愛すべき天地

1967年10月8日 聖霊降臨第二十一主日

皆さんが​お聞きに​なったのは、​聖霊降臨第二十一主日の​厳かな​聖書朗読です。​神の​言葉に​耳を​傾けた​今、​これから​私が​お話しする​事柄、​聖なる​教会の​子らに​語りかける​司祭が、​どのような​雰囲気の​中で​どのような​ことを​お話ししたいか、​すでに​分かってくださった​ことでしょう。​超自然的な​言葉に​なって​ほしいと​願いつつ​私が​述べる​事柄が、​神の​偉大さと​人々への​慈しみの​数々を​宣言し、​今日、​ナバラ大学の​キャンパスで​祝う​驚嘆すべき聖体の​秘跡に​あずかる​準備の​役に​立てばいいと​思います。

​ 今​述べた​ことを​しばし考えてください。​私たちが​祝うのは​聖体であり、​主の​御体と​御血の​秘跡的な​犠牲、​キリスト教の​すべての​秘義を​結びつけて​その​中心と​なる​信仰の​神秘なのです。​と​いう​ことは、​神の​恩恵の​おかげで、​人間が​この​世で​実現できる​ことの​中でも、​最も​神聖で​最も​超越的な​行為と​なります。​主の​御体と​御血を​拝領すると、​いわば​今から​地上と​時間の​絆から​解き放たれて、​天に​おられる​神の​傍に​いる​ことになります。​天国では、​キリストご自身が​私たちの​涙を​ぬぐい​取ってくださり、もは​や死は​なく、もは​や悲しみも​嘆きも​労苦も​ない。​最初の​ものは​過ぎ去ったからです。

​ 歪められた​キリスト教観

 しかし、​神学者が​聖体の​終末論的意義と​呼び​慣わしている​この​慰めに​満ちた​深遠な​真理も、​誤解される​ことがあります。​事実、​キリスト教的な​生き方は、​ただただ​〈霊的な​もの​〉つまり​精神論と​して​示されてきました。​この​世の​卑しい​事柄とは​交わらない​〈純粋〉で​特殊な​人たちか、​そうまで​言わなくても、​それらを​現世で​生きる間は​霊に​課せられた​ものと​して​許容する​人たちに​ふさわしい​生き方だと​考えられてきたのです。

​ このような​見方を​すると、​教会こそが​キリスト教的生活の​場と​いう​ことになってしまいます。​キリスト信者と​いうのは、​教会に​通い、​聖なる​儀式に​あずかり、​一種の​隔離された​〈世界〉を​作り上げ、​天国の​控室と​称される​教会社会に​浸りきった​人の​ことで、​その​外では、​世界が​自らの​道を​進むと​いうわけです。​となれば、​キリスト教の​教えや​恩恵の​生活は、​人間の​歴史の​あわただしい​進展とは​出合う​ことなく、​ただ​その​傍を​かすめるように​通り過ぎるだけです。

​ 十月の​朝を​迎え、​用意万端整えて​主の​過越の​記念に​あずかる​私たちは、​このように​歪んだ​キリスト教観を​きっぱりと​否定しなければなりません。​ほんの​しばらく、​感謝の​祭儀である​ミサ聖祭を​祝う​場に​ついて​考えてみましょう。​私たちは​二つとない​聖堂に​います。​外陣は​大学の​キャンパス、​祭壇の​後ろを​飾る​つい立は​大学図書館、​その​反対側には​新校舎建設中の​機械類、​上空に​広がる​ナバラの​空。

こう​数え​あげてみると、​日常の​生活こそ​キリスト信者の​本当の​生活の​場である​ことが、​絵を​見るように​明らかに​なり、​脳裏に​焼き付くのではないでしょうか。​皆さん、​兄弟である​人々の​いる​ところ、​希望の​実現を​めざして​仕事に​従事し、​愛情を​捧げる​ところ、​これこそ​皆さんが​日々キリストと​出会う​ところです。​この​世の​最も​物質的な​ものの​真っ只中こそ、​神と​人々に​仕えて​自らを​聖化すべき​ところなのです。

​ 私が​聖書の​言葉を​使って​常に​教えているように、​世界は​良い​ものです。​それは​神の​御手から​出た​もの、​神の​被造物であり、​神なる​ヤーウェが​ご覧に​なり、​「よし」と​思われたからです。​良い​世界を​悪い​もの、​醜い​ものとしたのは、​人間の​罪と​不信仰です。​皆さん、​決して​疑わないでください。​この​世に​属する​皆さんのような​男女が、​日常の​正当な​諸現実から​逃げ出すような​ことが​あれば、​それは​神のみ​旨に​反する​生き方に​なります。

​ 逆に、​人間生活の​社会的、​物質的、​世俗的な​仕事の​〈中〉で、​それらを​〈通して〉、​神に​仕えるよう​招かれている​ことを、いま改めてはっきり​理解していただかなければなりません。​研究所、​病院の​手術室、​兵舎、​大学の​教壇、​工場、​作業場、​田畑、​家庭、​その​他​広範に​わたる​あらゆる​種類の​仕事の​中で、​神は​日々​私たちを​待っておられます。​ぜひ​知っておいてください。​ごく​ありふれた​状況の​中に、​聖なる​こと、​神的な​ものが​隠れています。​そして、​それを​見つけ出すのは、​私たち一人​ひとりの​責任なのです。

​ キリスト教的物質主義

 一九三〇年頃、​私のもとに​来ていた​学生や​労働者に、​霊的生活を​〈物質化〉できなければならないと​教えていました。​当時も​今も​頻繁に​見られる​一種の​二重生活への​誘惑から​守りたいと​望んでいたのです。​すなわち、​一方では、​内的生活、​神と​関係を​保つ生活を​営み、​他方では、​それとは​係わりない​全く​別の​生活、​現在の​些細な​事柄に​満ちた​家庭生活や​職業生活、​社会生活を​営む誘惑です。

​ 皆さん、​二重生活は​避けてください。​二重生活を​送るべきでは​ありません。​キリスト信者で​ありたければ、​分裂した​生活を​送ってはならないのです。​あるのは​ただ​一つ、​霊と​肉からなる​生活です。​この​たった​一つの​生活が​神に​満ちた​ものとなり、​霊魂とからだ両方を​聖化する​ものでなければなりません。​そして、​目に​見えない​神に​出会うのは、​この​最も​目に​見えやすい​物質的な​事柄の​中に​おいてなのです。

​ 皆さん、​平凡な​日常生活の​中で​主に​出会う​ことができるか、​いつまで​経っても​出会わないか、​これ以外に​道は​ありません。​それゆえ​私たちは​今、​ごく​ありふれた​ものや​状況に、​本来の​高貴な​意味を​取リ戻させ、​神の​国に​役立たせ、​霊的な​ものに​する​必要が​あると​言えます。​それには、​すべてを​イエス・キリストとの​絶え間ない​出会いの​手段とし、​機会にしなければなりません。

すべての​体の​復活を​信仰告白する​真の​キリスト教は、​物質的だと​いう​レッテルを​貼られるのを​恐れず、​「体から​離れた​純霊説」とは、​当然ながらいつも​対立してきました。​そこで、​霊魂には​扉を​閉ざす物質主義と​真っ向から​対立した​「キリスト教的物質主義」とも​称すべき立場を​主張できると​考えます。

​ 昔の​人が​受肉された​〈みことば〉の​足跡と​称した​秘跡は、​私たちを​聖化して​天国へ​連れていく​ために、​神が​選ばれた​道を​はっきリ示すものである​ことに、​疑いの​余地は​ありません。​各々の​秘跡は、​創造する​力と​購う​力を​すべて​備えた​神の​愛であり、​物質的な​手段を​使って​私たちに​与えられる​ことも​お分かりでしょう。​これから​始まる​ユーカリスチア(聖体の​祭儀)とは、​購い主の​尊い御体と​御血に​ほかなりません。​私たちは​それを、​最近の​公会議が​指摘したように​「人間が​栽培する​自然の​もの」(大地の​恵み、​労働の​実り)である​この​世の​慎ましい​材料、​パンとぶどう​酒と​いう​形で​受け取ります。

​ 「一切は​あなたが​たのもの、​あなたがたは​キリストの​もの、​キリストは​神の​ものなのです」と、​使徒聖パウロの​書いたわけが​分かるのではないでしょうか。​私たちの​心に​注がれた​聖霊が​この​世で​興す​動き、​地上から​主の​栄光に​向かう​上昇運動に​ついて​述べているのです。​そして、​聖パウロは​その​動きの​中に​いかにも​平凡な​事柄が​含まれている​ことを​明らかに​する​ため、​「食べるにしろ飲むに​しろ、​何を​するにしても、​すべて​神の​栄光を​現すために​しなさい」と​書き記しています。

完璧な​仕事

 ご存じのように、​この​聖書の​教えは、​オプス・​デイの​精神の​核心を​なすものです。​この​教えに​従うなら、​仕事を​完全に​やり遂げ、​日々の​些細な​事柄に​愛を​込める​ことに​よって、​神と​人々を​愛し、​小さな​ことの​中に​隠れている​〈聖なる​もの​〉を​発見できるようになるでしょう。​この​意味で、​あの​カスティーリャ地方の​詩人の​言葉が​見事に​当てはまります。​「ゆっくりと​丁寧に​やれば、​良い出来映えに​つながる」。​(ゆっくりと​丁寧に、​何事であれ、​成すだけでなく、​仕方が​大事。​)

​ 皆さん、​キリスト信者が、​重要でないと​思われる​日常の​事柄を​愛の​心で​果たすなら、​それは​神的な​値打ちに​満ちた​ものになると​保証します。​だから​私は、​キリスト信者の​召し出しとは​毎日の​散文を​英雄詩に​変える​ことだと、​幾度と​なく​繰り返してきたのです。​天と​地は​地平線で​ひとつに​なるように​見えますが、​実は​そうでは​ありません。​天と​地が​本当に​ひとつに​なるのは、​日常生活を​聖化しようとする​皆さんの​心の​中なのです。

​ 今、​日常生活を​聖化すると​申しましたが、​私は​その​言葉の​中に​キリスト信者の​務めの​すべてを​含めています。​無駄な​夢を​見たり、​実現不可能な​理想を​育んだり、​空想を​描いたりするのは​やめましょう。​私は​この​種の​ものに​〈ない​ものねだり〉と​いう​名を​付けました。​結婚していなかったら、​こんな​仕事に​就いていなかったら、​もっと​健康に​恵まれていたら、​もっと​若かったら、​もっと​齢を​重ねていたら、​など。​しかし、​こんな​ことを​考えず、​主が​おられる​ところ、​つまり、​もっと​実質的でもっと​身近な​現実に​真剣な​態度で​携わってください。​復活された​イエスは​「わたしの​手や​足を​見なさい。​まさしく​わたしだ。​触って​よく​見なさい。​亡霊には​肉も​骨も​ないが、​あなたが​たに​見えるとおり、​わたしには​それが​ある」と、​仰せに​なったでは​ありませんか。

​ 社会人と​しての​物の​見方

​ いま述べた​真理から​考えると、​皆さんが​生活しておられる​世俗社会の​たくさんの​面に​光を​与える​ことができます。​例えば、​社会の​一員と​しての​行動に​ついて​考えてみましょう。​教会や​聖堂だけでなく、​この​世界こそ​キリストとの​出会いの​場であると​知る​人なら、​世界を​愛するはずです。​知的にも​専門的にも​良い​形成を​受けるよう​努め、​自らが​活動する​分野の​諸問題に​ついて、​自由に​考えを​育む。​その​結果、​独自の​判断を​下すでしょうが、​それは、​単に​自分の​判断に​留まらず、​人生の​大小様々な​事柄の​中に​神のみ​旨を​見つける​ために​謙遜な​努力を​続ける​キリスト者の​判断に​なる​ことでしょう。

このような​キリスト信者で​あれば、​自分は​教会を​代表する​ために​教会から​社会に​下っているとか、​自分の​提案する​問題解決が​〈カトリックの​解決法〉だとか、​考えた​リ述べたりする​ことは​ありません。​およそ​あり得ない​ことです。​万一​そのような​ことに​なれば、​それこそ​聖職者主義、​〈官僚的カトリシズム〉とでも​称すべきでしょう。​呼び名は​別に​しても、​物事の​本質を​著しく​歪める​ことに​変わりは​ありません。​皆さんは​あらゆる​所に​本物の​〈社会人と​しての​ものの​考え方​〉を​広めてくださらなければなりません。​それには​三つの​原則が​あります。

​* 自分の​言動に​ついて​責任を​負うと​いう​高潔な​態度を​維持する​こと。

​* 誰もが​自由に​意見を​述べうる​事柄に​関して、​同じ​信仰の​兄弟が​自分とは​異なる​解決法を​提案した​とき、​彼らを​尊重できる​キリスト者である​こと。

​* 人間的な​派閥争いを​母なる​教会に​持ち込み、​教会を​自らの​利益の​ために​利用しない​カトリック信者である​こと。

​ どの​分野でも​同じですが、​この​分野に​おいても​明らかなのは、​神の​似姿と​して​造られた​人間の​尊厳と​教会が、​共に​認める​自由を​享受できなければ、​私たち人間が​日常生活の​聖化と​いう​理想を​実現させる​ことは​できないと​いう​事実です。​個人の​自由は、​キリスト教的生活を​する​ために​欠く​ことのできない​条件です。​ただし、​私が​自由と​言う​とき、​常に​責任を​伴った​自由を​考えている​ことを​忘れないでください。

​ 私の​言葉を​文字通りに​受け取ってください。​緊急の​場合に​限らず、​日々、​自らの​権利を​行使しなさいとの​呼びかけです。​また、​政治や​経済の​分野で、​大学で、​専門職で、​市民・国民と​しての​義務を​高潔な​心で​果たしましょう。​ただし、​自由に​決定した​結果と​して​生じた​ことを​すべて​勇敢に​引き受け、​自主性に​伴う​責任を​負いましょうと​いう​呼びかけです。​このように、​キリスト教的な​〈人と​しての​ものの​見方​〉を​持っているなら、​偏狭や​狂信に​陥らずに​済むでしょう。​言い​換えれば、​人々と​平和に​暮らし、​社会生活の​あらゆる​レベルで​共存を​育んでゆけるでしょう。

社会人と​しての​キリスト信者

 長年の​あいだ繰り返してきたので​改めて​申し上げるまでも​ないとは​思います。​市民と​しての​自由と​共生と​相互理解に​ついての​教えは、​オプス・​デイが​広める​考え方の​中心です。​オプス・​デイに​おいて​キリストに​仕えたいと​望む男女は、​他の​市民と​同じく​普通の​社会人であり、​真剣に​責任を​持って​自らキリスト者と​しての​召し出しを、​その​最後の​結果に​至るまで​実行するよう努力を​傾けていると​強調する​必要は​ないでしょう。

​ 私の​子供たち(メンバー)と​一般人とを​区別する​ものは​何も​ありません。​逆に、​同じ​信仰に​生きると​いう​点を​除けば、​修道会や​修道院に​属する​人との​共通点は​ありません。​私は、​修道者を​心から​愛しています。​教会の​聖性の​別の​しるしと​しての​修道生活と​修道者の​使徒職、​世間からの​隔離(世を​軽蔑する​生き方​)を​敬い、​称賛しています。​しかし、​私は​修道者に​なる​召し出しを​主から​いただかなかったのですから、​修道者と​しての​召し出しを​望むならば、​それは​混乱としか​言いようが​ありません。​いかなる​権威も、​私を​修道者に​する​ことは​できません。​いかなる​権威も​私に​結婚を​強要できないのと​同じです。​私は​在俗司祭です。​情熱を​込めて​この​世を​愛している​イエス・キリストの​司祭なのです。

この​哀れな​罪人と​一緒に​キリストに​付き従ったのは、​どのような​人たちでしょう。​まず、​以前は​信徒と​して​専門職や​仕事に​就いていたが、​今は​司祭と​して​働く​僅かの​人々。​次いで、​世界中の​多くの​司教区に​属する​在俗司祭​(狭い​意味の​教区司祭)が​おり、​彼らは​オプス・​デイの​聖十字架司祭会に​属する​ことに​よって​各々の​司教への​従順と​教区の​仕事に​おける​効果を​確かな​ものとします。​すべての​人を、​その心に​受け入れる​よう両腕を​十字架の​形に​広げ、​私と​同じように​町の​中、​この​社会に​いながら、​この​世を​愛する​司祭です。​そして、​多様な​国籍、​言語、​民族からなる​大勢の​男女信徒。​彼らは​それぞれ自分の​職業​(専門職)で​生計を​立てています。​その​大部分は​結婚していますが、​独身者も​多く、​全員が​人々と​共に、​もっと​人間的でもっと​正義にかなった​社会を​建設すると​いう​重大な​課題に​取リ組んでいます。​日々の​労苦と​いう​高貴な​戦いを、​繰リ返しますが​責任を​持って続け、​人々と​共に​成功や​失敗を​経験し、​社会に​おいて​市民と​しての​義務を​果たし、​権利を​行使すべく​努力を​傾けています。​良心的な​キリスト者で​あれば​誰でも​そうであるように、​自分は​選ばれた​者だと​いうような​意識を​持たず、​大勢の​仲間の​間に​溶け込み、​まことに​日常的な​現実の​中で​輝く​神的な​光を​見つけ出す努力を​する​人たちなのです。

​ オプス・​デイの​使徒職

 オプス・​デイが​進める​使徒職​(いわゆる​共同の​使徒職)も​顕著な​在​俗的性格を​備えており、​教会​その​ものが​推進する​事業では​ありません。​従って、​教会の​位階制(ヒエラルキア)を​代表する​ことも、​その​代理と​しての​働く​こともありません。​私たちの​事業は​福祉、​文化、​社会事業であって、​それらを​福音の​光で​照らし、​キリストの​愛で​温めるよう努力する​市民が​推し進めています。​例えば​「聖霊に​よって​任命された」司教方が​将来の​司祭を​養成する​教区神学校の​運営は、​オプス・​デイの​使命では​ありません。

一方、​オプス・​デイは、​世界中で​職業訓練所や​農業技術訓練所、​小中高等学校や​大学など、​多種​多様の​事業を​進めています。​私たちの​使徒職面での​熱意は​何年も​前に​書いたように​果てしない​大海原のように​広がるのです。

​ ナバラ大学(スペイン)

 ところで、​皆さんが​今​ここに​いらっしゃる​こと自体、​長々しい​話よりも​遥かに​雄弁に​真の​姿を​語っているわけですから、​私が​さらに​話を​続ける​必要は​ないと​思います。​ナバラ大学友の​会(後援会)の​皆さんは、​社会の​進歩に​貢献しなければならないと​自覚しておられます。​皆さんからの​心温まる​激励や​祈り、​犠牲や​ご寄付は​同じカトリックだからと​いう​理由で​捧げられたのでは​ありません。​ご協力は​公益を​心に​かける​市民と​しての​自覚を​明らかに​示すものであると​共に、​市民の​力に​よって​大学が​生まれ、​維持される​ことを​如実に​物語っています。

​ この機会を​お借りして、​大いなる​ナバラに​位置する​気高い​パンプロナ市の​この​大学に​対する​ご協力に​感謝いたします。​スペイン全土から​集まってくださった​後援会員の​皆さん、​中でも​スペイン以外の​国の​方々、​さらに​カトリック、​あるいは​キリスト者でない​方​々で、​この​大学の​意図と​精神を​理解し、​実際に​援助してくださった​皆さんに、​心から​感​謝致します。

​ この​大学が、​日々より​良く​自由の​発展や​知的訓練の​場、​各分野の​仕事の​研鑽の​場、​大学教育への​大きな​刺激の​中心と​なったのも、​ひとえに​皆さんの​ご協力の​おかげです。​皆さんの​惜しみない​犠牲は、​学問の​進歩と​社会の​発展、​信仰教育を​追求する​普遍的な​事業の​土台に​なっています。​今、​私が​申し上げた​ことを​ナバラの​方​々は​はっきり​ご覧に​なっておられ、​この​大学が​当地の​経済的な​発展、​特に​地域社会の​発展の​主な​要因であったことも​周知の​通りです。​人々の​生活の​中で​大学が​果たす役割を​理解してくださったから​こそ、​大学創設以来、​ナバラの​人た​ちが​強力な​援助の​手を​差し​伸べてくださった​ことは​明らかです。​この​支援は​日々​高まり、​広がっていかなければならないと​考えています。

​ 同時に、​何らの​利益も​求めず、​公益に​資する​ために​のみ​すべてを​捧げ、​国家の​現在と​将来の​繁栄に​貢献しようとする​事業が、​国の​援助を​受けて​負担を​軽く​できる​日の​来る​ことを​望んでいます。​この​種の​援助は​現に​各国で​与えられ、​それが​当然であると​考えられています。

人間の​愛

 さて、​私たちに​とってとりわけ大切な​日常生活の​もう​一つの​面、​つまり​人間の​愛、​男女間の​清い愛、​婚約、​結婚に​ついて​少し​考えてみましょう。​人間の​清い愛は、​先に​述べた​偽りの​精神主義が​ほの​めかすように、​本当の​霊的(精神的)活動の​傍らで、​ただ単に​許され​容認されるだけの​ものでは​ありません。​私が​話したり​書いたりして、​そうではないと​説き続けて​四十年が​経ちました。​初めは​理解できなかった​方​々も、​今では​次第に​分かってくださっています。

​ 結婚​生活と​家庭生活に​向かう​愛も​また、​聖なる​道、​召し出し、​素晴らしい​道、​神への​まったき献身の​道に​なるのです。​すでに​思い起こしていただいたように、​すべてを​完璧に​成し遂げ、​日々の​小さな​事柄に​愛を​込め、​些細な​事柄の​中に​隠れている​〈神的な​もの〉を​見つけ出してください。​これら​すべては、​活力ある​人間の​愛の​ある​ところで​実現できるはずなのです。

​ ナバラ大学の​教授と​学生、​職員の​方々なら​ご存じのように、​私は​皆さんの​愛を​麗しい​愛の​御母・聖マリアに​託しました。​皆さんが​捧げる​清く​素晴らしい​愛と​祈りを​受け入れて​祝福してくださる​よう、​キャンパスに​聖母小聖堂を​信心込めて​建立しました。​「あなたが​たの体は、​神から​いただいた​聖霊が​宿ってくださる​神殿であり、​あなたがたはもは​や​自分​自身の​ものではないのです」。​皆さんは​何度も、​麗しい​愛の​聖母像の​前で、​使徒聖パウロの​この​質問に​喜びに​溢れて​答える​ことでしょう。​神の​御母、​知っております、​あなたの​力強い​御助けを​得て、​聖霊の​神殿に​ふさわしく​生きたいと​願っています、と。

​ この​感動を​誘う​事実を​黙想する​度に、​観想的な​祈りが​湧き​上がる​ことでしょう。​聖霊は​物質に​過ぎない​私の​体の​中に​ご自身の​住まいを​定められた。​私は​もう​私の​ものではない。​私の​体も​霊魂も、​私の​全存​在が​神の​ものである。​そして​「自分の​体で​神の​栄光を​現しなさい」と​いう、​聖パウロの​言葉を​実行する​ことに​よって、​この​祈りは​具体的な​行いを​豊かに​生み出す​ことでしょう。

ところで、​次の​事実を​忘れる​ことは​できません。​すなわち、​これまで​続けてきた​人間愛に​関する​黙想の​中身を​本当に​深く​理解し、​評価できる​人だけが​イエスの​独身に​ついての​言葉の​意味を​理解できると​いう​こと。​神の​ための​独身は​純粋に​神の​賜物です。​それに​よって、​現世の​愛を​通さず、​心を​分かたず、​体と​霊魂を​神に​捧げる​ことができるのです。

そろそろ​結びにしなければなりません。​神の​偉大さと​慈しみに​ついて​少しばかり​お話しする​つもりでしたが、​日常生活の​聖化に​ついて​述べた​今、​私の​望みは​達せられた​と​考えます。​と​言うのも、​世俗の​現実の​中で、​心静かに​単純に、​真実を​愛する​心で​聖なる​生活を​営むことこそ、​世を​救う​ため小止みなく​働かれる​神の​深い慈しみ、​「大いなる業」の​最も​心を​打つ​表れであるからです。

​ 詩編作者と​共に、​皆さんに​お願いします。​私の​祈りと​賛美に​心を​合わせてください。​「わたしと​共に​主を​たたえよ。​ひとつに​なって​御名を​あがめよう」。​皆さん、​信仰に​従って​生きましょう。

​ 少し​前に​朗読された​エフェソの​信徒への​手紙の​中で​聖パウロが​力づけていたように、​信仰の​盾、​救いの​兜を​身に​帯び、​神の​言葉である​霊の​剣を​とりたい​ものです。

​ 信仰は​キリスト者に​とって​非常に​必要な徳ですが、​教皇パウロ六世の​公布された​「信仰の​年」である​今年には、​特に​必要です。​信仰が​なければ、​日々の​生活を​聖化する​ための​土台​その​ものを​欠く​ことに​なるからです。​「信仰の​神秘(聖体)」に​近づく​今、​篤い​信仰が​要求されています。​神の​慈しみの​集約で​あり実現である​主の​過越に​あずかろうと​しているからです。

​ 皆さん、​間もなく​祭壇上で​再現​(現実化)される​「私たちの​贖いの​業」を​宣言する​ために​信仰が​必要です。​クレド(使徒信条)を​味わい、​今この​祭壇の​上、​この​集いの​中で​実現する​キリストの​現存を、​身を​もって​体験する​ためには​信仰が​必要です。​キリストの​現存の​おかげで、​私たちは​「心も​思いも​一つに」して、​一、​聖、​公(カトリック)、​使徒継承の​ローマ教会、​つまり​普遍の​教会と​なる​ことができるのです。

​ 愛する​皆さん、​最後に​もう​一つ。​日常生活は​聖化され得る​ことを​人々に​示し、​先に​述べた​事柄は​いずれも​単なる​儀式と​言葉ではなく、​神的な​現実である​ことを​世界に​証明する​ためには、​信仰が​必要なのです。​父と​子と​聖霊、​聖母マリアの​御名に​よって。

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