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パンと​言葉に​おける​イエス・キリストとの​交わり

 キリストの​秘義を​観想する​ことができれば、​また、​清い眼で​イエスを​見つめようと​努めるならば、​イエスに​親しく​近づく​ことは、​今でも​可能である​ことに​気づきます。​キリストは​道を​はっきりと​示してくださいました。​パンと​言葉が​その道なのです。​ご聖体に​よって​養われ、​主のみ​教えを​学び実行しながら、​祈りに​おいて​主と​語り​あう​道の​ことです。​「わたしの​肉を​食べ、​わたしの​血を​飲む者は、​いつも​わたしの​内に​おり、​わたしも​またいつも​その​人の​内に​いる」6。​「わたしの​掟を​受け入れ、​それを​守る​人は、​わたしを​愛する者である。​わたしを​愛する​人は、​わたしの​父に​愛される。​わたしも​その​人を​愛して、​その​人に​わたし自身を​現す」7。

​ これは​約束以上の​こと、​愛の​極みであり、​本物の​生活、​言い​換えれば、​恩恵に​満たされ、​神と​親しく​交わる​ことのできる​生活なのです。​「わたしが​父の​掟を​守り、​その愛にとどまっているように、​あなたが​たも、​わたしの​掟を​守るなら、​わたしの​愛にとどまっている​ことに​なる」8。​昇天を​前もって​告げ知らせると​なれば、​最後の​晩餐の​主の​言葉ほど​適切な​言葉は​ないでしょう。​行かなければならない​ことを​キリストは​ご存じでした。​私たちには​理解する​ことは​できませんが、​ご昇天後、​至聖なる​三位一体の​第三の​ペルソナ聖霊が、​神の​愛の​新たな​溢れと​して​来られるは​ずだったからです。​「実を​言うと、​わたしが​去って​行くのは、​あなたが​たの​ために​なる。​わたしが​去って​行かなければ、​弁護者は​あなたが​たの​ところに​来ないからである。​わたしが​行けば、​弁護者を​あなたが​たの​ところに​送る」9。

​ 天に​昇られてから、​主は、​人の​心を​支配し聖化する​聖霊を​送ってくださいます。​慰め主の​働きかけを​受ける​とき、​私たちは​キリストの​お告げに​なったことが​実現した​ことを​知ります。​私たちは​神の​子であり、​「人を​奴隷と​して​再び恐れに​陥れる​霊ではなく、​神の​子と​する​霊を​受けたのです。​この​霊に​よって​わたしたちは、​『アッバ、​父よ』と​呼ぶのです」​10と​いう​言葉が​確信できるようになるのです。

​ おわかりに​なるでしょうか。​これが​心の​中での​聖三位一体の​働きかけなのです。​パンと​言葉、​ご聖体と​祈りに​おける、​キリストとの​一致に​導く​恩恵に​応える​ならば、​キリスト信者は​誰でも、​心の​奥深くに​お住まいに​なる​神に​近づく​ことができます。​教会は、​生ける​パンを​毎日​思い​起こさせるだけではなく、​典礼暦に​聖木曜日と​ご聖体の​祝日と​いう​二大祝日を​定めました。​今日、​ご昇天を​祝うに​あたって、​イエスとの​語らいに​心を​向け、​注意深く​主の​言葉に​耳を​傾けましよう。

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