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皆さんが​お聞きに​なったのは、​聖霊降臨第二十一主日の​厳かな​聖書朗読です。​神の​言葉に​耳を​傾けた​今、​これから​私が​お話しする​事柄、​聖なる​教会の​子らに​語りかける​司祭が、​どのような​雰囲気の​中で​どのような​ことを​お話ししたいか、​すでに​分かってくださった​ことでしょう。​超自然的な​言葉に​なって​ほしいと​願いつつ​私が​述べる​事柄が、​神の​偉大さと​人々への​慈しみの​数々を​宣言し、​今日、​ナバラ大学の​キャンパスで​祝う​驚嘆すべき聖体の​秘跡に​あずかる​準備の​役に​立てばいいと​思います。

​ 今​述べた​ことを​しばし考えてください。​私たちが​祝うのは​聖体であり、​主の​御体と​御血の​秘跡的な​犠牲、​キリスト教の​すべての​秘義を​結びつけて​その​中心と​なる​信仰の​神秘なのです。​と​いう​ことは、​神の​恩恵の​おかげで、​人間が​この​世で​実現できる​ことの​中でも、​最も​神聖で​最も​超越的な​行為と​なります。​主の​御体と​御血を​拝領すると、​いわば​今から​地上と​時間の​絆から​解き放たれて、​天に​おられる​神の​傍に​いる​ことになります。​天国では、​キリストご自身が​私たちの​涙を​ぬぐい​取ってくださり、もは​や死は​なく、もは​や悲しみも​嘆きも​労苦も​ない。​最初の​ものは​過ぎ去ったからです。

​ 歪められた​キリスト教観

 しかし、​神学者が​聖体の​終末論的意義と​呼び​慣わしている​この​慰めに​満ちた​深遠な​真理も、​誤解される​ことがあります。​事実、​キリスト教的な​生き方は、​ただただ​〈霊的な​もの​〉つまり​精神論と​して​示されてきました。​この​世の​卑しい​事柄とは​交わらない​〈純粋〉で​特殊な​人たちか、​そうまで​言わなくても、​それらを​現世で​生きる間は​霊に​課せられた​ものと​して​許容する​人たちに​ふさわしい​生き方だと​考えられてきたのです。

​ このような​見方を​すると、​教会こそが​キリスト教的生活の​場と​いう​ことになってしまいます。​キリスト信者と​いうのは、​教会に​通い、​聖なる​儀式に​あずかり、​一種の​隔離された​〈世界〉を​作り上げ、​天国の​控室と​称される​教会社会に​浸りきった​人の​ことで、​その​外では、​世界が​自らの​道を​進むと​いうわけです。​となれば、​キリスト教の​教えや​恩恵の​生活は、​人間の​歴史の​あわただしい​進展とは​出合う​ことなく、​ただ​その​傍を​かすめるように​通り過ぎるだけです。

​ 十月の​朝を​迎え、​用意万端整えて​主の​過越の​記念に​あずかる​私たちは、​このように​歪んだ​キリスト教観を​きっぱりと​否定しなければなりません。​ほんの​しばらく、​感謝の​祭儀である​ミサ聖祭を​祝う​場に​ついて​考えてみましょう。​私たちは​二つとない​聖堂に​います。​外陣は​大学の​キャンパス、​祭壇の​後ろを​飾る​つい立は​大学図書館、​その​反対側には​新校舎建設中の​機械類、​上空に​広がる​ナバラの​空。

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