115

すべての​体の​復活を​信仰告白する​真の​キリスト教は、​物質的だと​いう​レッテルを​貼られるのを​恐れず、​「体から​離れた​純霊説」とは、​当然ながらいつも​対立してきました。​そこで、​霊魂には​扉を​閉ざす物質主義と​真っ向から​対立した​「キリスト教的物質主義」とも​称すべき立場を​主張できると​考えます。

​ 昔の​人が​受肉された​〈みことば〉の​足跡と​称した​秘跡は、​私たちを​聖化して​天国へ​連れていく​ために、​神が​選ばれた​道を​はっきリ示すものである​ことに、​疑いの​余地は​ありません。​各々の​秘跡は、​創造する​力と​購う​力を​すべて​備えた​神の​愛であり、​物質的な​手段を​使って​私たちに​与えられる​ことも​お分かりでしょう。​これから​始まる​ユーカリスチア(聖体の​祭儀)とは、​購い主の​尊い御体と​御血に​ほかなりません。​私たちは​それを、​最近の​公会議が​指摘したように​「人間が​栽培する​自然の​もの」(大地の​恵み、​労働の​実り)である​この​世の​慎ましい​材料、​パンとぶどう​酒と​いう​形で​受け取ります。

​ 「一切は​あなたが​たのもの、​あなたがたは​キリストの​もの、​キリストは​神の​ものなのです」と、​使徒聖パウロの​書いたわけが​分かるのではないでしょうか。​私たちの​心に​注がれた​聖霊が​この​世で​興す​動き、​地上から​主の​栄光に​向かう​上昇運動に​ついて​述べているのです。​そして、​聖パウロは​その​動きの​中に​いかにも​平凡な​事柄が​含まれている​ことを​明らかに​する​ため、​「食べるにしろ飲むに​しろ、​何を​するにしても、​すべて​神の​栄光を​現すために​しなさい」と​書き記しています。

この点を別の言語で