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​「ユダヤ人には​つまずかせる​もの、​異邦人には​愚かな​もの」34である​十字架の​恥辱と​光栄の​うちに、​イエスが​お亡くなりに​なった​とき​完成した​贖いは、​神のみ​旨に​よって​主の​時が​訪れるまで​継続するでしょう。​日毎に​神の​御憐れみに​信頼する​必要が​あると​納得している​ならば、​イエスの​聖心に​従って​生き、​すべての​「罪人を​救う​ため」​35に、​主と​同じく​私たちも​遣わされた​と​感じずに​生きる​ことは​できません。​そこで、​キリストと​共に​全人類を​救い、​キリストと​共に​贖い主となりたいと​いう​熱烈な​希望が​生まれます。​私たちは​「同じ​キリスト」であり、​そう​ありたいと​望み、​キリストは、​「すべての​人の​贖いと​して​御自身を​献げられ」​36たからです。

​ 前途には​大きな​仕事が​待っています。​受身の​態度では​消極的すぎます。​「わたしが​帰って​来るまで、​これで​商売を​しなさい」37と、​主は​はっきり仰せに​なりました。​主が​その​王国を​完全に​所有する​ために​帰って​来られるのを​待っている​間、​手を​こまねいている​わけには​いきません。​神のみ​国を​拡げる​仕事は、​キリストから​神聖な​権能を​授けられた​キリストの​代理と​なる​教会の​聖職者のみが​携わるべき課題ではないのです。​「あなたがたは​キリストの​体であり」38と​言う​使徒聖パウロは、​最後まで​仕事を​続けよと​命じています。

​ な​すべきことは​たくさん​残されています。​二十世紀の​間、​何もなされなかったのでしょうか。​実に​多くの​仕事が​なされました。​熱心に​祖先の​行った​ことを​過小評価するのは、​客観的であるとも、​正当であるとも​思われません。​二十世紀に​わたって​大事業が​行われてきました、​しかも​多くの​場合、​実に​立派に​成就されたのです。​ある​ときは​失敗や​後退も​ありました。​しかし、​今日でも、​勇気や​惜しみない​心と​同時に、​後ずさり、​恐怖、​臆病は​あります。​この​人類と​いう​家族は​絶えず​新たに​入れ替わっています。​それゆえ、​世代毎に、​神の​子と​して​召されている​ことの​偉大さを、​人々が​理解するように、​熱心に​助け続けなければなりません。​創造主と​隣人への​愛の​掟を​しっかりと​伝えなければならないのです。

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