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キリスト信者は​恩恵と​いう​素晴らしい​宝を​土の​器16に​入れて​持っていると​言えるでしょう。​神は​その​賜物を​もろく​壊れやすい​人間の​自由に​任されました。​神の​力に​助けられているとは​言え、​私たちは、​情欲や​安楽や​高慢に​負けて、​しばしば​その​助けを​退け、​罪を​犯してしまうのです。​二十五年以上も​前から、​信仰宣言を​唱え、​一・聖・公・​使徒継承の​神の​教会に​対する​私の​信仰を​宣言する​とき、​幾度と​なく​「たとえ何が​あろうとも」と​付け加えてきました。​この​習慣を​人に​話した​ところ、​そうする​わけを​尋ねられました。​「あなたの​罪や​私の​罪にも​かかわらず」​信じる、​― これが​私の​返事だったのです。

​ 確かに​今申し上げた​通りだと​思っています。​しかし、​対神徳である​信仰を​持たず、​一部の​信者や​聖職者の​素質のみに​注目して、​教会を​人間的に​判断する​ことは​許されません。​これでは​外面しか​見る​ことができないからです。​教会に​おいて​最も​大切な​ことは、​人間が​いかに​神に​応えているかではなく、​神のみ​業を​知る​ことなのです。​教会とは、​私たちの​間に​おられる​キリスト、​救霊の​ために​人々の​間に​来られた​神、​啓示を​もって​人々を​呼び、​恩恵で​聖化し、​絶え間ない​助けに​よって​日常の​大小の​戦いを​支えてくださる​神のみ​業の​顕れなのです。

​ 人間に​対して​不信を​抱く​ことは​できます。​また、​自分を​信じないで​〈わが​過ち〉と​深く​誠実な​痛悔の​祈りを​もって​毎日を​終わらなければならない​ことも​確かです。​けれども​神を​疑う​ことだけは​絶対に​許されません。​教会と​その​神的起源、​宣教や​秘跡の​救済的効果を​疑う​ことは、​神ご自身を​疑う​ことであり、​聖霊降臨に​対しては​徹底的な​不信を​示すことに​なるからです。

​ 聖ヨハネ・クリゾストモは​次のように​記しています。​「キリストが​十字架に​付けられる​前に​神と​人との​間に​和解は​なかった。​そして​和解の​ない間は​聖霊も​送られなかった。​聖霊が​おいでにならないと​いう​ことは、​神の​怒りの​しるしであった。​今や​聖霊が​十分に​送られるのを​見たからには、​和解を​疑ってはならない。​しかし、​誰かが​『今、​聖霊は​どこに​おられるのか』と​尋ねるかもしれない。​奇跡が​行われ、​死者が​蘇り、​重い​皮膚病の​人が​癒される​とき聖霊に​ついて​話すことができよう。​今確かに​聖霊が​おられると​いう​ことは​いかに​してわかるのか。​心配しないで​よい。​今も​我々の​間に​聖霊が​おられる​ことを​示そう。

​ もし聖霊が​おいでにならないなら、​主イエスよ、​と​呼びかける​ことは​できない。​『聖霊に​よらなければ、​だれも​“イエスは​主である​”とは​言えないのです』​(1コリント12・3)。​もしも​聖霊が​おいでにならないと​すれば、​信頼を​持って祈る​ことは​できないだろう。​事実、​祈る​ときには、​『天に​おられる​わたしたちの​父よ』​(マタイ6・9)と​呼びかける。​聖霊が​おいでにならなければ​神を、​父よ、​と​呼ぶことは​できないだろう。​どうして​それが​わかるのだろうか。​使徒が​次のように​教えるからである。​『あなたが​たが​子である​ことは、​神が、​“アッバ、​父よ”と​叫ぶ御子の​霊を、​わたしたちの​心に​送ってくださった​事実から​分かります』​(ガラテヤ4・6)。

​ 父である​神よ、​と​呼びかける​ときには、​あなたの心を​動かして​その​祈りを​与えたのは​聖霊である​ことを​忘れてはならない。​もし聖霊が​おいでにならなかったと​すれば、​教会には、​英知の​言葉も​知識の​言葉も​何も​ないだろう。​『ある​人には​“霊”に​よって​知恵の​言葉、​ある​人には​同じ​“霊”に​よって​知識の​言葉が​与えられ』​(1コリント12・9)と​書かれてあるからである。​もし聖霊が​おいでにならなければ、​教会は​存在していないだろう。​しかし​教会が​存在しているからには、​聖霊が​おいでになることも​確かである」17。

​ 人間の​限界や、​至らなさを​超えて、​教会とは、​世界に​おける​神の​遍在の​しるしであり、​ある​意味では、​普遍的な​秘跡であると​言えます。​ただし、​新約の​七秘跡と​その本質は​教義と​して​定められてありますから、​厳密な​意味で​秘跡であると​いうのでは​ありません。​キリスト信者とは​神から​再生の​恵みを​受け、​救いを​告げる​ために​遣わされた​者の​ことです。​確固たる​信仰、​生き​生きした​信仰を​持ち、​勇敢に​キリストを​告げ知らせる​ならば、​使徒の​時代のような​奇跡が​私たちの​目の前で​行われるに​違い​ありません。

​ 天を​見上げて​神のみ​業を​見る​ことのできなかった​盲人が​視力を​回復し、​激情に​しばられ、​愛する​ことのできなかった​精神障害者や、​足の​不自由な​人が​解放される​ことでしょう。​神に​ついて​聞きたくなかった​耳の​不自由な​人が​聞こえるように、​また​自己の​失敗を​告白したくないが​ために​舌を​縛られていた​口の​利けない​人が​話せるようになり、​罪に​よって​生命を​失った​死人が​よみが​える​ことでしょう。​こうして、​「神の​言葉は​生きており、​力を​発揮し、​どんな​両刃の​剣よりも​鋭」​18い​ことを、​私たちは​納得するのです。​そして​初代教会の​信者のように、​聖霊の​力強さや​人間の​知性や​意志への​働きかけを​眺めて、​喜びに​満たされるのです。

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