ、​善き市民と​して​分担金や​税金を​払います。​特別扱いを​受ける​ことを​私たちは​望みませんし、​また、​それは​「私たちの​やり方」でもありません。

ときに、​このような​中傷を​行う​人々は​公的な​グループに​属しており、​国民の​意志に​反して、​集めた​税金を​分配しています。​それと​同時に、​彼らは​私たちが息を​する​ことができないようにしようと​しています。​福祉事業、​教育事業、​文化事業、​キリスト教​広報事業を​維持しそれを​発展させる​ため、​貧しい​生き方を​する​私たちに、​仕事を​する​権利も​献身する​権利も​与えられないようにしようと​しています。​彼らは​自由の​敵​(もちろん、​彼ら​以外の​人々の​自由の​敵)であり、​市民の​間で​差別を​行おうと​しています。

​例えば​宗教、​芸術、​スポーツ、​文化など、​どのような​種類の​団体であれ、​目的遂行の​ための​手段を​支える​ために​資金を​持ち、​それを​動かす必要が​あります。​この​点で​躓く​人が​いるならば、​その​人は​非常識であると​言わざるを​得ません。

​宗教的な​団体に​ついて​話す時、​ 英国外国聖書協会​(The British and Foreign Bible Society)​あるいは​銀行や​保険会社などを​有する​救世軍​(Salvation Army)の​例が​すぐに​思い浮かびます82。​この​ことで​躓く​人は​誰一人いません。​宣教や​慈善活動の​ために​それらの​手段が​必要なのです。​多くの​国で、​これらの​宗教的な団体の​経済的な​活動は​批判されないだけでなく、​その​社会的な​仕事ゆえ​税も​免除されています。

​公的機関が​私たちに​融資を​したり、​さらには​補助金や​助成金を​与える​ことは​正義に​叶っています。​そのような​時、​公的機関は​自らの​義務を​果たしているに​すぎません。​と​いうのは、​私たちは、​社会的な​仕事に​よって、​当局の​義務の​一部を​負担しているからです。​同じように、​当局が​他の​文化事業や​慈善事業をを​援助する​時も、​正義に​叶った​ことを​行っているに​すぎません。

奉仕の​精神

​「神の​仕事」を​意味する​オプス・デイ​(Opus Dei、​operatio Dei)は、​すべての​メンバーに​働く​ことを​要求します。​なぜなら、​仕事は​聖化と​使徒職の​手段だからです。​その​ため、​全世界で​無数の​人々が、​カトリックであってもなくても、​キリスト者であってもなくても、​私たちの​オプス・​デイに​感心し、​オプス・​デイを​愛し、​愛情を​持って助けています。​この​ことに​ついて​私たちは​主に​感謝します。

​あなたが​たの中には、​完全な​自由と​個人的な​責任を​持って、​政治活動を​職業と​する​人もいます。​その​人は、​祖国の​政治に​携わるのに​十分な​知識や​才能が​あると​自覚し、​政治に​携わろうと​決めました。​市民社会の​中で​政治に​携わる​人が​少数であるのと​同様に、​そういう​メンバーは​決して​多く​ありません。​また、​この​世俗社会で​働く​オプス・​デイの​他の​すべての​メンバーと​同様に、​政治家と​して​働く​時、​カトリック​信者や​オプス・​デイの​メンバーと​いう​身分を​振りかざすことも、​また​教会を​利用する​ことも、​オプス・​デイを​利用する​こともありません。​なぜなら、​移り​変わる​この​世の​問題に、​神の​教会も​オプス・デイも​巻き込むことは​できないと、​よく​知っているからです。​政治の​世界で​働く​際、​カトリック信者である​私たちが​望む社会は、​市民の​自由を​認める​(誰もが​国家の​前に​同じ​義務と​同じ​権利を​持つ)けれど、​社会の​共通善を​獲得する​ために、​皆が​心を​一つに​して​働く​社会である​ことを、​忘れては​なりません。​その​共通善獲得の​ために、​教会の​教えの​不変の​源泉である、​福音書の​諸原則を​適応するのです。

​あなたがたは、​政治家と​して​働く​権利を​完全に​持っています。​もし、​ある​国家が、​オプス・​デイの​メンバーが​政治家に​なることに​邪魔だて​するなら、​他の​キリスト信者の​会の​メンバーに​対しても、​同じようにしなければならないでしょう。​そして、​同じ​理由​(カトリック信徒が​教会当局に​払うべき従順)から、​当然すべての​信者に​同じ​邪魔だてを​するでしょう。​そのような​行為は、​信仰を​実践している​信者が、​世俗社会の​中で​持っている​権利と​責任を​否定する​ことになります。​信仰を​生きる​信者を、​下等の​市民と​して​扱うのは​不正ですが、​現代社会では​この​種の​差別の​例に​欠ける​ことは​ありません。

​政治が​自分の​天職と​考える​人たちは、​堂々と​その​道を​進みなさい。​もしそうしなければ、​怠りの​罪を​犯すことに​なると​考えなさい。​政治家と​して、​プロ意識を​もって​働きなさい。​あなたの国の​すべての​国民に​キリスト教的に​奉仕する​ことを​考え、​すべての​国が​一致協力する​ことを​夢見て、​有能な​政治家に​なるよう​努めてください。

​聖人と​なった​統治者を​記念する​ミサの​典礼文​(この​世から​離れた​人々に​よって​作られた)の​中で、​聖人が、​pietate magis quam imperio、​王と​しての​権威よりも​信心深さを​もって、​正しい​命令よりも​愛情に​よって​国を​統治したと​称賛されていますが、​それは​聖職者主義的な​考え方の​現れです。

​あなたがたは、​自分の​使命を​正しい​意向を​もって、​超自然の​見方を​失う​ことなく、​遂行しなさい。​しかし、​神の​ことと​人間の​ことを​混同しては​なりません。​人間と​して​果たさなければならない​ことを​果たしなさい。​神に​よって​創造された​世界には、​独自の​原理と​法が​あり、​それを​〈天使的〉な​態度に​よって​踏みに​じってはいけない​ことを​忘れないでください。​私の​子どもに​対する​最悪の​称賛は​「彼は​天使の​ようだ」と​いう​ものです。​私たちは​人間であって天使では​ありません。

政治の​世界で​働いていた​者は、​どんな​体制の​下でも​働き続ける​必要性を​感じてください。​キリスト教的な​考えとは​遠く​離れた​体制の​下でも、​働くように​してください。​ただし、​その国の​教会当局が​カトリック信者に​異なる​指針を​打ち出している​場合は​別です。​カトリック信者でない​人たちに​よって、​国の​政治が​独占される​ことを​認めては​なりません。​教会に​対して​最も​攻撃的な​体制の​下でも、​(もしあなたが​たが​働いていたら)より​ひどい​悪が​起こるのを​防ぐことができるでしょう。

​どんな​体制に​おいても、​この​〈畑〉を​放棄しない​ことが​重要です83。​ただし、​それに​よって​不当に​「体制の​協力者」と​いう​レッテルを​貼られる​ことの​ないように​してください。​私の​子たちよ、​多数が​カトリックの​国に​おいて、​信仰を​実践する​責任感の​ある​カトリック信者が、​したがって​様々な​キリスト信者の​会の​メンバーが、​政府に​いないのは​理解できない​ことです。​もしそうでないならば、​その​カトリック信者たちは、​信仰を​実践しておらず、​責任感も​持っておらず、​カトリックとも​呼べないと​言えるでしょう。​または​教会が​迫害されているのかの​どちらかです。

​政府の​仕事に​参加する​時は、​市民が​果たすことのできる​正義にかなった​法を​作る​ことに​全力を​傾けてください。​不正な​法を​公布する​ことは、​権力の​乱用であり、​国民の​自由の​侵害です。​それだけでなく、​それは​人々の​良心を​混乱させます。​そのような​場合、​国民は​不正な​法を​守らないと​いう​権利を​持っています。

​共通善には​共同体の​全成​員が​参与すべきである​ことを​忘れず、​全市民の​自由を​尊重しなさい。​すべての​人に​生活水準を​高める​可能性を​与え、​一部の​人を​高める​ために​他の​人が​卑しめられる​ことがないようにしなさい。​最も​恵まれていない​人々が、​自分たちの​未来に​明るい​展望を​持てるようにしなさい。​すなわち、​彼らが、​正当な​給与を​受給できる​安定した​仕事を​手に​入れ、​文化的恩恵を​等しく​受ける​ことができるように。​なぜなら​それは、​正義に​叶った​ことで、​彼らの​人生に​光を​もたらし、​内面を​変え、​神やより​高い​現実の​探求を​容易に​するからです。​私の​心の​子たちよ、​しかしながら、​最も​悲惨なのは、​霊的な​貧しさ、​教理を​知らない​こと、​キリストの​命に​与れない​ことです。​この​ことを​忘れないでください。

結婚は​地上に​おける​神への​道

スーパーヌメラリである​私の​子たちよ、​今、​結婚と​いう​「偉大な​秘跡​(sacramentum magnum)」​84から​生まれた​あなたが​たの家族・家庭に​ついて​考えています。​前世紀に​行われた、​家族を​破壊する​運動が​いまだに​続いている​現今、​私たちオプス・​デイは、​社会の​キリスト教的細胞​(家族)に​聖性への​熱意を​与える​ために​来たのです。

​あなたが​たの​第一の​使徒職は​家庭に​あります。​オプス・​デイが​与える​形成に​よって、​あなたがたは​家族の​素晴らしさ・​美しさを​認識し、​家庭を​築く​ことが​超​自然的な​仕事である​こと、​夫婦の​義務が​聖性の​源泉である​ことを​見出します。​結婚の​召し出し​(そう、​これは​召し出しです)の​偉大さを​自覚しながらも、​使徒的独身の​召し出しに​対して​特別の​尊敬の​念と​深い​愛情を​感じるでしょう。​あなたがたは​使徒的独身の​召し出しが、​結婚の​それより​優れている​ことを​知っています85。​それゆえに、​あなたが​たの子どもの​誰かが、​神の​恩恵に​助けられて別の​道を​選んだなら、​心の​底から​喜ぶでしょう。​それは​あなたが​たに​とって​「犠牲」ではなく、​善き神が​なさった​選び、​聖なる​誇りの​理由、​イエス・キリストへの​愛に​よって​喜んですべての​人に​仕える​ことです。

​普通、​学校に​おいて、​たとえそれが​修道会が​経営する​ものであっても、​若者たちが​結婚の​尊厳と​清さを​理解するように​教えられる​ことは​ありません。​あなたが​たも​知っているでしょうが、​高校の​最終学年の​生徒たちに​行われる​黙想会では、​結婚よりも​修道士・修道女への​召し出しの​可能性に​ついて​考える​ことに​重点が​置かれことが​よく​あります。​また​結婚​生活を​軽視する​人もいます。​その​結果、​若者たちが​結婚を、​教会が​単に​許容しているだけの​ものと、​誤解する​危険も​あります。

​オプス・​デイでは、​いつも​これとは​異なる​教え方を​してきました。​神の​国の​ための​独身が、​結婚よりも​優れている​ことを​はっきり示した上で、​結婚も​この​地上での​聖なる道であると​教えてきました。​この​方​針を​とる​ことは、​悪い​結果を​生み出しませんでした。​なぜなら、​真理は​人を​自由に​するからです。​若者は​非常に​寛大な​心を​もっており、​自由に​神への​愛を​選ぶに​あたり、​肉を​超えて​高く​飛ぶことができるからです。

​私たちは​男女の​愛を​恐れません。​私たちの​両親の​聖なる​愛、​神は​それを​使って​私たちに​命を​お与えに​なりました。​私は​この​愛を​両手で​祝福します。​私の​子が、​聖なる​結婚の​秘跡への​大きな​愛を​持たない​ことは​許されません。​それゆえ、​男女の​清い愛の​歌を​憚る​ことなく​称えます。​それは、​「人間の​愛を​称え神への​愛を​表現する​歌」​86でもあります。​神への​愛の​ために、​この​世で​その愛を​放棄した​私たちは、​独り者では​ありません。​愛する​心を​持つ人です。

神から​家庭を​築くように​呼ばれた​私の​子たちに​言います。​互いに​愛し合い、​恋人だった​時​持っていた​ワクワクするような​愛を​いつまでも​持ち続けるように。​人生に​つきものの​困難や​逆境が​始まれば​喜びは​終わると​考える​人は、​理想で​あり召し出しである​結婚に​ついて、​惨めな​概念しか​持っていません。

​実は​その​時こそ、​愛は​強まり、​死よりも​強くなるのです。​ Fortis est ut mors dilectio​「愛は​死のように​強​(い)」87。​悲しみや​困難が​どっと​押し寄せても、​それらは​真の​愛を​消し去る​ことは​できません。​夫婦が​一緒に​なって​寛大に​犠牲を​分かつ時、​二人は​一層強く​結ばれます。​ Aquae multae non potuerunt extinguere caritatem​「大水も​愛を​消すことは​できない」88。​無数の​困難は、​それが​物理的であろうが、​精神的であろうが、​愛を​消し去る​ことは​できません。

​あなたが​たの​結婚は、​通常、​子どもに​恵まれる​ことでしょう。​もし神が​子どもを​お与えに​ならないなら、​あなたが​たの​エネルギーを​より​熱心に​使徒職に​注ぎなさい。​そのことに​よってあなたがたは​素晴らしい​霊的な​豊かさを​得るでしょう。​主は​キリスト教的家族を​子どもと​いう​冠で​飾られるのが​普通であると​私は​何度も​言いました。​いつも​子どもを​喜びと​感謝の​気持ちで​受け入れなさい。​なぜなら、​子ども​たちは​神の​贈り物であり、​祝福であり、​神が​いかに​あなたが​たを​信頼されているかの​証拠だからです。

子どもを​生む能力は、​神の​創造の​業に​参加するような​ものです。​ちょうど​人間の​知性が​神の​知性の​閃光のような​ものであるように。​命の​泉を​枯らさないでください。​恐れないでください。​偽の​経済的、​社会的、​または​科学的な​理由で、​出産制限の​必要性を​正当化しようとする​理論は、​キリスト教的でも​人間的でもなく、​犯罪的です。​それらの​理論は、​真面目に​分析すれば、​すぐに​崩壊します。​それらは​臆病の​なせる​わざです、​私の​子たちよ。​それらは、​臆病と、​正当化できない​ものを​正当化しようとする​試みです。

​これらの​アイデアが、​しばしば、​司祭や​修道者から​来る​ことは​残念な​ことです。​彼らは、​呼ばれていないのに​無分別に​問題に​首を​突っ込んでいます。​それは、​ときに​病的な​好奇心の​表れであり、​教会への​愛が​欠如している​ことの​証です。​と​いうのは、​主は​結婚の​秘跡を、​キリストの​神秘体の​成長と​拡大の​ための​手段と​して、​定められたからです。

​信者の​家庭の​子どもの​数が​減ると、​司祭や、​イエス・キリストへの​奉仕の​ために​人生を​捧げようとする​人の​数も、​減る​ことに​なると​確信してください。​私は、​神から​一人の​子どもしか​授からなかったにも​かかわらず、​その​一人の​子どもを​寛大に​神に​捧げた​夫婦を​少なからず​知っています。​しかし、​そのように​する​人は​多くは​ありません。​子沢山の​家族の​場合、​神の​召し出しの​偉大さを​理解するのは​より​易しく、​その​子ども​たちの​中から、​あらゆる​身分と​道を​選ぶ者が​出てきます。

寛大に​なり、​子沢山の​家庭の​喜びと​堅固さを​感じてください。​子供を​望まない​夫婦を、​私は​恥ずかしく​思います。​子供を​望まないなら、​禁欲しなさい。​夫婦に​対し、​妊娠の​可能性が​ある​時期に​おける​夫婦行為を​控えるよう​勧めるのは、​キリスト教的ではないと​思いますし、​正直に​そう​言います89

​確かに​ある​具体的な​事例に​おいて、​常に​医者と​司祭と​相談の​上、​そうする​ことは​できますし、​そうしないと​いけない​こともあるでしょう。​しかし、​この​やり方を、​一般的な​規則と​して​勧める​ことは​できません。​非常に​きつい​言葉に​なりますが、​もし​自分が、​両親の​清い愛の​実りではなく、​親の​意志に​反して​生まれてきたと​知ったならば、​少なくない​人た​ちが、​親の​墓に​つばを​吐きかけに​行く​ことでしょう​90。​神の​おかげで、​私たちは、​一般的に、​キリスト教的家族の​中に​生まれました。​この​ことを​主に​感謝すべきです。​私たちは、​大方、​この​家族に​召し出しを​負っています。

​出産制限の​考えが​幅広く​広まっている​国で​働いていた​ある​私の​息子が、​この​問題に​ついて​質問した​人に​対して、​冗談で​こう​答えた​ことを​覚えています。​「このように​して、​そう​遠くない​未来、​この​世界には​黒人と​カトリック信者以外いなくなるだろう」91と。​しかし、​この​ことを​カトリックが​少数派である​国々に​暮らすカトリック信者は​理解しません。​なぜなら​キリスト教的結婚が、​通常の​摂理に​おいて​主が​定められた、​神の​民が​成長する​ための​手段であると​いう​事実​(深い​神学的基盤の​ある​事実)に​ついて​深く​考えないからです。

​それに​反して​(もっと​賢い)​キリストの​敵たちは、​もっと​常識的です。​共産主義国家では、​生命の​法則と​人間の​生む力の​重要性を​日に​日に​理解するようになっています。​そして、​それらを​決定的な​要素と​して​イデオロギーと​政治の​計画の​中に​組み込んでいます。

明るく​喜びに​満ちた​家庭

​私が​いつも​「明るく​喜びに​満ちた」と​いう​形容詞を​つける​あなたが​たの​家庭では、​子ども​たちの​超​自然的徳と​人間徳が、​自由と​喜びと​犠牲の​雰囲気の​中で、​育てられる​ことでしょう。​このような​家庭を、​私は​オプス・​デイの​使徒職的学校と​呼びましたが、​そこから​どれほど​多くの​オプス・デイへの​召し出しが​生まれる​ことでしょう!​私の​大きな​喜びの​一つは、​はるか昔に​見た​ある​若者の​顔に​似た顔を​見る​ことです。​その子に​こう​質問します。​「君の​名前は?​君は​某君の​子供ではないかね」と。​そして​「はい」と​いう​答が​返ってくる​時、​私は​心を​天に​あげて​喜び、​神に​感謝します。

​結婚​生活の​幸福の​秘訣は、​日常的な​ことに​あります。​そこに​隠れている​喜びを​見つける​ことです。​例えば、​帰宅する​こと、​子供の​教育、​家族全員が​協力してする​仕事。​また​家庭を​より​快適な​ものにし、​教育を​より​効果的にし、​家庭生活を​より​簡単に​する、​現代文明が​提供する​あらゆる​進歩を​活用する​こと​(あなたが​たの家は​決して​修道院のような​佇まいでないように。​もしそうなら​それは​普通では​ありません)。​このような​ことに​隠れている​喜びを​見つける​ことです。

また​あなたがたは、​オプス・​デイの​メンバーの​家族で、​神への​奉仕に​身を​捧げると​いう​道を​理解できない​人々を​助けます​(​そのような​人は​少数です)。​彼らは​オプス・​デイに​おける​神の​子の​父親・母親に​なるよう​呼ばれると​いう​計り​知れない​神の​好意を​受けました。​あなたがたは、​彼らが​この​ことに​ついて​神に​感謝するようになるように​助けます。​彼らは、​まさか​自分の​子どもが​神に​身を​捧げるとは​夢にも​思った​ことがなく、​それどころか、​それとは​かなり​異なった​人生計画を​子どもの​ために​作っていました。​そして、​多くの​場合高貴だが​地上的な​彼らの​計画が​潰されるとは​思っていなかったのです。​いずれに​しても、​私の​長年の​経験に​よると、​最初は​子どもの​召し出しを​喜んで​受け入れなかった​親も、​最後には​降参し、​祈りの​生活を​始め、​教会に​近づき、​ついには​オプス・​デイを​愛するようになります。

​神の​おかげで、​上述の​考察にも​かかわらず、​自分たちの​家族の​一員の​召し出しに​対して、​超自然的かつキリスト教的に​反応し、​援助を​行い、​スーパーヌメラリと​なる、​あるいは​少なくとも​熱心な​協力者に​なる​家族​(親、​兄弟、​親族)の​数は​日に​日に​増えています。

​私の​子たちの​母親・父親と​話す時、​私は​よく​こう​言います。​「あなたが​たの​親と​しての​使命は​終わっていません。​彼らが​聖人に​なるように​助けなければなりません。​どのように​してですか。​それは​あなたが​たが​聖人に​なることに​よってです。​彼らと​私が​聖人に​なるのを​助ける​ことに​よって、​あなたがたは​親と​しての​使命を​果たしているのです。​あえて​言わせてください。​オプス・​デイの​誇りと​冠は​母親・父親の​あなたがたです。​あなたがたは​自分の​心の​一部を​教会への​奉仕に​捧げたのですから」と。

使命を​果た​すための​大胆さ

私の​愛する​子たちよ、​これで​終わります。​あなたが​たが、​主の​呼びかけに​忠実で​ありたいと​強く​望んでいる​ことを​知っていますが、​「もう​一度​思い​起こさせようと​して、​所々​かなり​思いきって​書きました」92

​自分を​捧げ、​自分の​行為に​責任を​持つことを​恐れずに、​大胆に​使命を​果たしてください。​人間と​いう​ものは​すぐに​自由の​行使を​恐れます。​何に​おいても、​すでに​決まった​やり方に​従う方を​好みます。​これは​逆説的ですが、​人間は​しばしば​(自由を​放棄して)定まった​やり方を​求めますが、​それは​危険を​冒す​ことを​恐れるからです。

​オプス・​デイは、​あなたが​たが、​各自、​自分の​環境の​中で、​勇気を​もって、​積極的に、​イニシアティブを​持って、​周囲に​影響を​与え、​最前線で​戦う​男女に​なるように​形成を​与えています。​あなたがたは、​この​形成に​対して、​やる​気と​努力を​もって​応えねばなりません。​あなたが​たの​決意が​なければ、​ふんだんな​霊的手段も​何の​役にも​立たないでしょう。​よく​昔の​短剣に​刻まれていた​あの​言葉を​思い出してください。​「もし​お前に​勇気が​ないなら、​私を​信頼するな」。

​毅然とした​態度を​取りなさい。​くじけず​頑固で​ありなさい。​なぜなら、​決定的で​どうしようもない​ことは​一つも​ないからです。​誰を​も理解するよう​努めなさい。​特に​カトリック信者の​一致の​ため、​尽力しなさい。​「だが​互にかみ合い、​共食い​しているなら、​互いに​滅ぼされないように​注意しなさい」93と、​聖パウロは​言いました。​私たちカトリック信者は、​互いに​知り合い、​愛し合わなければなりません。

すべての​人に、​あなたが​たの​キリスト教的な​質素な​生活と​犠牲の​模範を​示しなさい。​主は​言われました。​「わたしに​ついて​来たい者は、​自分を​捨て​(なさい)」94。​主は、​ぶどうのように​桶の​中で​足で​踏まれ、​潰される​ことの​豊かさを、​私たちに​教えてくださいました。​それは​キリストのぶどう​酒に​なる​ためでした。

​どんな​時でも​落ち着きを​失わないように。​決して​暴力的や​攻撃的に​なったり、​激高したりしないように。​その​落ち着きは​枢要徳の​実践の​結果です。​神の​子である​ことを​自覚するなら、​その​落ち着きを​得る​ことができるでしょう。​なぜなら​この​私たちの​精神の​典型的な​特徴は、​オプス・デイと​共に​生まれ、​1931年に​形を​とったからです95。​それは、​人間的には​困難極まる​時でした。​しかし​不可能な​こと​(今は​それが​実現した​ことを​見ていますが)を​前に、​それが​できると​いう​安心感が​ありました。​主が、​なにか強制的な​力を​もって、​私の​心と​口に​「Abba! Pater!​(アッバ!​パーテル!​おとうさん!)」と​いう​柔和な​呼びかけが​生じる​よう​働かれている​ことを​感じました。​私は​街の​中、​市電に​乗っていました。​街は、​私たちの​神との​観想的対話を​妨げません。​世間の​喧騒は、​私たちに​とって​祈りの​場です。​私は​おそらく、​声に​出してあの​祈りを​していました。​周りに​いた​人は、​私を​気が​狂った​人だと​思ったに​違い​ありません。​「Abba! Pater!」。​すべてを​ご存じで、​何でも​おできに​なる​御父の​子どもであると​感じる​ことは、​なんと​いう​信頼、​なんと​いう​安らぎ、​なんと​いう​楽観を​あなたが​たに​与えてくれる​ことでしょう。

​私の​子たちよ、​「な​おいっそう​励むように​勧めます。​そして、​わたしたちが​命じておいたように、​落ち着いた​生活を​し、​自分の​仕事に​励み、​自分の​手で​働くように​努めなさい。​そう​すれば、​外部の​人々に​対して​品位を​もって​歩み、​だれにも​迷惑を​かけないで​済むでしょう。​キリストの​平和が​あなたが​たの心を​支配するように」96

​あなたがたの​パドレより​心から​祝福を​送ります。

​ローマ、​1959年1月9日

備考
1

ルカ12・49参照。

2

コロサイ2・14参照。

3

一コリント6・20、一ペトロ1・18-19参照。

4

ローマ8・31-32、38-39。

備考
5

ガラテヤ3・28、コロサイ3・11参照。

6

ルカ14・15-24参照。

7

コロサイ1・24。

8

詩篇145(144)・21。

備考
9

ヨハネ18・6参照。

10

マタイ13・24-30参照。

11

黙示録21・1-2参照。

12

黙示録17・14。

13

二テサロニケ2・3-4、黙示録13・1-7参照。

備考
14

マルコ10・32。

15

ルカ12・50。

16

マルコ10・38。

17

マルコ10・39。

18

ユダ19。

19

一コリント2・14。

備考
20

黙示録 21・6参照。

21

ヘブライ13・8。

備考
22

イザヤ10・21-22。

23

イザヤ 24・13参照。

24

ローマ11・5。

備考
25

ルカ12・49、サムエル上3・8。

26

マルコ8・2。

27

ルカ4・40。

28

創世記27・27参照。

備考
29

トレント公会議(1563年11月11日第24総会「婚姻の秘跡についての規定」10条)。(編者注)

備考
30

聖ホセマリアは、知識人たちの社会に及ぼす影響が大きいので、彼らの間にキリスト教的な影響を与えることをオプス・デイ特有の目的の一つに数えていたが(ホセ・ルイス・ゴンザレス・グジョン、ジョン・F・カバデル『オプス・デイの歴史』〈José Luis González Gullón — John F. Coverdale, Historia del Opus Dei, Madrid, Rialp, 2021, p. 56, nota〉参照)、創立当初から、「私たちは大勢の人のためであり、決して大衆に背を向けて生きることはない」(ホセマリア・エスクリバーからフランシスコ・モランへの手紙〈Carta de Josemaría Escrivá a Francisco Morán, Burgos 4 de abril de 1938, en Camino, ed. crítico-histórica, op. cit., p. 250〉)と強調していた。保存されている最も古い文書から、労働者、芸術家、看護士等、あらゆる職業と社会的地位の人に近づこうとする聖ホセマリアの熱意が伝わってくる。エスクリバー神父は、彼らの中からオプス・デイへの所属を望む人が出て来ることを予見していた。例えば、『内的考察』373番(1931年11月3日)には、次の言葉が記されている。「神の助けと聴罪司祭の承諾で、早い時期に選り抜きの労働者の小さなグループができるよう努めよう」(ルイス・カノ「初期のオプス・デイのスーパーヌメラリ(1930-1950)」〈Luis Cano, “Los primeros supernumerarios del Opus Dei (1930–1950)”, en Santiago Martínez Sánchez e Fernando Crovetto (ed.), El Opus Dei. Metodología, mujeres y relatos, Thomsom Reuters Aranzadi, Pamplona, 2021, p. 379〉より引用)。(編者注)

31

一コリント7・20-24。

備考
32

「専門化あるいは特定化された目的」:長年、世俗的な領域の使徒職において、信徒を様々な小教区の活動への協力へと導くカトリック・アクションの伝統的な中央集権的モデルに倣うことが良いのか、それとも社会問題のある領域にカトリック活動家を組み入れる「専門化された」モデルが良いのかが議論されていた。創立者によると、オプス・デイにとってすべての誠実な仕事や活動が使徒職の道具である。それゆえ、オプス・デイには人間生活に固有な「あらゆる『専門』がある」。(編者注)

33

著者は、世界におけるオプス・デイの信徒の使徒職は、彼らの「教会における自らの使命」であり、それは「世俗的な職業における召し出し」を通して体を成すことを指摘する。即ち、それは世界において修道者が献身的に推進している使徒職に入り込むことでも、それらの使徒職に対して優劣を問うものでもなく、単に種類の異なる使徒職であるという指摘である。なぜならオプス・デイの信徒の使徒職は奉献生活への召し出しから生じるものではなく、神がすべての人を宣教するキリストの弟子に招く洗礼から生じるものだからである。(編者注)

備考
34

実際には、社会的・使徒職的観点から見ると、諸々の運動との相違は僅かである。聖ホセマリアがここで指摘する相違は、オプス・デイの司牧現象と交わり、そしてその内部の位階制が全世界的であるという点にある。しかしこの指摘は、世界における聖性・福音宣教・教会への奉仕・交わりと兄弟愛のおける絆という熱意を同じく共有する人々と距離を取ることを意味するものではない。(編者注)

備考
35

エフェソ 5・8-9。

36

ヨハネ 11・39。

備考
37

フィリピ 4・8。

38

コロサイ 3・17。

39

ガラテヤ5・24。

40

フィリピ3・18。

41

ヨハネ12・24参照。

42

フィリピ 3・19-21。

備考
43

詩編 20 (19)・8参照。

44

マタイ 24・28。

備考
45

フィリィピ4 ・22。

46

フィレモン8-12、エフェソ6・5〜、コロサイ3・22-25、一テモテ6・1-2、一ペトロ2・18~参照。

47

テルトゥリアヌス『護教論』(Tertuliano, Apologeticum, 37,4〈Fontes Christiani 62, ed. de Tobias Georges, Freiburg-Basel-Wien, Herder, 2015, p. 230〉)。

備考
48

ローマ14・19。

49

ローマ12・17-18。

50

ルカ16・8。

備考
51

「敵からの助言」:スペインの俗諺で、敵に対しては賢慮深くあるようにという意味。特に敵が私たちの善を探しているかのように振る舞う時のことを指す。この場合、聖ホセマリアはマルクス主義に不信感を抱くよう私たちに勧める。興味深いことに、エスクリバー師はこの手紙の35番で再度この諺を使い、「ときに敵の言葉は、有用な真理を教えてくれる」という別の意味を持たせている。(編者注)

52

ローマ 13・11。

53

マタイ 10・34。

備考
54

一ペトロ3・15。

備考
55

二コリント5・14。

56

ローマ12・11。

57

エフェソ5・15-16参照。

58

ガラテヤ6・10。

59

詩篇2・8。

備考
60

一テサロニケ5・14。

61

二テサロニケ3・11。

62

二テサロニケ3・12。

備考
63

ユディト8・9-13。

64

使徒言行録5・12。

備考
65

マタイ22・21参照。

備考
66

ヨハネ8・32。

備考
67

「敵からの助言」:24番、脚注参照。(編者注)

備考
68

「教会としての任務ではありません」:エスクリバー師にとって使徒職は個々人の任務であって、組織のものではない。組織としてのオプス・デイは、属している人やオプス・デイに近づく人たちに、司牧的なオリエンテーションと世話をするだけである。使徒職的活動は、常に、オプス・デイが提供するオリエンテーションと霊的援助を受けるメンバーや協力者、友人たちの責任であり、彼らのイニシアティブの実りである。(編者注)

69

「宗教団体的な色合いを持つものではない」:世界におけるキリストの弟子としての使命は、洗礼によってもたらされ、各人が繰り広げる人間関係の中で展開される。それゆえ、公にはカトリック的(宗教団体的)な色合いを持たないことが可能である。それは個人の信仰生活から生まれるもので、自らの職業や世俗的な活動において表されるものだからである。(編者注)

備考
70

マタイ22・15-22、マルコ12・13-17、ルカ20・20-26、ローマ13・1-7参照。

71

使徒言行録16・37。

72

使徒言行録22・25-28。

備考
73

二ペトロ1・10。聖ホセマリアがここで引用しているブルガタ訳の箇所は、ネオ・ブルガタ訳において「per bona opera」の部分が省かれている。新共同訳では「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」となっている。(編者注)

備考
74

「教理を与える」:聖ホセマリアは度々この表現を「様々な状況において色々な形でキリスト教真理、信仰の遺産を伝える」という意味で用いた。言い換えるならば、それは「福音のメッセージを個人的活動そして職業的活動を通して伝え広める」という意味である。(編者注)

75

ローマ10・14。

備考
76

二テモテ4・2。

77

「Quidquid recipitur ad modum recipients recipitur(器の受けとめ方によって受けられるものが決まる)」:スコラ学特有の哲学的格言。聖トマス・アクイナスもこの格言を用いている(『神学大全』〈Summa Theologiae, I, q. 75, a. 5; Scriptum super Sententiis, lib. 4, d. 49, q. 2〉参照)。(編者注)

78

ヨハネ18・37。

79

エフェソ4・25。

備考
80

コロサイ4・5-6。

備考
81

大聖グレゴリオ『福音に関する説教』(S. Gregorio Magno, Homiliae in Evangelia, XXIV, en Corpus Christianorum〈Series Latina〉CXLI, p. 197)参照。

備考
82

英国外国聖書協会は1804年に設立された。The Bible Societyとも呼ばれる。世界中に聖書を普及させることを目的とする聖書協会世界連盟(United Bible Societies)に加盟している。救世軍は1865年に設立されたプロテスタント運動、慈善団体。(編者注)

備考
83

エスクリバー師は、教会当局がそれを禁じる場合を除いて、各自が自分の職業的召命を続けることを提案する。オプス・デイに関して、フランコ体制に協力したという批判がよく知られている。この批判は1957年フランコの政府に二人のメンバーが入閣し、その後、他の数人が入閣したことによる。しかしながら、スペインのカトリック教会当局は、信者がフランコの政府に協力することを禁じるどころか、むしろ励ましていた。なぜなら、この政府は、政治的自由を認めなかったにしても、社会的生活における福音の現存を保証するように見えたからであった(ゴンザレス・グジョン、カバデル『オプス・デイの歴史』〈González Gullón, Coverdale, Historia del Opus Dei, pp. 221-225〉参照)。(編者注)

備考
84

エフェソ5・32参照。

85

マタイ19・11〜、1コリント7・25-40参照。10番第4段落脚注参照。(編者注)

86

「人間の愛を称え神への愛を表現する歌」:十字架の聖ヨハネ(1542~1591)の詩へのリファレンスを暗示している。この聖人が書いた不朽の詩のいくつかは、ルネサンス時代の著作家の男女愛の詩とよく似ているが、それは、神への愛を表現して、つまり霊的な意味合いを込めて書かれたものであった。(編者注)

備考
87

雅歌8・6。

88

雅歌8・7。

備考
89

「勧めるのはキリスト教的ではない」:聖ホセマリアは1960年代の西欧社会に広がっていた、生ぬるくなる一方の風潮の中で、結婚の召命についての非常に高い理想を提示している。人々が、定期的禁欲を「カトリック的」避妊方法であると理解し、その選択に伴う医学的・人間的・霊的影響を考慮に入れずに、手段として用いることをエスクリバ―師は望ましいと考えない。次の段落で、具体的なケースでは「そうすることはできますし、そうしないといけないこともあるでしょう」と言っているが、医師と司祭に相談するよう勧める。聖ホセマリアは、結婚をキリスト教的に聖なる形で生きたいと望むと同時に、妊娠に間をあける必要性を持つ人を助けたいと望む。一般的に言えば、師の言葉は、1959年(手紙の日付)から1966年(手紙を印刷した年)の間に有効であったカトリックの司牧方針と倫理実践に沿っている。それは、聖ホセマリアの個人的図書室にあった、いくつかの当時の倫理神学の書物に見ることができる。この教えは、後に聖パウロ六世の回勅『フマーネ・ヴィテ』(1968年)によって、より正確にされ、改善された。『フマーネ・ヴィテ』はもし妊娠に間をあけることを望み、そのためにこの手段を取る場合に条件となる正当な理由について触れる(16番参照)。それと同時に、この手段は、「良心的産児」(responsible parenthood)と貞潔の徳と切り離すことはできないと説明する。聖ホセマリアのこの手紙が出た頃は、この問題についての神学上の議論があり、教導職は、1965年の第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(50-51番)ですでに示された方向性に沿った教えを、正確に表現しようと努めていたところであった。現行の『カトリック教会のカテキズム』(2369~2370番)は、『フマーネ・ヴィテ』の定式を取っており、それに聖ヨハネ・パウロ二世の教えが加えられることにより、説明がさらに豊かになっている。(編者注)

90

「非常にきつい言葉」:聖ホセマリアはこの手紙を、自身の話し方、つまり率直でごまかしのない話し方を、知っている人たちに向けて書いていることを思い出さねばならない。それと同時に、師が説教や文書において、ある教えを強調したい時、誇張表現を使う事が稀でなかったことを思い起こす必要がある。例えば、百人の公証人が同じことを言ったとしても、自分の霊的な子どもたちの言うことの方を信じると言う時(『主との対話』〈En diálogo con el Señor, op. cit., p. 282〉)、あるいは陰口を言うくらいなら、歯で舌をかみ切って吐き出すと言う時(『ロマーナ』〈 «Romana» 42 [2006], p. 84〉)、この他多くの例を引くことができるが、どれも印象に強く残る表現である。これらは拡張表現で、言うまでもなく文字通りとるように意図したわけではない。エスクリバー師の両親への愛、また人をゆるす能力、そしてこの手紙をはじめ師の書物に明白に現れている人間の弱さへの理解などを知っている者は、師がここで言っていることを決して実行する気はないことを、推し量ることができるだろう。しかし、「非常にきつい言葉」を使うのは、読者に、自分が両親から望まれて生まれたのではないことを知った子どもたちの、悲劇にもっと敏感になって欲しいからである。聖ホセマリアがこの手紙を書いたのは、いわゆる「性の革命」が始まる直前であった。それ以降、避妊と堕胎の実践は幅広く普及し、その結果、社会に深刻な実存的・心理的問題がのしかかっている。既婚者に提示する聖性のモデルは、夫婦間の「清い愛」と子どもへの大きな愛を含むこと、重大な理由がある場合を除いて、神が送ろうと望む子どもを恐れないことを含むことを、聖ホセマリアははっきりさせたいのである。(編者注)

91

「この世界には黒人とカトリック信者以外いなくなるだろう」:この言葉は、この手紙が書かれた20世紀の50〜60年代における、アメリカ合衆国での公民権運動の高まりという歴史的コンテクストを考慮に入れて理解せねばならない。その頃、アメリカにおいて産児制限の手段が広まっていたが、アフリカ系アメリカ人活動家はその背後に人種差別的な意図が隠されていると考えた。カトリック信者もそれに反対したが、それは倫理的理由からであった。エスクリバー師が引用するオプス・デイのメンバーの皮肉的表現は、アフリカ系アメリカ人とカトリック信者の出生率の高さを嘆く人種差別主義者と反教皇主義者の偏見を嘲笑する意図がある。聖ホセマリアは、この機会を利用して、人種差別主義とあらゆる人種や宗教に対する差別の愚かさを示す。(編者注)

備考
92

ローマ15・15。

93

ガラテヤ5・15。

備考
94

マタイ16・24。

95

「1931年に形をとった」:この出来事を神からの重要な照らしであると考えていたオプス・デイ創立者は、色々な時にこのことを回想した(アンドレス・バスケス・デ・プラダ『オプス・デイ創立者』〈Andrés Vázquez de Prada, El Fundador del Opus Dei, vol. I, Madrid, Rialp, 1997, pp. 388–392〉参照)(編者注)

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一テサロニケ4・10-12、コロサイ3・15。

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