主の昇天

1960年5月19日 主の昇天の祝日


再び典礼は、​人々と​共に​お過ごしに​なった​イエス・キリストの​ご生涯の​秘義の​うち最後の​もの、​つまり​ご昇天に​招いています。​ベトレヘムでの​ご誕生以来、​いろいろな​出来事が​ありました。​お生まれに​なった​ところでは、​羊飼いと​東の​国の​博士たちの​礼拝を​お受けに​なる主を​見つけ、​ナザレでは​長年に​わたって​黙々と​仕事を​なさる​主を​黙想しました。​パレスチナ地方を​巡って​神の​国を​人々に​告げ、​万人に​善を​施し続ける​主の​お供を​しました。​そして、​ずっと​後の​ご受難の​ときには、​群衆が​キリストを​訴え、​怒り​狂って​キリストを​虐待し、​憎悪に​みちて​主を​十字架に​つける​恐ろしい​場面に​立ち会い、​私たちは​苦しんだのです。

​ しかし、​その​苦しみの​後に、​輝かしい​ご復活の​喜びが​訪れました。​ご復活ほど、​明らかで​確固たる​信仰の​支えと​なる​ものは​ありません。​もう​疑う​余地さえなくなりました。​しかし​私たちは、​あるいは​まだ​使徒たちのように​弱いかも​知れません。​そこで​ご昇天を​迎える​今日、​キリストに​お尋ねしましょう。​「イスラエルの​ために​国を​建て​直してくださるのは、​この​時ですか」1、​私たちの​惨めさや​困惑が​すべて​消え去るのは​今ですか、と。

​ 主の​与えられる​返事は​ご昇天でした。​残された​私たちは、​弟子たちのように、​驚き悲嘆に​くれて​立ち尽くしてしまいます、​事実、​イエスが​実際に​傍に​おいでにならない​状態に​慣れるのは​そう​容易な​ことでは​ありません。​私たちを​深く​愛する​イエスは​立ち去り、​そして​お残りに​なる。​天に​昇ると​同時に​聖なる​ホスチアの​形で​食物と​して​ご自分を​お与えに​なる。​このような​イエスを​見ると​心打たれます。​しかし、​人間と​しての​主の​お言葉や​立居振舞・​視線・微笑み・​善き業に​接する​ことができない​ことを​思うと​淋しくなってきます。​辛い​道のりに​疲れて井戸の​傍に​お座りに​なった​とき2、​ラザロの​ために​お泣きに​なった​とき3、​長く​祈られた​とき4、​群衆に​同情な​さった​とき5の​主を​もう​一度​近くから​眺めたいと​思うのです。

​ イエス・キリストの​人性が​御父の​光栄に​あげられるのは​尤もなことだと​思い、​私は​心から​喜びました。​しかし、​ご昇天の​日特有の​この​悲しみも、​主なる​イエスに​対する​愛の​表れであると​思うのです。​完全な​神である​お方は、​血肉を​持った​完全な​人となられました。​そして​今、​私たちから​離れて天に​お昇りに​なります。​淋しく​思わずに​いられるでしょうか。

パンと​言葉に​おける​イエス・キリストとの​交わり

 キリストの​秘義を​観想する​ことができれば、​また、​清い眼で​イエスを​見つめようと​努めるならば、​イエスに​親しく​近づく​ことは、​今でも​可能である​ことに​気づきます。​キリストは​道を​はっきりと​示してくださいました。​パンと​言葉が​その道なのです。​ご聖体に​よって​養われ、​主のみ​教えを​学び実行しながら、​祈りに​おいて​主と​語り​あう​道の​ことです。​「わたしの​肉を​食べ、​わたしの​血を​飲む者は、​いつも​わたしの​内に​おり、​わたしも​またいつも​その​人の​内に​いる」6。​「わたしの​掟を​受け入れ、​それを​守る​人は、​わたしを​愛する者である。​わたしを​愛する​人は、​わたしの​父に​愛される。​わたしも​その​人を​愛して、​その​人に​わたし自身を​現す」7。

​ これは​約束以上の​こと、​愛の​極みであり、​本物の​生活、​言い​換えれば、​恩恵に​満たされ、​神と​親しく​交わる​ことのできる​生活なのです。​「わたしが​父の​掟を​守り、​その愛にとどまっているように、​あなたが​たも、​わたしの​掟を​守るなら、​わたしの​愛にとどまっている​ことに​なる」8。​昇天を​前もって​告げ知らせると​なれば、​最後の​晩餐の​主の​言葉ほど​適切な​言葉は​ないでしょう。​行かなければならない​ことを​キリストは​ご存じでした。​私たちには​理解する​ことは​できませんが、​ご昇天後、​至聖なる​三位一体の​第三の​ペルソナ聖霊が、​神の​愛の​新たな​溢れと​して​来られるは​ずだったからです。​「実を​言うと、​わたしが​去って​行くのは、​あなたが​たの​ために​なる。​わたしが​去って​行かなければ、​弁護者は​あなたが​たの​ところに​来ないからである。​わたしが​行けば、​弁護者を​あなたが​たの​ところに​送る」9。

​ 天に​昇られてから、​主は、​人の​心を​支配し聖化する​聖霊を​送ってくださいます。​慰め主の​働きかけを​受ける​とき、​私たちは​キリストの​お告げに​なったことが​実現した​ことを​知ります。​私たちは​神の​子であり、​「人を​奴隷と​して​再び恐れに​陥れる​霊ではなく、​神の​子と​する​霊を​受けたのです。​この​霊に​よって​わたしたちは、​『アッバ、​父よ』と​呼ぶのです」​10と​いう​言葉が​確信できるようになるのです。

​ おわかりに​なるでしょうか。​これが​心の​中での​聖三位一体の​働きかけなのです。​パンと​言葉、​ご聖体と​祈りに​おける、​キリストとの​一致に​導く​恩恵に​応える​ならば、​キリスト信者は​誰でも、​心の​奥深くに​お住まいに​なる​神に​近づく​ことができます。​教会は、​生ける​パンを​毎日​思い​起こさせるだけではなく、​典礼暦に​聖木曜日と​ご聖体の​祝日と​いう​二大祝日を​定めました。​今日、​ご昇天を​祝うに​あたって、​イエスとの​語らいに​心を​向け、​注意深く​主の​言葉に​耳を​傾けましよう。

祈りの​生活

 ​「わたしの​命の​神への​祈り」11。​神が​人間に​とって命である​ならば、​キリスト信者と​しての​生活が​祈りに​織りなされているべきであると​しても​驚くには​あたりません。​しかし、​祈りとは​唱えれば​それで​おしまいで、​後は​すぐに​忘れてしまう​その​場限りの​行為であると​考える​わけには​いきません。​義人は、​「主の​教えを​愛し、​その​教えを​昼も​夜も​口ずさむ」12。​朝に​あなたを​思い13、​夕に​わたしの​祈りを​み前に​たちの​ぼる​香のように​14。​朝から​晩まで、​晩から​朝まで​二十四時間を​祈りの​ときとする​ことができます。​さらに​そのうえ、​聖書にも​あるように、​夢も​祈りでなければなりません15。

​ 福音書が​イエスに​ついて​述べている​ところを​思い​起こしてください。​しばしば、​夜を​徹して​御父との​親密な​語らいに​お過ごしに​なりました。​最初の​弟子たちは​祈る​キリストの​姿に​心惹かれた​ものです。​先生の​変わらない​祈りの​姿を​何度も​眺めてから、​弟子たちは、​「主よ、​(…)​わたしたちにも​祈りを​教えてください」16と​願ったのです。

​ 聖パウロは、​「たゆまず​祈りなさい」17と​書き記し、​キリストの​生きた​模範を​至る​ところに​広めました。​聖ルカは​初代教会の​信者の​生活を、​「心を​合わせて​熱心に​祈っていた」18と、​わずか​一筆で​極めて​簡潔に​描写しています。

​ 熱心な​キリスト信者の​気風は​恩恵の​助けのもとに​祈りに​精励する​ことに​よって​培われます。​祈りとは​命ある​ものですから、​いつも​同じ方​法で​成長するとは​限りません。​人は​普通、​心中の​思いを​言葉に​表して​安らぐ​ものです。​神ご自身が​お教えに​なった​〈主の​祈り〉や天使が​教えた​〈アヴェ・マリアの​祈り〉などの​口祷を​唱えて、​心は​安らぐのです。​また​ある​ときには、​時の​流れとともに​磨きあげられ、​何百万と​いう​信仰に​おける​兄弟の​信心の​込められた​祈り、​たとえば、​「祈りの​法典」とも​言われている​典礼の​祈りや​「天主の​聖母の​御保護に​より​すがり奉る​(…)」、​「慈悲深き童貞マリア、​御保護に​より​すがりて​(…)」、​「元后あわれみの​母、​(…)」など、​聖母に​対する​数多くの​祈りのように、​愛に​夢中に​なった​心から​自然に​湧き出る​祈りを​唱えます。

​ 矢のように​主に​向ける​二言、​三言の​射祷だけで​十分な​ときも​あるでしょう。​キリストの​ご生涯を​注意深く​読めば、​たくさんの​射祷を​学ぶことができます。​「主よ、​御心ならば、​わたしを​清く​する​ことが​おできに​なります」​19、​「主よ、​あなたは​何もかも​ご存じです。​わたしが​あなたを​愛している​ことを」20、​「信じます。​信仰の​ない​わたしを​お助けください」​21、​「主よ、​わたしは​あなたを​自分の​屋根の​下に​お迎えできるような​者では​ありません」​22、​「わたしの​主、​わたしの​神よ」​23。​その他、​心の​底の​熱愛から​湧き出た、​個々の​場面や​状況に​相応しい、​短くとも​愛の​こもった​言葉を​探すことができるでしょう。

​ 祈りの​生活を​送るには、​そのうえ毎日、​神との​交わりに​のみ​捧げられた​ひと​ときを​持たなければなりません。​この​祈りの​ひと​ときには、​二十世紀も​前から​孤独の​うちに​待っていてくださる​主に​感謝する​ために、​できる​限りいつも​聖櫃の​傍で、​多弁を​弄する​ことなく​静かに​語り合うのです。​念祷とは、​知性も、​想像も、​記憶も、​意志も​すべてを​使って、​つまり​全霊を​込め、​心を​あげて​神と​語り合う​ことです。​人間のとるに​足りない​生活、​毎日の​平凡な​生活に、​超自然的価値を​与えるのが​この​念祷です。

​ 念祷の​ひと​ときと、​口祷や​射祷が​あればこそ、​芝居が​かったことも​せずに​ごく​自然に、​日常生活を​神への​絶え​ざる​賛美に​変える​ことができるのです。​愛し合っている​者が​いつも​相手に​思いを​馳せるように、​私たちも、​このような​祈りの​おかげで​神の​現存を​保つことができ、​最も​些細な​ものも​含めすべての​行いが​霊的効果に​満たされるのです。

​ 従って、​特権階級の​人々の​ためだけではなく、​万人の​道である​この、​主との​間断ない​交わりの​道に​分け入ると、​内的生活は​確実に​逞しく​成長し、​神のみ​旨を​徹底的に​実行する​ための、​快くも​厳しい​戦いに​敢然と​臨むことができるのです。

​ 祈りの​生活が​あれば、​今日の​祝日が​思い起こさせる​もう​一つの​テーマ、​使徒職の​大切さが​よく​わかる​ことでしょう。​昇天の​少し前に​イエスは​弟子たちに​仰せに​なりました、​「エルサレムばかりでなく、​ユダヤと​サマリアの​全土で、​また、​地の​果てに​至るまで、​わたしの​証人と​なる」24。​使徒職とは、​この​イエスのみ​教えを​実行に​移すことなのです。

使徒職・​救いの​業への​協カ

 祈りの​人は​神との​交わりを​通して、​ごく​自然に、​使徒職への​大きな​熱意を​持つようになります。​「心は​内に​熱し、​呻いて​火と​燃えた」25。​ここで​言う​燃える​火とは、​「わたしが​来たのは、​地上に​火を​投ずる​ためである。​その​火が​既に​燃えていたらと、​どんなに​願っている​ことか」​26と​キリストが​言われた、​その​火以外の​何物でもありません。​つまり、​祈りで​強められる​使徒職の​火の​ことなのです。​キリストの​苦しみの​欠けた​ところを​身を​もって​満た​すために​27、​信者が​参加するよう召されている​この​平和の​戦いを、​世界中至る​ところに​拡げていく​上で、​祈りよりも​優れた​手段は​ほかに​ありません。

​ イエスは​天に​昇ってしまわれました。​しかし、​十二人の​弟子たちがキリストに​接したように、​信者は、​祈りと​聖体に​おいて​主と​交わる​ことに​よって、​平和と​喜びを​蒔く​救いの​業を​主と​共に​行う​情熱を、​燃やすことができます。​使徒職とは​奉仕以外の​何でも​ありません。​自己の​力だけを​当てにするならば、​超自然の​分野では​何も​達成できないでしょう。​しかし、​神の​道具と​なるならば、​すべてを​獲得できるのです。​「わたしを​強めてくださる​方の​お陰で、​わたしには​すべてが​可能です」28。​善い方である​神は、​なんの​取りえも​ない​道具を​用いる​ことに​されました。​従って、​使徒とは​ご自分の​人々、​お選びに​なった​人々を​通して、​神が​救いの​業を​行われるように​主の​働きに​自己を​委ね、​いつ​何時でも​主の​ご命令の​ために​働く​心構えを​持つ人の​ことなのです。

​ 使徒とは、​洗礼に​よって​キリストに​接ぎ木され、​キリストと​一致し、​堅信に​よって​キリストの​ために​戦う​力が​与えられた​信者の​ことであり、​また​信者の​共通の​祭司職に​よって、​世界中で​行いを​もって​神に​仕えるように​召された​と​自覚する​信者の​ことであると​言えます。​信者の​共通の​祭司職は、​キリストの​祭司職に​ある​程度​あずかりますが、​職位的祭司職とは​本質的に​異なり、​共通の​祭司職に​よって​信者は​教会の​典礼に​参与し、​言葉と​模範、​祈りと​償いに​励み、​それに​よって​神への​道を​歩む​人々を​助ける​力を​受けるのです。

​ 私たち一人​ひとりが​同じ​キリストに​ならなければなりません。​キリストだけが​神と​人間との​間の​唯一の​仲介者ですから​29、​キリストと​共に​すべてを​神に​お捧げする​ためには、​キリストと​一致しなければならないのです。​社会の​中に​あって、​神の​子と​なる​召命を​受けた​私た​ちが、​自己の​聖化を​追求するだけでは​十分では​ありません。​地上の​小道を​巡って、​障害を​打ち破り、​その​小道を​神への​近道に​変えなければなりません。​この​世の​どのような​活動にも、​人々と​一緒に​参加し、​パン種30と​なって​粉全体を​膨らませ31なければならないのです。

​ キリストは​天に​お昇りに​なり、​人間的に​みて​正しい​事柄すべてに、​救いに​あずかる​可能性を​与えてくださいました。​大聖グレゴリオは、​キリスト教の​この​偉大な​テーマを​正確に​書き残しています。​「イエスは​このように​して、​それまで​住んで​おられた​ところを​去り、​以前​おいでになった​ところに​向かって​出発された。​事実、​ご昇天の​ときに、​その​神性を​もって​天と​地を​結合された。​人間に​罰を​与える​宣告、​人間を​腐敗に​従属させる​判決が​撤廃された​事実を、​今日の​祝日に​荘厳に​宣言するのは​よい​ことである。​あなたは​塵であり、​塵に​かえらねばならない​(創世記3・19)と​いう​一節が​示している​人間の​本性は、​今日キリストと​共に​天に​上げられた​その本性である」32。

​ 何度も​申し上げたい​ことは、​世界は​聖化され​得る、​また、​私たち信者に​こそ、​その​聖化の​仕事が​与えられている​ことであります。​世界を​醜く​する​罪の​機会を​取り​除き、​世界を​浄め、​神の​恩恵に​助けられた​我々の​努力に​よって​尊厳を​得た​世界を、​霊的ホスチアと​して​主に​お捧げする​仕事が​任されているのです。​み言葉が​人となられ、​ご自分の​現存と​働きに​よって​この​地上を​聖別してくださって​以来、​高貴な​もので​神と​関係の​ない物は​存在しなくなりました。​洗礼に​よって、​キリストと​共に​世を​贖うと​いう​崇高な​使命を​受けたのです。​神の​救霊のみ​業の​一部なりとも​担うようにと​キリストは​私たちを​駆り立てておられます33。

​「ユダヤ人には​つまずかせる​もの、​異邦人には​愚かな​もの」34である​十字架の​恥辱と​光栄の​うちに、​イエスが​お亡くなりに​なった​とき​完成した​贖いは、​神のみ​旨に​よって​主の​時が​訪れるまで​継続するでしょう。​日毎に​神の​御憐れみに​信頼する​必要が​あると​納得している​ならば、​イエスの​聖心に​従って​生き、​すべての​「罪人を​救う​ため」​35に、​主と​同じく​私たちも​遣わされた​と​感じずに​生きる​ことは​できません。​そこで、​キリストと​共に​全人類を​救い、​キリストと​共に​贖い主となりたいと​いう​熱烈な​希望が​生まれます。​私たちは​「同じ​キリスト」であり、​そう​ありたいと​望み、​キリストは、​「すべての​人の​贖いと​して​御自身を​献げられ」​36たからです。

​ 前途には​大きな​仕事が​待っています。​受身の​態度では​消極的すぎます。​「わたしが​帰って​来るまで、​これで​商売を​しなさい」37と、​主は​はっきり仰せに​なりました。​主が​その​王国を​完全に​所有する​ために​帰って​来られるのを​待っている​間、​手を​こまねいている​わけには​いきません。​神のみ​国を​拡げる​仕事は、​キリストから​神聖な​権能を​授けられた​キリストの​代理と​なる​教会の​聖職者のみが​携わるべき課題ではないのです。​「あなたがたは​キリストの​体であり」38と​言う​使徒聖パウロは、​最後まで​仕事を​続けよと​命じています。

​ な​すべきことは​たくさん​残されています。​二十世紀の​間、​何もなされなかったのでしょうか。​実に​多くの​仕事が​なされました。​熱心に​祖先の​行った​ことを​過小評価するのは、​客観的であるとも、​正当であるとも​思われません。​二十世紀に​わたって​大事業が​行われてきました、​しかも​多くの​場合、​実に​立派に​成就されたのです。​ある​ときは​失敗や​後退も​ありました。​しかし、​今日でも、​勇気や​惜しみない​心と​同時に、​後ずさり、​恐怖、​臆病は​あります。​この​人類と​いう​家族は​絶えず​新たに​入れ替わっています。​それゆえ、​世代毎に、​神の​子と​して​召されている​ことの​偉大さを、​人々が​理解するように、​熱心に​助け続けなければなりません。​創造主と​隣人への​愛の​掟を​しっかりと​伝えなければならないのです。

キリストは​明らかに​神の​愛の​道を​教えてくださいました。​使徒職とは、​人々に​自己を​捧げる​こと、​溢れ出る​神の​愛の​ことなのです。​内的生活とは、​パンと​み言葉を​通して​キリストとの​一致に​成長する​ことです。​そして​使徒職への​熱意とは、​内的生活が​あれば​当然現れる​ものであり、​内的生活に​比例する​ものなのです。​神の​愛を​〈味わう​〉ようになると、​他人に​対する​責任を​感じる​ものです。​神で​あり人である​キリストと​救いのみ​業とを​切り離して​考える​ことができないのと​同じように、​内的生活と​使徒職とを​切り離して​考える​ことは​できません。​人類を​救う​ために​み言葉が​人となられたのは、​人類と​み言葉とが​ひとつと​なる​ためでした。​「わたしたち人類の​ため、​わたしたちの​救いの​ために​天からくだり」と、​信仰宣言で​唱える​通りなのです。

​ キリスト信者に​とって、​使徒職は​持って生まれた​仕事と​言えます。​日々の​職業・活動に​外部から​付加され、​並べ置かれた​ものでは​ありません。​主が​オプス・​デイの​創立を​ご計画に​なって​以来、​私は​たゆまずこの​事実を​主張して​来ました。​各自が​それぞれの​身分に​おいて、​日常の​仕事を​聖化し、​その​仕事に​おいて​自己を​聖化し、​また​職務の​遂行に​際して​隣人を​も聖化しなければならないのです。

​ 使徒職とは​キリスト信者の​呼吸と​言えるでしょう。​神の​子で​あれば、​この​霊的鼓動なしに​生きる​ことは​できません。​今日の​祝日は​人々の​救いに​対する​熱意が​主の​愛すべき​ご命令である​ことを​思い起こさせます。​栄光を​受ける​ために​お昇りに​なる​とき、​私たちを​地上の​果てまで​主の​証人と​してお遣わしに​なったのです。​責任は​重大です。​キリストの​証人に​なると​いう​ことは、​まず主のみ​教えに​相応しい​行動を​し、​私たちの​行いが​イエスを​思い起こさせ、​いとも​甘美なるみ姿を​人々に​思い出させるように​戦う​ことであるからです。​憎しみを​抱かず、​抱擁力を​もち、​狂信的にならず、​本能に​左右されず、​犠牲を​甘受し、​人々に​平安を​与え、​愛し合う​私たちを​みる​人々が、​これこそ​キリスト信者であると​言えるように​振る​舞わなければなりません。

よい​麦と​毒麦

 ​私の​考えではなく、​キリストのみ​教えに​沿って​キリスト信者の​理想と​すべき道を​描いて​来ました。​崇高な​道で、​人を​惹きつける​力を​持つことが​おわかりに​なるでしょう。​とは​言え、​今日の​社会で​そのような​生き方が​できるのだろうかと​問う​人も​いるかも​知れません。

​ 確かに、​平和、​平和と​叫ばれても​どこにも​平和の​ない​時代に、​主は​私たちを​お呼びに​なりました。​心の​中にも、​組織にも、​社会にも、​民族の​中にも​平和は​ありません。​平等だの、​民主主義だのと、​絶えず​説かれていますが、​閉鎖的で​入る​ことのできない​階級は​たくさん​残っています。​私たちが召されたのは、​人を​理解する​心が​強く​要求される​時代です。​その​理解も、​善意を​もって​振る​舞い​愛徳の​実行を​心がける​人々に​さえ欠ける​ことがあるので、​尚更目に​つく徳であると​言えるでしょう。​忘れては​なりません。​愛徳の​真髄は​与える​ことよりも​理解する​ことに​あるのです。

​ 他人の​考えを​受け入れる​ことも​できない​強情者や​狂信的な​人々が​息を​吹き返し、​激しく​荒々しく​彼らの​犠牲者と​なる​人々を​非難する​時代に​私たちは​生きているのです。​一致だ、​一致だと​やかましく​騒がれるのに、​人類全体は​言うに​及ばず、​カトリック信者の​中に​さえ、​これ以上の​不和が​あろうとは​想像も​できない​ほどの​不和に​満ちた​時代に​私たちは​神に​召されたのです。

​ 政治問題を​論ずるのでは​ありません。​私の​任務では​ありませんから。​今日の​世界の​情勢を​司祭と​しての​立場から​述べるには、​よい​麦と​毒麦のたとえを​もう​一度​思い出せば​十分でしょう。

​ ​「天の​国は​次のようにたとえられる。​ある​人が​良い種を​畑に​蒔いた。​人々が​眠っている​間に、​敵が​来て、​麦の​中に​毒麦を​蒔いて​行った」39。​畑は​肥えており、​種も​良質の​ものだった。​そして​畑の​主人は​完璧な​技術を​もって​一番​良い​時期に​種を​蒔いただけではなく、​蒔き終えたばかりの​種を​守る​ために​見張りも​立てたのです。​後で​毒麦が​芽生えたと​すれば、​それは​人々、​特に​キリスト信者が​眠り込んでいる​間に​敵の​侵入を​許したからです。

​ 無責任な​使用人た​ちが、​畑に​毒麦が​成長した​理由を​尋ねた​ときの​主人の​答えは​あまりにも​明白です。​「敵の​仕業だ」​40。​創造主の​手に​なる​世界中の​よい​ものが、​真理と​善に​役立つように​見張るべきであったのに、​私たちキリスト信者は​眠り込んでしまいました。​この​居眠りは​悲しむべき怠慢です。​その間、​敵と​敵に​仕える​人々は​休まずに​活動していたのです。​毒麦が​もう​非常には​びこっているのが​おわかりでしょう。​到る​ところに、​たくさん​蒔かれてしまったのです。

​ 私は、​不運を​告げる​預言者の​使命は​持っていません。​私の​言葉を​もって​絶望と​悲嘆に​満ちた​展望を​示すつもりは​ありません。​主の​摂理に​よって​私たちが​生きている、​この​時代を​つぶやく​意図も​ありません。​この​時代を​愛しています、​自己の​聖化を​追求すべき場なのですから。​子どもっぽい​無益な​懐古趣味など許されません、​今ほど​よかった​世界は​かつてなかったのですから。​昔から、​まだ​最初の​十二人の​宣教を​直接聞く​ことの​できた​教会の​揺籃期から、​すでに​激しい​迫害が​起こり、​異端が​始まり、​虚偽が​拡がり、​憎悪が​荒れ狂っていました。

​ しかし、​悪が​栄えていると​いう​印象を​否定する​ことも​当たっていません。​神の​畑全体、​すなわち、​キリストの​領地である​この​地上に、​毒麦が​芽を​出したのです。​毒麦が​あると​いうばかりでは​ありません。​実に​たくさん​生えているのです。​永遠に​進歩し、​後退する​ことなど​あり得ないと​いうような​神話に​欺かれては​なりません。​正しい​秩序に​従う​進歩は​望ましい​ものであり、​神に​お喜びいただけます。​しかし、​今は​偽りの​進歩ばかりが​誇張されます。​多くの​人々が​この​偽りの​進歩に​目を​くらまされてしまった​結果、​人類は​後退する​ことも、​かつて​征服した​ものを​失うことも​あり得ると​いう​事実に、​しばしば​気が​つかないのです。

​ 繰り返して​申しますが、​主は​世界を​遺産と​してお与えくださいました。​ですから、​心身共に​目覚めていなければなりません。​敗北主義者に​なれと​言うのではなく、​現実主義者であるべきだと​申し上げたいのです。​悪、​神への​侮辱、​時と​して​人々に​及ぼす償い​難い害を​顧みずに​世界を​眺める​ことができるのは、​鈍った​良心、​マンネリ化に​伴う​鈍感な心、​軽薄で​そそっかしい​態度だけです。​私たちは​楽天的でなければなりませんが、​それは​敗北する​ことの​ない​神の​力ヘの​信仰に​基づいた​楽天主義であり、​自己満足や、​愚かでう​ぬぼれの​強い​満足感に​基づく​楽天主義であっては​なりません。

平和と​喜びの​種蒔き

 何を​なすべきでしょうか。​社会的・​政治的危機とか​文化的病や​混乱を​述べようと​しているのではないと​先ほど​申しました。​キリスト教の​信仰の​立場から、​神の​侮辱と​いう​厳密な​意味での​悪に​ついて​お話ししているのです。​キリスト教の​使徒職とは、​政治的な​計画とか​既存の​文化の​代わりを​なすものを​示す​ことではなく、​善を​広め、​愛を​〈伝染〉させ、​平和と​喜びを​蒔く​ことを​意味するはずです。​このような​使徒職からは、​どんな​人にも、​より​一層の​正義、​より​深い​理解、​一人​ひとりに​対するより​厚い​信頼などの​霊的善が​必ずも​たらされるでしょう。

​ 周囲には​多くの​人々が​います。​人々の​永遠の​幸福を​妨げる​権利は​私たちには​ありません。​私たちは、​完全な​キリスト信者・聖人に​なり、​信者の​模範と​教えを​待ち望んでいる​すべての​人の​期待も​神の​お望みも、​裏切っては​なりません。

​ 使徒職は​信頼に​基礎を​置くべきでしょう。​もう​一度​繰り返し申し上げます。​愛徳とは​与える​ことより​むしろ理解する​ことに​あります。​私が​身を​もって​経験した、​理解されない​ときの​苦しみを​隠すつもりは​ありません。​いつも​理解して​もらうように​努力してきましたが、​私を​理解しようとしなかった​人も​あります。​これが、​すべての​人々を​理解したいと​私が​望む具体的な​もう​一つの​理由なのです。​広く​大きく​カトリック的な​心を​持つべきであると​いう​思いは、​その​場限りの​衝動に​よる​ものでは​ありません。​人々を​理解する​心は​神の​よい​子が​持つキリスト教的愛徳の​証拠です。​毒麦ではなく、​愛と​平和と​赦しと​寛容と​いう​兄弟愛の​種子を​広める​ために、​この​世の​正しい​道ならどの​道に​おいても​働く​私たちを​神は​必要となさるからです。​たとえ相手が​誰であっても、​敵と​思うような​ことが​あってはならないのです。

​ キリスト信者は​誰とも​仲良く​生活し、​キリスト・イエスに​近づく​可能性を​付き合いを​通して​人々に​与えなければなりません。​商品見本か​昆虫の​標本のように​人に​レッテルを​貼りつけ、​既成概念で​判断したり、​分類・​差別したりする​ことなく、​誰の​ためにも​喜んで​自己を​捧げなければなりません。​キリスト信者は​人から​離れて​孤立してはならないのです。​そのような​ことを​すれば、​利己的で​惨めな​生活を​送る​ことに​なるでしょう。​「すべての​人に​対して​すべての​ものにな」41らなければなりません。

​ このような​奉仕の​生活を​したい​ものです。​自らの​行為に​よって、​平和と​共存への​望みと​寛大な​心を​〈蒔きたい〉と​思いますが、​そう​すれば​各個人の​正しい​独立心が​育まれ、​この​世の​中で、​一人​ひとりが​自己の​行いの​責任を​とるでしょう。​キリスト信者は、​自己の​自由を​擁護する​ために、​まず、​他人の​自由を​尊重しなければなりません。​誰でも​例外なく​惨めさを​持ち、​過失を​犯しますから、​あるが​ままの​人々を​受け入れる​心を​持たなければなりません。​人々が​悪を​克服し、​毒麦を​抜き捨てる​ことができるように、​人々の​ために​神の​恩恵を​願い、​優しい​心遣いを​示さなければならないのです。​そう​すれば、​皆が​互いに​助け合い、​人間と​して、​信者と​して、​相応しく​生きる​ことができるのです。

来世の​生命

 キリストが​弟子たち皆に​お任せに​なった​使徒職は、​このような​わけで、​具体的な​結果を​社会にも​たらします。​キリスト信者であるからと​いって、​社会に​背を​向けて、​人間の​本性に​関して​悲観的な​考え方などできません。​正しい​ことで​あれば​どんなに​小さな​ことでも​すべて、​神的・​人間的意味を​秘めています。​完全な​人である​キリストは​人間的な​ものを​破壊する​ためにではなく、​人間の​本性を​高める​ために​罪以外の​人性を​おとりに​なりました。​悪への​悲しむべき〈冒険〉を​除いて​人間の​持つ抱負を​共に​分かち合う​ために​来られたのです。

​ キリスト信者は​常に、​完全に​社会の​中に​あって、​社会を​内部から​聖化する​つもりでなければなりません。​しかし、​人間の​意志の​弱さや​罪に​負けて​神を​否定し、​愛すべき​救いの​計画に​反する​要素である​悪い​意味での​世間に​染まっては​なりません。

 主の​昇天の​祝日は​もう​一つの​ことを​教えてくれます。​社会に​あって​使徒職を​するよう​勧める​キリストは、​私たちを​天国で​待っていてくださると​いう​ことです。​言い​換えれば、​私たちが愛する​この​地上での​生活が​最終的な​ものではないと​教えているのです。​「わたしたちは​この​地上に​永続する​都を​持っておらず、​来るべき都を​探し求めているのです」42。​不変の​都を​探しているからです。

​ しかし、​神のみ​言葉を​狭い​視野の​中で​把握しないようにしましょう。​来世での​慰めのみに​希望を​託して、​この​世に​いる間、​不幸であるようにとは​お望みに​なりません。​神は​私たちが​この世に​あっても​幸福であるように​お望みに​なります。​神のみが​完全に​与え得る​来世の​幸福が​最終的に​獲得できるのを​期待しながら、​この​世でも​幸せであれ、​とお望みなのです。

​ この​世に​おける、​超自然的な​事柄の​観想、​恩恵の​働きかけ、​神の​愛の​甘美な​実りと​しての​隣人愛などは、​天国の​〈前金〉であり、​日毎に​成長する​ための​第一歩であります。​キリスト信者は​二重生活を​すべきではなく、​全活動の​基礎となりすべてを​貫く​素朴ながらも​強靱な​生活の​一致を​保たなければなりません。

​ キリストは​待っていてくださいます。​「わたしたちの​本国は​天に​あります」​43が、​私たちは​完全に​この​世の​住人でもあります。​困難、​不正、​無理解の​さなかに​あっても、​神に​愛されている​子どもと​しての​喜びと​落ち着きを​保つことができるからです。​神への​奉仕に​倦まず​堅忍しましょう。​そう​すれば​キリストの​平和部隊、​救霊に​協力する​民が、​数に​おいて​聖性に​おいて​増加するのを​見る​ことができるでしょう。​いつも​主と​交わり、​絶え​ざる​対話を​保ちましょう。​一日の​最初から​最後まで、​主イエス・キリストに​心を​寄せて、​思いが​我らの​母なる​聖マリアを​通して​イエスに​至り、​イエスを​通して​御父と​聖霊に​至るように​努めましょう。

​ しかし、​色々​努力してもなお、​イエスの​ご昇天が​悲しみを​心に​残すならば、​使徒た​ちがしたように​聖母の​許へ​駆けつけましょう。​「使徒たちは、​『オリーブ畑』と​呼ばれる​山から​エルサレムに​戻って​来た。​この​山は​エルサレムに​近く、​安息日にも​歩く​ことが​許される​距離の​所に​ある。​彼らは​都に​入ると、​泊まっていた​家の​上の​部屋に​上がった。​それは、​ペトロ、​ヨハネ、​ヤコブ、​アンデレ、​フィリポ、​トマス、​バルトロマイ、​マタイ、​アルファイの​子ヤコブ、​熱心党の​シモン、​ヤコブの​子ユダであった。​彼らは​皆、​婦人たちや​イエスの​母マリア、​また​イエスの​兄弟たちと​心を​合わせて​熱心に​祈っていた」44。

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